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第一部 第四章 灰の王国

第四章 灰の王国


 城に忍び込むのは、簡単だった。


 嘘みたいに簡単だった。


 ノルドヴァルの領主の居城は、丘の頂上に建てられている。ヴォルクハイムがあった場所と——ほぼ同じ位置だ。

 だが規模はずっと小さい。コーカサス家の本城が巨大な石造りの要塞だったのに対し、この城は装飾過剰な館に近かった。塔は細く、城壁は薄い。北方の冬を本気で耐え抜く造りではない。


(こんなので魔獣の侵攻に耐えられるのか?)


 ――ああ、そうか。

 もうそういう時代じゃないのか。


 魔獣は市場で素材として売られ、小型種は荷運びに使役されている。かつての北方を支配していた「命がけの恐怖」は、この都市には存在しないのだろう。


 夜。

 城壁に近づくと、衛兵の配置と巡回のパターンが——見えた。

 闇の中でも目が利く。足音を完全に消せる。壁を蹴って跳べば、三階の窓にも届く。


 生前のタロンなら、隠し通路と知恵でこれをやっていた。

 今は——体そのものが、影になれた。


 窓枠に手をかけ、音もなく館の中に侵入する。

 石の廊下。松明の光。装飾された壁面。

 ヴォルクハイムとは全く違う雰囲気。北方の厳格さはない。代わりにあるのは、どこか南方的な華やかさと——薄さ。


(書庫を探す)


 廊下を移動しながら、間取りを推測する。城の設計には法則がある。領主の私室は最上階。大広間は一階。書庫や記録室は——たいてい地下か、塔の中間階だ。


 三つ目の角を曲がった先に、重い樫の扉があった。扉の上部に刻まれた紋章——書物と天秤。学問の象徴。


(ここだ)


 鍵はかかっていなかった。

 小王家の書庫に忍び込むような奇人が、この平和な都市にはいないのだろう。


 扉を押し開けると——本の匂いがした。


 紙とインクと、古い革と、微かな埃の匂い。

 その匂いが——タロンの胸の奥の、ほとんど死にかけていた何かを、小さく揺さぶった。


(ジイの部屋の匂いだ)


 お付きの賢者の書斎。夜な夜な忍び込んでは、魔獣の書物を読み漁った場所。

 あの匂いと、同じだ。


 書庫は広くはなかったが、壁面を埋め尽くす棚に、数千冊の書物がぎっしりと詰まっていた。

 タロンは棚に近づき、背表紙の文字を目で追う。


 歴史書。地誌。法典。家系図。魔法の教本。交易記録。


(歴史書だ。まずは歴史書を)


 手を伸ばし、最も分厚い一冊を引き抜いた。

 『アルディナ通史・改訂第七版』。


 改訂第七版。

 つまり、少なくとも七回は改訂されるほどの時間が経過している。


 タロンは読書用の机に腰を下ろし、ページを開いた。


   *


 読み始めて——止まれなくなった。


 一ページ、また一ページ。文字が目に飛び込んでくる速度は、生前とは比較にならないほど速い。この体の強化された認知能力は、読書にも適用されるらしい。


 だが、速く読めることが幸福だとは限らなかった。

 速く読める分だけ、残酷な事実が次々と流れ込んでくる。


 ——コーカサス家は、タロンの世代で断絶した。


 公式な歴史書にはそう書かれていた。「タリン家による粛清」とは書かれていない。「北方の領主家が内紛と魔獣の大規模侵攻により滅亡」という、当たり障りのない記述。


(嘘だ。内紛じゃない。あれは——タリン家の襲撃だ)


 拳が白くなるほど握りしめた。

 だが——歴史書に抗議しても、仕方がない。


 読み進める。


 コーカサス家の滅亡後、リューヤクの「人類王」構想は短期間だけ実現した。タリン家を中心に五家の再編が行われ、アルディナの統一が目指された——が、それは長くは続かなかった。


 内部の反発。元老院との対立。そして——瑩洲からの侵攻。


 李家がドリンダメア海を渡り、アルディナに橋頭堡を築いた。

 だがその李家も、内部の勢力——アサラム家の長によって滅ぼされた。

 そしてそのアサラムの長も、突如として姿を消した。


 残された軍は指導者を失い、しかし解散するのではなく——自律的に再編成された。

 決闘と武勲で地位を得る。力こそが全て。

 それが「ヴァルグラム」と呼ばれる勢力になった。


(ヴァルグラム……)


 一方、カルディナの王都では元老院が独自の進化を遂げ、学者と技術者による統治——「ノヴァ・カルディナ」が成立。

 西方のセラフィル家だけが、旧体制のまま生き残っている。聖女ベアトリーチェの指導のもとに。


(ベアトリーチェが——まだ、生きている?)


 タロンの時代でも年齢不詳と言われていた存在。それが数百年後もなお指導者として君臨している。

 永世。

 人間にはあり得ない寿命。それが——何を意味するのか。


 タリン家の項目を開いた。


 タリン家は——滅んでいた。


 「原因不明の内部崩壊により、タリン家は一夜にして壊滅した。王家の血を引く者は一人として生き残らなかったとされる」


 一夜にして。

 原因不明の内部崩壊。


(……誰かが、内側から滅ぼした?)


 その記述の奥に、タロンは何かの影を見た気がした。

 だが、それが何なのかは——まだ、わからない。


 五家の行方を追っていくと、この数百年の間に世界がどれほど変わったかが浮き彫りになった。


 人間と魔族の境界は溶け、多種族が混在する社会が形成された。

 かつての「人間の世界」は、もう存在しない。

 タロンが生まれ育った世界の常識は——全て、過去のものになっていた。


 一冊目を読み終え、二冊目に手を伸ばす。三冊目。四冊目。


 時間の感覚がなくなった。

 窓の外が白み始めていることにも気づかず、タロンはページを繰り続けた。


 知りたかった。

 全てを知りたかった。

 この五百年で何が起き、誰が生き、誰が死に、世界がどう変わったのか。


 それは——かつてハイヴで魔獣の素材を分析していた時と、同じ衝動だった。

 知ること。理解すること。パターンを見出すこと。

 それだけが、タロンの中でまだ確かに機能している「人間だった頃の自分」だった。


   *


「——あの、誰?」


 声がした。


 タロンの体が反射的に椅子から飛び上がった。

 右手に意識を集中する——黒い靄が指先に凝固し始め、一瞬で短剣の形を取ろうとする。


 だが。


 扉の前に立っていたのは——少女だった。


 栗色の髪を肩で切り揃え、空色の瞳を大きく見開いている。年齢はタロンの外見と同じくらいか、少し上。白いワンピースの上に薄手のショールを羽織り、片手にはランプを持っている。


 タロンの右手の靄が——ゆっくりと消えていった。

 少女はそれに気づいていない。ランプの光では、フードの奥の手元までは見えなかったのだろう。


「あの……書庫に勝手に入っちゃダメなんだけど。あなた、誰? 使用人の子?」


 声は怯えていなかった。不思議そうに、好奇心を含んだ目でタロンを見ている。


 タロンは素早く状況を判断した。


 逃げるか。黙らせるか。

 ——いや。


「……すみません。勝手に入りました。書物を読みたくて」


 嘘ではない。実際に読んでいた。


「書物を? こんな朝早くから?」


 少女は首を傾げたが、タロンの言葉を疑う様子はなかった。

 代わりに、彼の前に積まれた書物の山を見て——目を輝かせた。


「すごい。一晩でこんなに読んだの?」


「……はい」


「『アルディナ通史』も読んだの? あれ、すっごく分厚いのに」


「面白かったので」


 嘘だ。面白いどころの話ではない。自分の家族が殺され、世界が滅び、全てが変わった記録を「面白い」と言う人間はいない。

 だが——少女の前では、そう言うしかなかった。


「わたし、リーシャ。この城の——えっと、まあ、ここに住んでるの。あなたは?」


 この城に住んでいる少女。

 掲示板に書かれていた小王家の名前を思い出す。つまり——領主の娘か、あるいは親族。


「僕は——」


 名前を、どうする。

 タロン・コーカサス。コーカサス家は滅んだ家系だ。その名前を名乗れば、面倒なことになるかもしれない。

 だが——


「タロン。ただのタロンです」


 姓は伏せた。だが名前は——本当のものを使った。

 偽名を名乗るほど、器用にはなれなかった。


「タロン……変わった名前。北方の古い言葉だよね」


「そうです」


「ねえタロン、本当に本が好きなの? だったら——今度はちゃんと正面から来てよ。わたしが案内してあげるから」


 リーシャは笑った。

 無邪気で、屈託がない笑顔。そこには警戒も疑いもなかった。


 タロンは——何と返せばいいかわからなかった。


 この数百年で初めて向けられた、敵意のない笑顔。

 それが、胸の奥のぼやけた感情を——ほんの少しだけ、揺さぶった。


「……ありがとう、ございます」


 ぎこちない言葉だった。

 声が震えたのは——寒さのせいではない。


   *


 リーシャは、不思議な少女だった。


 翌日も、その翌日も、書庫を訪れるたびにリーシャがいた。

 正面から来いと言ったのは彼女だったが、タロンが正門から堂々と入れるはずもない。結局、窓から侵入するたびにリーシャが「また窓から来たの?」と呆れ顔で出迎えてくれるのが日課になった。


「これ、お茶。夜通し読むなら、せめて温かいものを飲んで」


「……ありがとうございます」


「敬語やめてよ。わたしたち、同じくらいの歳でしょう?」


 同じくらいの歳。

 タロンは苦笑——できなかった。表情筋が、微笑みの形を忘れかけている。


(僕の本当の年齢は、五百歳以上なんだけどな)


 リーシャはタロンの顔を覗き込んだ。


「ねえ、タロンってあんまり笑わないよね」


「……そう、ですか」


「ほら、また敬語」


 リーシャは頬を膨らませて、タロンの隣の椅子に座った。


「タロンは何を調べてるの? 歴史書ばっかり読んでるけど」


「……この土地のことを知りたくて。僕は遠くから来たから、何も知らないんです——知らないんだ」


「遠くから? どこから?」


「……とても遠い場所」


「ふーん。秘密なんだ」


 リーシャは気にした様子もなく、自分も本を一冊引っ張り出して読み始めた。


 並んで座っている。

 同じ書庫で、同じ時間を過ごしている。

 ただそれだけのことが——タロンにとっては、途方もなく不思議な体験だった。


 リーシャは純真だった。

 疑うことを知らない。タロンのフードの奥にある白すぎる肌にも、不自然な眼の色にも、一切触れようとしない。見えていないのではなく——気にしていないのだ。


 それが優しさなのか、無知なのか、あるいはその両方なのか。


 タロンには——判別がつかなかった。

 だが、少なくとも。

 リーシャの隣にいる時間だけは、胸の奥の暗い炎が少しだけ静かになる気がした。


   *


 日が経つにつれ、リーシャはタロンに色々なことを教えてくれるようになった。


「ノルドヴァルは百五十年くらい前に建てられた都市だよ。ここにはその前にも小さな集落があったんだけど、フリヨルド山からの鉱物資源が見つかって、一気に大きくなったの」


「百五十年……」


「うん。うちの家系がここを治めるようになったのは五代前からで——あ、でも『治める』って言っても、周辺の村を含めても人口は一万人くらい。大した領地じゃないんだけどね」


 一万人。

 コーカサスの時代のグロムガルドが四万を超えていたことを思えば、小さい。


「この場所に、昔は何があったか知ってる?」


 自分で聞いておいて、胸が締め付けられた。


「んー、言い伝えはあるよ。大昔、北方を治めてた貴族の城があったんだって。でも戦争で壊されて、そのまま放棄されたらしい」


「……その貴族の名前は」


「えっと、なんだっけ……あ、コーカサス。コーカサス家っていう名前だったと思う。でも、すごく昔の話だよ? 五百年とか六百年とか前の。書庫に詳しい記録は残ってないんだ。うちの家系には関係ない、もっと前の時代だから」


 うちの家系には関係ない。

 もっと前の時代。


 タロンは何も言えなかった。


(関係ないか。そうだよな。五百年も前に滅んだ家のことなんて——この子にとっては、お伽噺と同じなんだ)


 リーシャは続けた。


「でもね、わたしちょっとロマンチストだから、そういう話好きなの。昔の騎士とか、古い家系とか。タロンもそうでしょう? だから歴史書ばっかり読んでるんでしょう?」


「……うん。そうかもしれない」


「やっぱり。タロンって、どこか古い感じがする。言葉遣いとか、ものの見方とか。現代っ子じゃないっていうか」


 リーシャの観察眼は、子供のものとは思えないほど鋭かった。


「ねえ、タロン。このあたりの魔獣について知ってる? 最近、フリヨルド山のベオウルフの群れが南下してきてるって話があるの。父上が心配してた」


「ベオウルフ——」


 反射的に口が開いた。


「ベオウルフは冬に活動が活発になる。雪解けの時期には縄張り争いが激化するから、追い出された群れが南下してくることがある。長老種が率いる群れなら五匹程度の構成で——」


 途中で口を噤んだ。


 リーシャが、目を丸くしてタロンを見つめていた。


「……すごい。タロン、魔獣にも詳しいんだ」


「い、いや。書庫で読んだだけ——」


「嘘。そんな詳しいこと、うちの書庫には書いてないもん。タロン、前にどこかで魔獣のことを勉強してたの?」


 また口が滑った。

 ラーズの前で「長老種のタテガミだ」と言ってしまった時と——同じ失敗。


 五百年経っても、この癖は治っていなかった。


「……昔、少しだけ」


「少しじゃないよ、それ。わたしの家の狩猟隊の隊長より詳しい」


 リーシャは身を乗り出した。


「ねえ、もっと教えて。ベオウルフのことも、他の魔獣のことも。タロンの知ってることを全部聞きたい」


 その目が——真っ直ぐにタロンを見ていた。

 好奇心に満ちた、空色の瞳。

 そこに含まれているのは純粋な興味であって、野心でも疑惑でもない。


 タロンの中で、何かが軋んだ。


 この目を——知っている。

 鏡の中で、何度も見た目だ。


 知りたいだけ。

 ただ知りたいだけ。

 それが何になるかなんて考えていない。知ること自体が目的で、知ること自体が喜びで。


 リーシャのあの目は——かつてのタロン自身の目だった。


「……うん。いいよ。話す」


 気がつけば、そう言っていた。


 リーシャの顔がぱっと明るくなった。

 書庫の薄暗い中で、その笑顔だけが灯りのように輝いている。


 タロンは——笑えなかった。

 だが、胸の奥のぼやけた何かが、ほんの僅かだけ温かくなったのを感じた。


 それが「嬉しい」という感情なのかどうかは、もうわからなかったけれど。


   *


 それから数日間、タロンとリーシャは書庫で過ごした。


 タロンは歴史書を読み続けた。

 リーシャはその隣で自分の本を読んだり、タロンに質問したり、お茶を持ってきたり、城の裏庭から花を摘んできて書庫の窓辺に飾ったりした。


 少しずつ——タロンの言葉数が増えていった。


 敬語が取れた。

 「すみません」が「ごめん」になった。

 「ありがとうございます」が「ありがとう」になった。


 リーシャが笑うたびに、タロンの中の凍りついた何かが——ほんの少しだけ、溶けていく気がした。


「ねえタロン。ここにいつまでいるの?」


「……わからない」


「じゃあ、ずっといればいいよ。わたし、話し相手がいなくて退屈だったの。父上は忙しいし、使用人たちはわたしと遊んでくれないし。タロンが来てから、毎日楽しい」


「……僕なんかでいいの」


「タロンなんか、じゃないよ。タロンがいい。タロンは本を読んでる時の目がすごく綺麗だもん。光ってるみたいに真剣で」


 タロンは——言葉に詰まった。


 綺麗。

 この目が、綺麗。


(この目は——ヴォルグに「化け物の芽」と呼ばれた目だ)


 ヴィジュアが恐れ、ヴォルグが殺す理由にした、あの目。

 それを——この少女は「綺麗」と言った。


「タロン? どうしたの? 変なこと言っちゃった?」


「……ううん。何でもない」


 ない。何でもないはずがない。

 だが、この感情に名前をつける言葉を、タロンは持っていなかった。


 窓の外では、北方の短い夏が過ぎようとしていた。

 空は灰色から水色に変わり、また灰色に戻る。

 フリヨルド山の頂には、まだ雪が残っていた。


 あの山に——ベオウルフはまだいるのだろうか。

 影這いは、黒い森の奥でまだ爪痕を刻んでいるのだろうか。


 そしてハイヴの最深部では——あの巨大な何かが、まだ脈動しているのだろうか。


(考えるな。今は——ここにいろ)


 リーシャが差し出してくれた茶を受け取る。

 温かかった。


 この温もりが——永遠に続かないことを、タロンの中の「何か」は既に知っていた。

 だがタロン自身は——まだ、それに気づかないふりをしていた。

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