第一部 第六話 業火
第六章 業火
リーシャの父が帰ってきた。
領地の東側の開拓から三週間ぶりの帰還。角笛が鳴り、城門が開き、騎馬の列がノルドヴァルの中央通りを進んでくる。
その日、タロンはいつものように書庫にいた。
窓から城門を見下ろすと、リーシャが階下に駆けていくのが見えた。
「父上! おかえりなさい!」
馬から降りた男に飛びつく少女の姿。
父親は笑って娘を抱き上げ、頬にキスをした。
タロンは——それを、窓の上から見ていた。
(……父と、娘か)
かつての自分もああだった。
帰還した父に飛びつき、「父さん!」と叫んだあの日。
夕刻。
リーシャが書庫に戻ってきた時、その顔は少し緊張していた。
「タロン。父上が、あなたに会いたいって」
「……僕に?」
「うん。わたしが書庫に友達が来てるって話したら、どんな子だって聞かれて。ごめん、黙ってるつもりだったんだけど——父上って、嘘ついてもすぐバレるの」
タロンの体が強張った。
逃げるべきか。だが——リーシャの不安そうな瞳を見ると、逃げられなかった。
「……わかった。会うよ」
「ほんと? 大丈夫、父上は怖くないから。ちょっと声が大きいだけで」
*
ノルドヴァル領主は、悪い人間ではなかった。
がっしりした体格。日焼けした肌。顎に短い髭。
声は大きいが、敵意はない。好奇心に満ちた目でタロンを見て、果実水を勧めてくれた。
「娘が楽しそうにしている。久々のことだ。お前がいてくれて助かった」
帰還祝いと、娘の友人の歓迎を兼ねた宴が催されることになった。
リーシャが跳び上がって喜ぶ。
宴。
あの夜も——宴だった。
ヴォルクハイムで、討伐隊の帰還を祝った、あの夜。
(考えすぎだ。ここはヴォルクハイムじゃない)
自分に言い聞かせた。
*
宴が始まった。
大広間に長い食卓。領主の家臣や使用人たちが集まっている。人間だけではない。獣人の護衛。ドワーフの料理人。多種族の小さな王国の、ささやかな祝宴。
タロンはリーシャの隣で、フードを被ったまま静かに座っていた。
「タロン、楽しい?」
「……うん。賑やかだね」
「でしょ。父上が帰ってくると、いつもこうなるの」
リーシャの空色の瞳が、暖炉の炎に照らされて琥珀色に揺れている。
その隣で、タロンは果実水を一口飲んだ。甘い。
酒が回り始めた頃、領主が立ち上がって杯を掲げた。
「皆、聞いてくれ。東側の開拓は順調だ。来年には新しい鉱山が稼働する」
歓声。
「そして——もう一つ」
領主の声が、少し改まった。
「先日、カルディナの記録院から正式な書状が届いた。我がトヴァル家が、旧アルディナ王国の正統な家系として認定された。すなわち——我々は、タリン王家の血を引く末裔である」
大広間が沸いた。
タリン。
タロンの全身の血が——凍った。
「タリン王家の末裔として、我々は北方の統一に向けて動く。コーカサスだの何だのという化石の時代はとっくに終わった。この地は今、タリンの名の下に新しい時代を——」
歓声が続いている。拍手が鳴っている。
リーシャも目を丸くして父の話を聞いている。
だがタロンの耳には——もう、何も聞こえなかった。
タリン。
コーカサスの骨の上に建てた城で。
タリンの名を掲げて。
コーカサスを「化石」と呼んで。
「おい、フードの少年。お前も祝え。タリンの名の下で食事と寝床を与えてもらっている恩があろう」
恩。
タリンの名の下の、恩。
「父上、やめて——」
リーシャの声。
だがもう遅かった。
「感謝の一つもあって然るべきだ。大体、コーカサスの時代など——」
「——コーカサスの名を」
声が漏れた。
自分の声ではないもの。
「コーカサスの名を——お前らが、踏みにじっていいと思っているのか」
領主が笑った。
「五百年前の化石だろう。今さらコーカサスの名に何の——」
*
——そこから先の記憶が、壊れている。
*
砕けた鏡の破片を拾い上げるように、意識が明滅する。
断片が——順序もなく、脈絡もなく、押し寄せてくる。
*
リーシャが笑っている。
「タロン、これ食べて。フルーツ飴。甘いものを食べると元気が出るんだよ」
空色の瞳。栗色の髪。ゴブリンの菓子屋の前で、頬張りながら笑う横顔。
*
赤い。
壁が赤い。天井が赤い。誰かの叫び声。
椅子が倒れる音。食器が砕ける音。何かが——濡れた音を立てて床に落ちる音。
手が赤い。
自分の手が——赤い。
*
「タロンの笑顔、レアだから値打ちがあるの」
書庫。午後の光。
リーシャが指差して笑っている。タロンの口元が——ほんの少しだけ上がったのを見逃さなかった顔。
*
走っている。誰かが。どこかへ。
追いつかれる。追いつかれた者の声が途切れる。
暖炉の炎が——違う色になっている。
青白い。冷たい。
食卓の上の料理が燃えている。ワインの瓶が割れて赤い液体が広がり、その赤が別の赤と混ざり合っていく。
*
「タロンの手、冷たい」
「……ごめん」
「いいよ。わたしが温めてあげる」
両手で包み込んでくれた。
温かかった。
*
悲鳴。
女の悲鳴。男の怒号。子供の泣き声。
全部が混ざり合って一つの音になっている。うねりのような、波のような、止むことのない——
足元に何かがある。柔らかいものの上を歩いている。
見下ろしてはいけない。見下ろしたら——
*
「ここが、タロンの新しい居場所」
リーシャの声。
書庫の薄暗い中で、灯りのように輝く笑顔。
*
城壁が崩れていく。
石が落ち、砂塵が舞い、その向こうに夜空が見える。
星が出ている。北方の星。五百年前と同じ星座。
星の下で、街が燃えている。
素材屋の角が折れて崩れ落ちた。
あの親父は——もう、いない。
*
「わたし、タロンとの時間が——すごく、好きだから」
*
ゴブリンの菓子屋。
あのフルーツ飴の、甘い匂い。
——燃えている。
小さな緑色の店主が——
見るな。
見るな。
*
「タロンは——こんなことする人じゃない」
*
「タロンの目がすごく綺麗だもん。光ってるみたいに真剣で」
*
「わたし、知ってる。書庫で一緒に本を読んだ。魔獣の話をしてくれた。手を握ってくれた」
*
「あのタロンは——嘘じゃないでしょう?」
*
嘘じゃない。
嘘じゃない。
嘘じゃないんだ、リーシャ。
*
だけど——
*
温かいものが顔に散った。
人間の血は——温かい。
リーシャの手と——同じ温度。
*
「タロンの手、冷たい」
「……ごめん」
「いいよ。わたしが温めてあげる」
*
足元に何かが転がっている。
それが何なのかを考えてはいけない。
歩いている。
どこかへ向かって、歩いている。
*
「ここにいつまでいるの?」
「……わからない」
「じゃあ、ずっといればいいよ」
*
城壁が崩れていく。
石が落ち、砂塵が舞い、その向こうに夜空が見える。
星が出ている。北方の星。五百年前と同じ星座。
星の下で、街が燃えている。
素材屋の角が折れて崩れ落ちた。
ゴブリンの菓子屋が——燃えている。
見るな。
見るな。
*
「覚えてる。約束する」
*
市場の広場。
柱の残骸が倒れかかっている。
その隙間に——何かが動いている。
小さな影。這うようにして、瓦礫の間を逃げようとしている。
足が——そちらへ向かっている。
止めたいのに。止められない。
*
「わたし、タロンとの時間が——すごく、好きだから」
*
——断片が、止まった。
砕けた鏡の破片が、最後の一枚だけ残った。
その一枚に映っているものは——今、目の前にある光景そのものだった。
*
意識が——戻った。
完全に。
鮮明に。
最悪のタイミングで。
*
辺り一面が燃えていた。
青白い炎が建物の残骸を舐め、空を焦がし、石畳を溶かしている。
崩落した城壁の向こうに、夜空が覗いている。星が出ていた。
タロンは——立っていた。
市場の広場だった場所。
その中央に、自分が立っている。
裸足だった。足の下の石畳が焼けるように熱い——はずだが、この体は熱を感じない。
白い髪が風に揺れていた。いつの間にか——黒髪は一筋も残っていない。
外套には赤黒い染みが無数についている。手も同じだった。
そして——目の前に。
崩れた壁に背を預け、逃げ場を失った少女がいた。
栗色の髪は乱れ、灰と煤にまみれている。
白いワンピースは破れ、腕には切り傷がいくつもある。
空色の瞳が——炎の光を映して、異様な色に揺れている。
リーシャ。
彼女は——タロンを見ていた。
ぶるぶると震える体。壁に張り付いた背中。逃げられない。左も右も炎の壁。後ろは崩壊した瓦礫。前には——白い少年。
恐怖。
純粋な、混じりけのない恐怖が、リーシャの全身を支配していた。
あの笑顔は、もうどこにもない。
好奇心に満ちた瞳。タロンの手を包んでくれた温かい手。「タロンの笑顔はレアだから値打ちがある」と言ってくれた声。
全部——恐怖の下に沈んでいる。
リーシャの唇が——震えながら開いた。
「あ——あな、た——」
声にならない声。
喉が枯れている。叫びすぎたのか。煙を吸ったのか。
「あなた——だれ……?」
その問いが——タロンの意識を、二つに引き裂いた。
*
「——あの、誰?」
書庫。朝の光。
扉の前に立つ少女。空色の瞳を大きく見開いて、手にはランプを持っている。
恐怖はない。警戒もない。
ただ純粋な好奇心と——少しの驚き。
「あの……書庫に勝手に入っちゃダメなんだけど。あなた、誰? 使用人の子?」
*
「あなた——だれ……?」
業火。夜の闇。
崩れた壁に張り付く少女。空色の瞳は涙と煤で濁り、炎の光を反射して赤く揺れている。
純粋な恐怖。全身の震え。
この世で最も恐ろしいものを見ている目。
*
同じ声。
同じ言葉。
同じ少女。
だが——二つの「だれ」の間には、壊れた世界が横たわっていた。
*
タロンは——一歩、踏み出した。
灰がさくりと鳴った。リーシャの体が、びくりと震えた。
もう一歩。
リーシャの目から涙が溢れた。声にならない嗚咽が漏れる。
それでも——目を逸らさなかった。
壁に張り付いたまま、震えながら、白い少年を見つめている。
手が届く距離まで来た。
炎が二人を囲んでいる。
青白い光の檻の中で、白い少年と栗色の髪の少女が向かい合っている。
リーシャの瞳に——タロンの姿が映っていた。
白い髪。白い肌。赤黒い染みに覆われた外套。
その姿の奥に——書庫で本を読んでいた少年の面影が、まだ残っている。
恐怖に引き攣った瞳の奥の奥に——まだ、何かを信じようとする光が、消えかけながらも灯っている。
リーシャが——最後の力を振り絞って、口を開いた。
「タロン……なの……? わたしの知ってる……タロン、なの……?」
炎の音。崩れる建物の音。遠くの悲鳴。
その全てが遠ざかって、二人の間だけが静寂に包まれた。
「……ああ」
タロンは答えた。
静かな声だった。
怒りもない。悲しみもない。
ただ——事実を告げる声。
「我が名は——タロン・コーカサス」
リーシャの瞳が——揺れた。
あの家系図に書かれていた名前。
コーカサス家の末子。「遺体は発見されなかった」と記された少年。
タロンと同じ名前だと笑った、あの日。
——同じ名前じゃなかった。
同じ人だったのだ。
「復讐者だ」
リーシャの唇が——微かに動いた。
何かを言おうとした。
タロンの右手から、黒い靄が滲み出た。
刃の形を取るまでもなかった。
靄がリーシャに触れた。
——一瞬だった。
リーシャの体から力が抜け、崩れた壁を滑るようにして、ゆっくりと地面に沈んでいった。
空色の瞳が——最後に映したものは何だったのか。
炎に照らされた白い少年の顔か。
それとも——書庫で並んで本を読んでいた、あの少年の顔か。
タロンには——わからなかった。
リーシャの瞳が閉じた。
苦しまなかっただろう。
一瞬だったから。
風が吹いた。
炎が揺れ、リーシャの栗色の髪を揺らした。
タロンは——しばらくそこに立っていた。
炎に囲まれたまま。
少女の傍に。
何も感じなかった。
*
——翌朝。
灰だった。
辺り一面が——灰。
白くもなく黒くもない、青みがかった灰が、見渡す限りの地面を覆っていた。
建物があった場所には、骨格のような柱の残骸が立ち並んでいる。石壁は溶け崩れ、金属は歪み、木材は跡形もない。
ノルドヴァルが——消えていた。
城も。城下も。市場も。通りも。人々も。
全てが——灰。
タロンは丘の上に立っていた。
夜通し歩いて、都市の外まで来ていた。
振り返ると——かつてノルドヴァルがあった場所に、何もなかった。
灰の平原。朝靄の中で、焼け残った柱が墓標のように立っている。
遠くの丘に——人影が見えた。
都市の外縁部から逃げ出した生存者たちが、灰の平原を呆然と見つめている。
彼らの目に映っていたのは——灰の中に残された、裸足の足跡だけ。
見た者たちは、後に語った。
あれは人間ではなかったと。
あれは災厄そのものだったと。
業火の中に立つ白い影は、冷たく凄絶な花のようだったと。
だが——誰も知らない。
その少年の中が、灰よりもなお空っぽだったことを。
*
タロンは歩いていた。
灰色の空の下を。
北方の荒野を。
どこへともなく。
目的地はない。
目的もない。
——いや。
一つだけ、ある。
復讐者、と名乗った。
死にゆく少女の前で。
ならば——復讐をしなければならない。
誰に。何に。どうやって。
わからない。
だが——名乗ってしまった。
あの空色の瞳の前で。
あの瞳が閉じる瞬間に。
それだけが——この空っぽの器に残った、唯一の方角だった。
北方の空は灰色だった。
五百年前と同じ灰色。
その空の下を、白い少年が一人、歩いている。
復讐者。
タロン・コーカサス。
もう——知りたがりの少年には、戻れない。




