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第一部 第五章 書庫の少年

第五章 書庫の少年


 日課ができた。


 夜明け前に城壁を越え、書庫の窓から侵入する。

 歴史書を読む。途中でリーシャが来る。お茶を出される。魔獣の話をせがまれる。

 日が暮れる前に城を出て、都市の外縁部で夜を過ごす。


 眠る必要はほとんどなかった。この体は二、三日に一度、数時間目を閉じれば十分に機能する。

 食事も同様だ。空腹は感じるが、それは生前のような切実なものではなく、微かな信号のようなものに過ぎない。水だけは定期的に欲した。


 人間ではないのだと、日常の一つ一つが証明してくる。


 だが——書庫にいる間だけは、そのことを忘れられた。


   *


「タロン、これ見て」


 リーシャが分厚い図鑑を抱えてやってきた。革装の表紙には金箔で『北方魔獣図鑑・増補版』と刻まれている。


「お父——父上の書斎から借りてきたの。こっちの書庫には魔獣の本が少ないから」


「……領主の書斎から勝手に持ち出して大丈夫なの」


「大丈夫、大丈夫。父上は最近ずっと領地の東側の開拓に出てて、しばらく帰ってこないもん」


 リーシャは悪びれもせずに図鑑を机の上に広げた。


 タロンの目が、吸い寄せられた。


 ページを埋める精密な挿絵。魔獣の全身図、部位の拡大図、生息域の地図。タロンの時代には存在しなかった、体系的な魔獣学の成果がそこにあった。


(これは——すごい)


 思わず手が伸びた。ページを繰る指先が震えている。

 知的興奮。この感覚は——覚えがある。ハイヴで新しい素材を発見した時の、あの胸の高鳴りと同じだ。


「影這い——載ってる」


 ページの一角に、見覚えのある三条の爪痕の図が描かれていた。


 だが——記述の内容は、タロンの知識と食い違う部分が多かった。


「ここ、間違ってる」


「え?」


「影這いの外殻の密度は脱皮回数に依存する、って書いてあるけど——環境の魔力濃度にも依存する。ハイヴの近くに棲む個体は、同じ脱皮回数でも外殻が二割以上厚くなる」


「……タロン、なんでそんなこと知ってるの」


「え——あ、いや」


「書庫で読んだ、は通じないよ。そんな研究、この世界のどの文献にも載ってないもん。わたし、けっこう調べたんだから」


 リーシャの空色の瞳が、真っ直ぐにタロンを射抜いている。

 疑いではない。純粋な好奇心と、少しの心配が混ざった目。


 タロンは——観念した。


「……昔、直接観察してた。影這いを」


「直接って……黒い森の中で?」


「うん」


「嘘でしょ。黒い森は訓練を受けた狩猟隊でも危険だって——」


「嘘じゃない。でも、すごく昔の話だから」


 嘘はついていない。ただ、「すごく昔」が五百年以上前だとは言えないだけで。


 リーシャはしばらくタロンの顔を見つめていた。

 それから——ふっと笑った。


「わかった。タロンには秘密がいっぱいあるんだね。無理に聞かない。でも——教えてくれることは、全部聞きたい」


「……ありがとう」


「お礼はいいから、続き教えて。影這いの外殻のこと」


 タロンは小さく頷いて、図鑑のページに指を置いた。


 語り始めると——止まらなかった。


 影這いの外殻の構造。脱皮のサイクルと季節の関係。爪痕の深さから縄張りの範囲を推定する方法。光を嫌う性質の生物学的な理由——おそらく外殻の光感受性が加齢と共に増大するため。

 闇の中では姿が消えるように見えるが、実際には外殻の表面構造が周囲の魔力を屈折させて、視覚的な透過効果を生んでいる。


 リーシャは目を輝かせて聞いていた。

 時折「すごい」「それ、初めて聞いた」「本に書いてないよそんなこと」と声を上げる。


 その反応が——タロンの口をさらに軽くした。


 ベオウルフの群れの社会構造。長老種と若年種の役割分担。タテガミに宿る魔力の質が年齢と共にどう変化するか。

 フリヨルド山の高所に棲むアッシュカリブの幼角の希少性と、それが防具素材として最適である理由。

 ドヴォログの待ち伏せ戦術と、その装甲を砕くために必要な力学的条件。

 ヴェルヘンの凍結爆発のメカニズム——死の瞬間に体内の魔力が臨界を超え、周囲の水分を一瞬で結晶化させる。


 そして——フロストヴィヒト。


「凍結グール、だね。わたしも名前は知ってる。怖い話として」


「怖い話じゃないよ。現実の話だ。魔獣に殺された遺体が極寒で放置されると、魔力が浸透して動き出す。知性はない。ただ生者に向かって突進するだけ。でも——」


「でも?」


「生前の戦闘技術の残滓が残っている。元が熟練の戦士だった場合は——とても強い。だから北方の戦士は、必ず仲間の遺体を持ち帰っていた。回収できなければ、次の討伐で敵として再会することになるから」


 リーシャの顔が、少し青ざめた。


「……それ、悲しい話だね」


「悲しい?」


「だって、死んだ仲間と戦わなきゃいけないんでしょう? 顔を知ってる人の遺体が敵になって襲ってくるなんて——想像したくない」


 タロンは——少し驚いた。


 悲しい、という感想。

 タロンの時代、フロストヴィヒトは「事実」だった。悲しいとか怖いとかではなく、ただの日常。遺体は回収するもの。それだけ。


 だがリーシャにとっては——物語の中の悲劇なのだ。


(この子は、そういう世界を知らない。知らずに育った。それは——幸せなことなのかもしれない)


「ねえ、タロン」


「うん」


「タロンが魔獣のことをそんなに詳しく知ってるのは——ただの好奇心じゃないでしょう? 何か、理由があるんだよね」


 鋭い。

 この子は見た目の純真さに反して、核心を突く直感がある。


「……昔、魔獣を研究してた。素材を集めて、分析して、防具を作ってた。それだけのことだけど——僕にとっては、全てだった」


「全て?」


「他に何もなかったから。剣も弱い、体も小さい。家族の中で一番できない子だった。でも、魔獣のことだけは——誰より知っていた。それが、僕の居場所だった」


 言ってから気づいた。

 こんなことを、他人に話したのは初めてだった。

 ラーズにも、ミカエラにも、父にも、言ったことがない。


 リーシャが——タロンの手に、自分の手を重ねた。


 温かかった。

 人間の体温。指先から伝わる、確かな熱。


「タロンの居場所は、なくなっちゃったの?」


「…………うん」


「じゃあ——ここにいればいいよ。この書庫が、タロンの新しい居場所」


 タロンは——リーシャの顔を見た。


 空色の瞳には、涙が滲んでいた。

 タロンの話に——この子が泣いている。


(なんで、泣くんだ。僕の話なんかで)


 タロン自身は泣けなかった。

 あの夜からずっと、涙が出ない。悲しいという感情の輪郭がぼやけて、掴めない。


 なのに——この子が、代わりに泣いてくれている。


「……ありがとう、リーシャ」


 今度は——声が震えなかった。

 小さいけれど、確かな声だった。


   *


 書庫での日々は、穏やかに流れた。


 タロンは歴史書を読み尽くし、次は地誌に手を伸ばした。

 復活後の世界の地理。勢力圏の境界。交易路。都市の分布。

 頭の中に、五百年後の世界地図が少しずつ構築されていく。


 その合間に、リーシャとの会話がある。


「タロン、これ食べて。厨房から持ってきたの」


 焼きたてのパンと、チーズと、干し肉。

 タロンは食事をほとんど必要としない体になっていたが——リーシャの前では、少しずつ口に運んだ。


 味は——わかった。

 パンの小麦の甘さ。チーズの塩気。干し肉の硬さ。

 だがそれは、かつて家族と囲んだ食卓の味とは——どこか違う。

 舌は味を拾っている。だが、それを「美味しい」と感じる回路が、鈍くなっている。


(感情が——少しずつ、薄くなっているのか)


 復活した直後から感じていた違和感。怒りだけは鮮明なのに、他の感情は霧の向こうにある。

 嬉しい、悲しい、楽しい、寂しい——全部、名前はわかるのに実感がない。


 だがリーシャといる時だけ——その霧が、ほんの少しだけ薄くなる気がした。


「あ、タロン。笑った」


「え?」


「今、笑ったよ。ほんのちょっとだけど、口の端が上がってた」


「……そう、かな」


「そうだよ。わたし、見逃さないんだから。タロンの笑顔、レアだから値打ちがあるの」


 リーシャは嬉しそうに笑った。

 タロンは自分の口元に手を当てた。


 笑った。

 本当に?

 自分では気づかなかった。体が勝手に反応したのか。


(僕は——まだ、笑えるのか)


 その事実が——何よりも救いだった。

 同時に、何よりも恐ろしかった。


 笑える自分がまだ残っている。

 だが——いつまで残っているのか。


   *


 ある夜。

 書庫で読書をしていると、リーシャが大きな巻物を抱えてやってきた。


「じゃーん。これ、すごいの見つけちゃった」


 広げられたのは、ノルドヴァルの地下構造図だった。

 都市の下水道、排水路、古い坑道——そして、さらにその下に広がる「旧構造物」の存在が記されている。


「ノルドヴァルの下には、古い城の跡があるんだって。建設の時に発掘されたけど、危険だからって封鎖されてるの。でもほら、ここ——」


 リーシャが指差したのは、地下構造図の一角。

 「旧城塞跡・封鎖区域」と記された場所。


 タロンの心臓が——跳ねた。


 それはヴォルクハイムの地下構造だ。

 大広間の基礎。城壁の土台。そして——ハイヴへの通路の上層部。

 タロンが這い出てきたのは、この封鎖区域の排水路に繋がった部分だった。


「タロン? 顔色悪いよ。大丈夫?」


「……大丈夫。ちょっと驚いただけ」


「やっぱり歴史好きにはたまらないよね、こういうの。古い城の跡だよ? ロマンだよロマン」


 ロマン。

 自分が殺された場所の残骸が——この子にとっては「ロマン」。


 怒りが湧くかと思った。

 だが——湧かなかった。


 リーシャに怒る理由がない。

 この子は何も知らないのだ。何も悪くない。

 五百年前の悲劇なんて、この子にとっては教科書の一行以下の、名前すら残っていない過去でしかない。


 それは——正しい。

 歴史とは、そういうものだ。

 生き残った者が書き、忘れた者が読み、誰もが自分の時代だけを生きる。


 死んだ者の痛みは——記録されない。


「リーシャ」


「ん?」


「……この城の跡に眠っている人たちのこと、覚えていてあげて」


「え? どういう意味?」


「この地面の下に、昔の人たちの骨が埋まってる。名前も知らない、顔も見たことのない人たち。でも——確かに、ここで生きてた」


 リーシャは不思議そうな顔をした。

 だがすぐに——真剣な目で頷いた。


「うん。覚えてる。約束する」


 約束。

 五百年前の死者を覚えていてくれるという、何の効力もない約束。


 だがタロンには——それで十分だった。


 父上。母上。兄上たち。

 この子が、覚えていてくれるそうだ。


 名前も顔も知らないまま。

 でも——確かにここで生きていた人たちがいたことを。


   *


 翌日から、リーシャはタロンを城の外にも連れ出すようになった。


「ずっと書庫に籠ってちゃダメだよ。外の空気を吸わなきゃ」


 ノルドヴァルの市場を一緒に歩いた。

 リーシャは領主の娘だが、気取った様子はまるでない。露店の親父と値切り交渉をしたり、亜人種の子供たちと追いかけっこをしたり。


 タロンはフードを深く被ったまま、リーシャの後ろをついて歩いた。


 多種族の街。

 人間が魔族の隣で笑っている。亜人種の子供が人間の子供と遊んでいる。

 タロンの時代には想像すらできなかった光景。


「タロン、あれ見て。ゴブリンの菓子屋だよ。ここのフルーツ飴、すっごく美味しいの」


 ゴブリン。

 タロンの時代、ゴブリンは地下に棲む厄介な害獣だった。人間の墓を暴き、装備品を盗む卑しい存在。


 そのゴブリンが——菓子屋を営んでいる。


 小柄な緑色の店主が、リーシャに愛想よく声をかける。リーシャは笑顔で二つのフルーツ飴を買い、一つをタロンに差し出した。


「はい、タロンの分」


「……いいよ、僕は」


「ダメ。食べて。甘いものを食べると元気が出るんだよ」


 押し切られて、飴を受け取った。


 口に入れると——冷たい甘さが舌に広がった。果実の酸味と砂糖の甘さ。それがゆっくりと溶けていく。


「美味しい?」


「……うん」


 嘘じゃなかった。

 味覚は鈍くなっている。でも——「美味しい」は、わかった。


 リーシャが隣でフルーツ飴を頬張りながら笑っている。

 その笑顔を見ていると——胸の奥の何かが、微かに脈打つのを感じた。


(これは——何だろう)


 嬉しい、ではない。楽しい、でもない。

 もっと根源的な、もっと小さな感覚。


 生きている、という感覚に近いのかもしれなかった。


   *


 ある晩。

 書庫で二人並んで本を読んでいると、リーシャが唐突に言った。


「タロンは、どこか遠いところに行っちゃうの?」


「……どうして」


「なんとなく。タロンの目を見てると、ここじゃない場所を見てるような気がする時がある。すごく遠くて、すごく暗い場所を」


 鋭い。

 この子は、本当に鋭い。


「……行かなきゃいけない場所があるんだと思う。いつかは」


「いつか、って——明日? 明後日?」


「わからない。でも……まだ、しばらくは」


 リーシャはほっとしたように息を吐いた。


「よかった。もう少しだけ、ここにいて。わたし、タロンとの時間が——すごく、好きだから」


 好き。

 その言葉が、胸の中で反響した。


 反響した——が、響きが薄い。

 鐘を鳴らしたのに、音が遠くでしか聞こえないような感覚。


 確かに何かが鳴っている。

 だが、それが自分の胸の中で鳴っているのか、それとも——記憶の中の、もう失われた感情の残響なのか。


 区別がつかない。


「……僕も、ここが好きだよ。この書庫が」


 言えたのはそれだけだった。

 「リーシャが好き」とは——言えなかった。

 嘘になるかもしれないから。


 好きという感情が、本当に自分の中にあるのか。

 それとも——「好きであるべきだ」と判断して、そう思い込もうとしているだけなのか。


 タロンにはもう、その境界が見えなくなっていた。


   *


 翌朝。


 いつものように書庫に忍び込むと、リーシャが既にいた。

 朝の光が窓から差し込み、栗色の髪を金色に染めている。


「おはよう、タロン。今日はね、すごいもの見つけたの」


 リーシャが広げたのは、古い家系図だった。

 かなり傷んでいるが、かろうじて文字が読める。


「父上の書斎の奥の奥から出てきたの。ノルドヴァルが建つ前の、この地域の家系のまとめ。ここ見て——」


 リーシャが指差した先に——コーカサスの名があった。


 小さな文字。かすれた墨。

 だが確かに——「コーカサス家」と書かれている。


 そしてその下に、家系の名前が並んでいた。

 ヴォジャニグ。ラーズ。ミカエラ。

 次男、三男、四男の名前。


 一番下に——タロン。


「コーカサス家の末子。名前はタロン。ヴォルクハイム陥落時に死亡とされるが、遺体は発見されなかった——って書いてある。面白いよね。タロンと同じ名前だよ」


 タロンは——動けなかった。


 自分の名前が、そこにある。

 五百年前に死んだ少年の名前として。


「ねえタロン、もしかして——タロンの名前って、ここから取ったの? お父さんかお母さんがコーカサス家のファンだった、とか」


「…………」


「タロン?」


 返事ができなかった。

 喉が——詰まっている。


 家系図に並ぶ名前。

 父。母。兄。姉。弟たち。


 全員——「死亡」と記されている。

 コーカサス家の全員が、この紙の上では過去形だ。


 ただ一人。

 「遺体は発見されなかった」と書かれた末子だけが——今、この書庫に立っている。


「……ごめん。ちょっと——外の空気を吸ってくる」


「あ、タロン——」


 リーシャの声を背に、書庫を飛び出した。


 廊下を走り、窓から外に出る。城壁を越え、丘の斜面を転がるように駆け下りた。


 都市の外。誰もいない草地。

 膝をついて、地面に両手を突いた。


 呼吸が荒い。

 体は——平気だ。この体は、どれだけ走っても息切れしない。

 荒いのは、心のほうだ。


(父上。母上。ラーズ兄上。ミカエラ姉上。みんな——)


 泣きたかった。

 叫びたかった。

 だが——涙も声も、出なかった。


 代わりに、右手の指先から黒い靄が滲み出した。


 タロンが意図していない形で、魔力が漏れ出している。

 靄は地面に触れ、草を枯らし、土を黒く焦がした。


(やめろ——止まれ——)


 必死に意識を集中して、魔力を押し戻す。

 靄がゆっくりと引いていく。だが地面には、手のひら大の焦げ跡が残った。


 ……危なかった。

 あのまま漏れ続けていたら、何が起きていたかわからない。


 感情の暴走が、魔力の暴走に直結する。

 この体は——心と力が、直接繋がっている。


(制御しなきゃ。感情を。力を。全部——)


 だが、制御するためには感情を抑え込む必要がある。

 感情を抑え込めば——人間性がさらに薄くなる。


 人間でいようとすれば力が暴走し、力を制御しようとすれば人間でなくなる。


 出口のないジレンマ。


 タロンは草の上に仰向けに倒れた。

 灰色の空を見上げる。


 この空は——五百年前と同じだ。

 ヴォルクハイムの塔から見上げた空と、同じ灰色。


 あの日、ラーズがベオウルフのタテガミをくれた日。

 ミカエラが頭を撫でてくれた日。

 父が「お前は賢い子だ」と言ってくれた日。


 全部——この空の下にあった。


「……帰ろう」


 呟いた。

 だが、帰る場所はもうない。

 帰る場所はこの地面の下に埋まっている。


 立ち上がって、丘を登り始めた。

 ノルドヴァルの城壁が見える。

 その向こうに——書庫の窓が見える。


 リーシャが、待っている。


(……もう少しだけ)


 もう少しだけ、ここにいよう。

 この書庫に。この温もりの中に。


 もう少しだけ——人間のふりを、させてくれ。


 タロンは城壁を越え、窓から書庫に戻った。


 リーシャが、泣きそうな顔で待っていた。


「タロン……大丈夫? わたし、何か変なこと言っちゃった?」


「ううん。大丈夫。ちょっと——懐かしい名前を見て、驚いただけ」


「懐かしい名前?」


「……僕の、知り合いと同じ名前の人がいたから」


「そっか……ごめんね。辛いことを思い出させちゃったんだね」


 リーシャが、また手を重ねてくれた。

 温かい手。人間の手。


 タロンは——その手を、握り返した。


 初めて——自分から、誰かの手を握った。


 リーシャが小さく驚いた顔をして——それから、花が咲くように笑った。


「タロンの手、冷たい」


「……ごめん」


「いいよ。わたしが温めてあげる」


 両手で、タロンの手を包み込んでくれた。


 温もりが——指先から腕へ、腕から胸へと伝わっていく。


 この温もりを、覚えていよう。

 いつか——全ての感情が消えてしまっても。

 この手の温もりだけは、忘れないようにしよう。


 そう思った。


 そう思えることが——まだ人間である証拠なのだと、タロンは信じたかった。

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