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第一部 第七話 戦場の咆哮

第七章 戦場の咆哮


 「北のほう、街が消えたらしいぜ」


 酒場の与太話。誰が言ったかも覚えていない。

 ヴァルグラムの南部駐屯地の飲み屋で、酔っ払いが別の酔っ払いに吐き捨てた一言。


 普通なら聞き流す。この国では街が消えるのは珍しくもない。下院の抗争で集落が焼かれることもあれば、魔獣に飲まれることもある。


 だが——


「トヴァル家だとよ」


 トヴァル家。ノルドヴァル。

 潰しに行くはずだった相手だ。


 ヴァルグラムの下院最下層。上から回されてくる汚れ仕事をこなすしか生きる術がない立場。北方の小王家トヴァル家が、カルディナの記録院に泣きついてタリン王家の末裔を名乗り始めた。ヴァルグラムの支配圏から独立しようとしている。それを「処理」するのが、アルヴィナに回ってきた仕事だった。


「先越されたってことか」


 ドラグが安酒を煽って杯を叩きつけた。


「見に行くか。やった奴がまだいるなら殴り倒して手柄にする」


「あたしも行くー。暇だし」


 ヴェスカが椅子の上で足をぶらぶらさせた。


 それで決まりだった。

 ヴァルグラムの人間に長い議論は要らない。


   *


 北方への街道を馬で三日。


 二日目の昼、前方に人影があった。

 街道の真ん中を一人で歩いている。小柄な体躯。灰褐色のフード。裸足。


「おい、ガキ。このまま北に行けばノルドヴァルに着くか?」


 ドラグが馬を寄せて声をかけた。


 フードの奥から、少年の声。


「……この道を真っ直ぐ。二日ほど」


「ありがとよ」


 それだけ。少年は道の端に避け、一行はそのまま通り過ぎた。


 アルヴィナはちらりと後ろを振り返った。少年が歩いてきた方角——北。ノルドヴァルのある方角だ。


(あの辺りから一人で歩いてきたのか。子供が。裸足で)


 妙だとは思った。だがそれだけだった。

 先を急いだ。


   *


 三日目の朝。


 丘の上に立ったアルヴィナは——言葉を失った。


 何もなかった。


 城がない。街がない。城壁がない。

 一面の灰。青みがかった灰が丘の上を覆い、焼け残った柱の残骸が所々に突き立っている。石壁は溶けて歪な形に固まり、金属は飴のように変形していた。


「……おい」


 ドラグが呟いた。


「これ、マジか」


 マジだった。

 都市一つが——跡形もない。


「普通の火じゃねえな。石が溶けてやがる」


 オルネスが馬を降り、灰を指先で摘み上げた。


「この規模の破壊は見たことがない。軍が攻めた形跡もない。戦闘痕が——ない。一方的に焼かれている」


 全員がしばらく灰の平原を見つめていた。


 シェイラが鼻を動かした。


「……死臭。地面の下にも。多い」


「生きてる奴はいるか」


「微かに——あっちだ」


 崩落した建物の基礎部分。瓦礫に半分埋もれた地下室の入口があった。


 ドラグとシェイラが瓦礫を除ける。中から這い出てきたのは——老人だった。痩せこけ、灰と泥にまみれ、目の焦点が合っていない。


 ヴェスカが水筒を差し出すと、老人は震える手で掴み、貪るように飲んだ。


「何があった」


 アルヴィナが膝をついた。


 だが——老人の口からは、言葉にならない声が漏れるだけだった。


「あ……ぁ……よる……ひ……しろ……い……」


 夜。火。白い。

 それだけ。目が虚ろに泳ぎ、体が痙攣するように震えている。精神が壊れかけていた。


「……もういい。無理させるな」


 アルヴィナは立ち上がった。


 老人から得られたのは三語だけだ。だが灰の平原そのものが語っている。


 通常の火災ではない。軍による攻撃でもない。戦闘痕がなく、一点から全方位に破壊が広がっている——つまり単独の存在がやった可能性が高い。


 そして——


 アルヴィナは南を振り返った。

 自分たちが来た街道の方角。


(二日前。あの街道を、ノルドヴァルの方角から歩いてきたガキがいた)


 この惨状の中から——生きて歩いて出てきた人間がいた。

 子供が。一人で。裸足で。


 偶然の生存者か?

 それにしては——平然としすぎていた。ドラグに道を聞かれた時、あの少年の声に怯えはなかった。街が灰になった直後に歩いてきた人間の声ではなかった。


(生存者じゃない。あのガキは——この街が灰になった後で、ここから歩き出したんだ。動揺もなく。当然のように)


 確証はない。

 だが——嫌な符合だった。


「オルネス。地図を出せ」


「何を考えている」


「トヴァル家はカルディナの記録院からタリン王家の末裔認定を受けていた。トヴァル家だけを潰しても、認定元が残っていれば同じ手口が繰り返される。上からの本当の命令は——芽を摘むことだ。認定元を叩く」


「それはわかっている。だが今の話とどう繋がる」


「仮にだ。仮に、あのガキがこの惨状に関わっているなら——あいつも同じことを考えるかもしれない」


「……トヴァル家を焼いた奴が、次は認定元を狙うと?」


「タリンの名に反応してこれをやったなら——タリンの名の根源を追うのが筋だ。そして認定元はカルディナ方面にある。あのガキは南に向かっていた」


 オルネスが地図を見つめた。


「推測が多すぎる」


「ああ、推測だ。だからこそ——確かめる価値がある。あのガキを見つけて、しばらく一緒に動く」


「一緒に動く? 都市一つ消した可能性のある相手と?」


「可能性だ。まだ確証はない。だから——保護する名目で近づく。子供が一人で街道を歩いている。ヴァルグラムの領域に入れば下院の連中に絡まれる。面倒を見てやるのは自然だろう」


 ドラグが鼻を鳴らした。


「回りくどいな。怪しいなら直接聞けばいいだろ」


「聞いて正直に答える奴がいるか。近くにいれば、そのうちわかる」


「で、本当にあのガキがやった奴だったら?」


「その時は——使う」


 アルヴィナの目が光った。


「あれだけの力を持った存在が、たまたま私たちと同じ方角に向かっている。これを利用しない手はない」


 ジェーンがアルヴィナの顔を見つめていた。


「……また、その目をしてる」


「何の目だ」


「碌なことにならない目よ」


「知ってる」


 六人は馬を南に向けた。


   *


 街道を南に半日。


 シェイラの鼻が反応した。


「——前方。二日前と同じ匂い」


 街道の先を、あのフードの人影が歩いていた。同じ姿。同じ速度。同じ裸足。


 アルヴィナは馬を緩め、隊列ごとゆっくりと少年に追いついた。


「おい、少年」


 声をかけた。今度は馬上から、できるだけ柔らかい声で。


 フードの少年が——ちらりとこちらを見た。


「二日前に会ったな。道を教えてもらった。——ところで、この先はヴァルグラムの領域だ。子供が一人で歩いていると面倒なことになる。どこに行くつもりだ」


「……南へ」


「南は広い。もう少し具体的に言ってくれると助かる」


「…………」


 沈黙。

 フードの奥の目が、こちらを値踏みしている気配がある。


「……カルディナ方面に、用がある」


 アルヴィナの心臓が跳ねた。

 顔には出さなかった。


(カルディナ方面——認定元のある方角だ)


「奇遇だな。私たちも南に用がある。カルディナ方面にな。この先の駐屯地を越えるには通行証が要る。持っていないだろう」


「…………」


「私が一緒にいれば通れる。行き先が同じなら、しばらく一緒に行かないか。子供一人じゃ危ない」


「……危なくはない」


「お前が危なくなくても、お前に絡んだ奴が危ない。ヴァルグラムの下院には血の気の多い馬鹿が多い。無駄な戦いは避けたいだろう」


 少年が——わずかに足を緩めた。

 完全に止まったわけではない。だが歩調が落ちた。


「……名前は」


「アルヴィナ。ヴァルグラムの下院に所属している。お前は?」


「……タロン」


「タロン。いい名だ。北方の古い言葉だな」


「…………」


「行こう、タロン。南は遠い」


 タロンは——少しの間、黙ったまま歩き続けた。

 否定も肯定もしない。ただ——アルヴィナたちの隊列が隣を並走するのを、拒みもしなかった。


 それが承諾の代わりだった。


 アルヴィナは馬上で小さく息を吐いた。


(乗った。とりあえず——近くにいられる)


 このガキが何者なのか。ノルドヴァルと関係があるのか。あの力は本物なのか。

 それは——近くにいれば、いずれわかる。


 ヴェスカが馬を寄せてきて、タロンに手を振った。


「やっほー、タロン君。あたしヴェスカ。よろしくねー」


 タロンはフードの奥から、ちらりとヴェスカを見た。

 何も言わなかった。だが——歩調は乱れなかった。


 ドラグがタロンの背中を睨んでいる。シェイラが金色の瞳を細めている。オルネスは無言で地図を折りたたんでいる。


 ジェーンがアルヴィナの横に馬を寄せた。小声で。


「……保護って言ったけど。あれ、保護が必要な子供に見える?」


「見えないな」


「でしょ」


「だから面白いんだ」


 七人の奇妙な隊列が、街道を南へ動き出した。


 タロンは馬に乗らなかった。

 裸足で——馬と同じ速度で歩いている。


 その事実だけで、この少年が「普通」ではないことは全員が理解していた。

 馬と同速で歩く人間は、この世に存在しない。


 だが誰も、それを口にはしなかった。

 ヴァルグラムの人間は、目の前の現実にいちいち驚かない。受け入れて、利用するか、排除するか。それだけだ。


 アルヴィナはタロンの小さな背中を眺めながら思った。


(このガキが何者であれ——行き先が同じなら、使えるかもしれない)


(そしてもし、あの灰の平原を作った存在なら——)


 その先は、考えないことにした。

 今はまだ、近くにいること。それが全てだ。


 灰色の空の下を、没落貴族と裸足の少年が、同じ方向に歩いている。


 互いの本音は、まだどこにもない。

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