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第一部 第三章 奈落の底から

今回から一応本編スタートということで一部と付けさせてもらいます!

終わりまではもう決めているのでご安心を。

第三章 奈落の底から


 最初に戻ってきたのは、音だった。


 水が滴る音。

 規則的に、一滴、また一滴。石を穿つような硬い音が、途方もない静寂の中で反響している。


 次に——痛み。

 いや、痛みとは違う。全身を覆う、言葉にできない違和感。皮膚の下を何かが這い回っているような、骨の芯が脈動しているような、自分の体が自分のものではないような感覚。


 指が動いた。


 泥を掴んだ。冷たく、湿った泥。指先にざらりとした感触が走り——その情報量に、意識が悲鳴を上げた。


 泥の温度。粒子の大きさ。含まれる鉱物の種類。魔力の残留濃度。

 触れただけで、全てが流れ込んでくる。以前の何倍も、何十倍も鋭敏になった感覚が、処理しきれない情報を脳に叩き込んでくる。


「——っ」


 声が出た。

 喉が震え、空気が肺を通過し、声帯が振動する。その一連のプロセスが、まるで初めて体験するもののように意識に引っかかった。


 目を開けた。


 闇。

 完全な闇。光は——ない。


 だが、見えた。

 闇の中に、輪郭がある。石壁の凹凸。天井から垂れ下がる鍾乳石。床に散乱する破片の山。

 光がなくても見える。目が、以前とは別のものを捉えている。


(……ここは)


 記憶が——遅れてやってきた。


 断片的に。順序もなく。

 雪。森。瓶。剣。血。炎。落下。

 胸の中心を貫く冷たい鋼の感触。

 そして——


 ヴォルグの、歪んだ顔。


「…………っ!」


 体が跳ね起きた。

 反射的に胸を押さえる。そこには穴があるはずだ。心臓を貫かれたのだから。


 ——何もなかった。


 服はない。裸の胸に手を当てると、なめらかな皮膚の下で心臓が力強く鼓動していた。穴どころか、傷痕すらない。


(僕は——死んだはずだ)


 手を顔の前に持ってくる。

 闇の中でも、その輪郭ははっきり見えた。細い指。白い肌。自分の手だ。

 だが何かが違う。色が——白すぎる。まるで雪のように血の気がない。


 立ち上がろうとした。

 足に力を入れた瞬間——


 体が、跳んだ。


 意図したよりもはるかに高く、はるかに速く。天井にぶつかりそうになって慌てて手を伸ばし、鍾乳石を掴んで制動する。

 掴んだ鍾乳石が——握力だけで砕けた。


 破片が闇の中を落下していく。

 カラカラと乾いた音を立てて、遠い底に着地する音がした。


「……なんだ、これ」


 自分の声が、耳に奇妙に響いた。

 変わっていない。声変わり前の、少年の声。

 だが——体は、明らかに「別のもの」になっていた。


 ゆっくりと、注意深く着地する。

 今度は力を抑えて。足裏が泥に沈む感触を確かめながら。


 周囲を見回した。


 ここは——ハイヴの最深部だ。

 かつて自分の工廠だった場所。だが、見る影もない。


 棚は全て崩壊し、瓶は粉々に砕けている。壁面を覆っていたオレンジ色の植物は枯れ果て、その残骸が黒い粉になって床に堆積していた。


 あれだけ集めた素材——影這いの外殻、ベオウルフのタテガミ、アッシュカリブの幼角、ドヴォログの装甲片。

 全てが砕け、溶け、混ざり合って泥の一部になっている。


(全部——なくなってる)


 いや。

 なくなったのではない。


 タロンは自分の手を見つめた。この白い肌の下に流れる、異常な力の奔流。触れたものの全てを分析してしまう過敏な感覚。重力を無視するかのような身体能力。


 素材は——自分の中にあった。


 数百もの瓶から漏れ出した魔獣の因子が、長い長い時間をかけて白骨に染み込み、肉体を再構成した。タロンが生前に集め、分類し、配合の研究をしていた素材たちが——設計図のように機能して、この体を作り上げた。


 理解が追いつかない。だが、体が先に動いていた。


 瓦礫の中に半ば埋もれた作業台の破片が目に入った。かつて自分が防具を組み上げていた台。その角が鋭く折れている。

 何気なく手を伸ばした——その瞬間。


 指先から、黒い何かが滲み出した。


「——えっ」


 液体ではない。固体でもない。タロンの肌から湧き出した暗い靄のようなものが、指先から手のひらへ、手のひらから手首へと伝わっていく。

 それは——形を持ち始めた。


 影這いの外殻に似た黒い光沢。ドヴォログの装甲の鉱物質的な重さ。ベオウルフのタテガミの柔軟な繊維質。

 かつてタロンが素材術で組み上げていた防具の構造が——魔力によって、手の上に再現されていた。


 手甲。

 指先を覆う、薄く硬い手甲が、まるで最初からそこにあったかのように手に馴染んでいる。


「これ——僕の、中から……?」


 右手を握り、開く。手甲は体の一部のように動く。

 試しに意識を集中すると——手甲は霧のように溶けて、肌に吸い込まれるようにして消えた。


 もう一度、意識する。

 今度は別のイメージ。剣。生前にハイヴで作っていた、魔獣の骨を芯にした短剣の形。


 右手の中に——重さが生まれた。


 握った掌の中に、黒い刃が凝固していく。柄の感触。刃の重心。全てが、記憶の中にある短剣と寸分違わない。

 いや——寸分違わないどころか、生前の手作りよりはるかに精度が高い。素材の配合が分子レベルで最適化されたかのような、完璧な一振り。


(僕の体に染み込んだ素材が——僕の記憶に応じて、形を成す……?)


 短剣を握ったまま、しばらく呆然とした。

 やがて、力を抜くと——剣は再び靄になって掌に吸い込まれ、消えた。


 これは素材術ではない。

 幾何学魔法でもない。

 タロンの知る魔法の分類体系のどこにも当てはまらない、全く新しい何かだった。


(……便利だけど。これは——人間の技じゃない)


 自分が「何」になったのか。その答えが、また一歩遠ざかった気がした。


(上に行かなきゃ)


 螺旋状の通路を見上げる。

 かつては壁面を這うように植物が生え、オレンジの光を灯してくれていた道。今はただの暗い縦穴だ。

 だが——闇の中でも見える目には、壁面の凹凸が明瞭に映っている。


 タロンは壁を蹴って跳んだ。

 一度の跳躍で、十メートル近く上昇する。壁の突起を掴み、次の足場を見つけ、また跳ぶ。


 以前は何分もかけて慎重に登り降りしていた螺旋の通路を、ものの数十秒で駆け上がっていく。


 体が軽い。あまりにも軽い。

 だが同時に、この体が自分のものである実感が薄い。まるで他人の体を借りて動いているような——


 登りながら、壁面に残った痕跡が目に入った。

 タロンが貼っていたラベルの残骸。「影這い」「ベオウルフ」「未分類」——かつての自分の字が、かろうじて読み取れる。


 文字は掠れ、紙は朽ちかけていた。

 何年経てば、紙はここまで劣化するのだろう。


(十年? 二十年? ——いや)


 壁面の石灰の堆積量。鍾乳石の成長度合い。植物の完全な枯死と分解の進行状況。


 タロンの頭が——もはや人間離れした精度で——自動的に計算を始めていた。


(百年以上。いや——もっとだ。数百年。下手をすれば——)


 計算の結論を出す前に、通路の終わりが見えた。

 かつて石板で塞いでいた隠し通路の入口。石板は既に崩落しており、その向こうに——僅かな空気の流れがあった。


 外の空気だ。


 タロンは崩れた石板の隙間を這い抜けた。

 倉庫だったはずの空間は完全に崩壊し、瓦礫と土砂で埋もれていた。だが天井の一部が落ちて穴が開いており、そこから細い光が差し込んでいる。


 光。

 数百年ぶりの、光。


 その光に向かって、瓦礫を掻き分けて登る。

 石を掴み、土を払い、体を引き上げ——


 地上に出た。


   *


 最初に感じたのは、風だった。


 冷たい、だが記憶にあるほど刺すような寒さではない。季節が違うのか、それとも——


 目が光に順応するまで、数秒かかった。

 地下の完全な闇に慣れた視界が、強制的に切り替わる。


 そして——タロンは、息を忘れた。


 ヴォルクハイムは、なかった。


 コーカサス家の城は、影も形もない。城壁も、塔も、大広間も、あの石造りの階段も——何一つ残っていなかった。


 代わりにそこにあったのは——都市だった。


 巨大な都市。

 タロンが知るグロムガルドとは全く違う。石と木で作られた素朴な北方の街並みではなく、白い石材と金属の骨組みで構築された、見たこともない建造物が林立している。


 塔がある。だがヴォルクハイムの塔とは比べ物にならないほど高い。天を衝くように聳え立ち、その表面にはルーン文字とも幾何学模様とも違う、見知らぬ紋様が青白く発光している。


 通りがある。だが石畳ではない。滑らかな素材で舗装された道を、人々が——人々?——行き交っている。


 タロンは身を低くして瓦礫の陰に隠れた。

 這い出た場所は、都市の外縁部——おそらく下水道か排水路の出口付近のようだった。崩壊したハイヴの上層部が、この都市の地下インフラと繋がっていたらしい。


 目を凝らして、通りを歩く人々を観察する。


 人間がいた。それは見てわかる。

 だが——人間だけではなかった。


 角を持つ者。尾を持つ者。肌の色が緑や灰色の者。人間の倍以上の体格を持つ者。逆に、子供ほどの大きさしかない者。


 魔族。亜人種。

 そして人間。

 それらが——同じ通りを、同じ方向に歩いている。


(……は?)


 タロンの知る世界では、魔族は敵だった。

 排除すべきもの。戦うべきもの。人間社会の外にある脅威。


 それが——普通に、隣を歩いている。

 商人らしき人間が、角の生えた亜人種と何か言葉を交わして笑っている。

 鎧を着た灰色の肌の戦士が、人間の子供に道を譲っている。


(何だこれは。何が——どうなってるんだ)


 めまいがした。

 体の異変ではない。現実そのものが、記憶と噛み合わない。


 タロンは視線を上げた。

 都市の中心部——最も高い塔の頂上に、旗が翻っている。


 そこに描かれた家紋を見て、タロンの目が凍りついた。


 コーカサス家の紋章ではない。

 タリン家の紋章でもない。

 セラフィル家でも、ナヴァルコス家でも、ガラン家でもない。


 見たこともない紋章。

 交差する二本の剣の上に、炎の冠。


 知らない家紋が——かつてヴォルクハイムがあった場所で、翻っている。


(コーカサスは——どこに……)


 胸の奥で、何かが軋んだ。

 それは痛みに似ていたが、もっと深い場所から来ていた。存在そのものが否定されるような、根源的な喪失感。


 タロンは瓦礫に背中を預け、空を見上げた。

 空は灰色だった。それだけは変わっていない。北方の空は、いつの時代も灰色だ。


 だが——あの雪は降っていなかった。

 あの、音もなく降り積もる雪は。


 季節が違うのかもしれない。あるいは——気候そのものが変わったのかもしれない。


(何年、経ったんだ)


 答えを出すのが怖かった。

 だが、目が勝手に情報を集めてしまう。


 瓦礫の石材の風化度合い。地層の堆積。植生の変化。都市の建造物に使われている技術の進歩度合い。


 全てが——百年や二百年では説明がつかないことを示していた。


(……五百年。いや——もっとかもしれない)


 五百年。

 父は死んだ。母も。兄たちも。

 五百年前に。


 ミカエラ姉上は——


(姉上は……)


 わからない。あの夜、何が起きたのか。全員が殺されたのか。それとも——


 考えがまとまらなかった。

 頭の中が嵐のように渦巻いている。新しい体に流れる異常な力と、五百年分の喪失が、同時に押し寄せてくる。


 タロンは自分の手を見た。

 白い、細い手。生前と同じ——少年の手。


 だが爪の色が微かに暗い。肌の質感がどこか不自然だ。体温を感じない。いや——感じているが、それは人間の体温とは違う何かだ。


(僕は——何になったんだ)


 通りから声が聞こえてくる。

 人々の笑い声。商売のかけ声。荷車の車輪が舗装路を転がる音。

 日常の音。平和の音。


 それが——ひどく遠い。

 手を伸ばしても届かない場所で鳴っているように感じる。


 タロンは膝を抱えた。

 崩壊したハイヴの出口の瓦礫の陰で、裸の少年が一人、膝を抱えて座っている。

 数百年前の記憶と、理解不能な現在の狭間で。


 泣きたかった。

 だが——涙が出なかった。


 悲しいのか。怒っているのか。怖いのか。

 感情が——よくわからない。

 あるはずのものの輪郭がぼやけている。手で掴もうとすると、指の間からすり抜けていく。


(泣けない。なんで——泣けないんだ)


 そのことが、何よりも恐ろしかった。


   *


 日が傾き始めた頃、タロンは動き出した。


 じっとしていても何も変わらない。

 まず必要なのは情報だ。ここがどこで、今がいつで、世界がどうなっているのか。


 それと——服。


 裸のままでは流石にまずい。


 ハイヴの中で見つけた能力を思い出す。素材を体から生み出す力。

 意識を集中すると、肌の表面から暗い繊維が滲み出し——体を覆うように広がっていった。影這いの外殻の柔軟な層を薄く引き伸ばしたような、黒い外套。フードも自然に形成される。


 鏡がないから見た目はわからないが、触った感触は布に近い。ただし——色が黒すぎる。光を吸い込むような、不自然な暗さ。

 

(これじゃ目立つな……)


 さらに意識を調整する。色を変えることはできるか。

 ——できた。完全ではないが、灰褐色くらいまでなら。あとは汚れた旅人の外套に見えないこともない。


(まあ……及第点か)


 魔力で生み出した衣服を纏うと、少しだけ気持ちが落ち着いた。

 自分の力で作ったものだ。誰かから奪ったわけじゃない。

 それが——今のタロンにとっては、わずかな救いだった。


 裏路地から通りの様子を窺う。

 人の流れ。商売の声。荷車。そして——鎖に繋がれた小型の魔獣が荷物を運んでいる。


(魔獣を、使役してる……?)


 信じられない光景だった。

 コーカサスの時代、魔獣は殺すか逃げるかの対象だった。それが今では——家畜のように使われている。


 通りに出た。

 フードを目深に被り、人混みの端を歩く。


 すれ違う人々の視線は——タロンに向かなかった。

 フードを被った小柄な人物など、この都市では珍しくもないのだろう。人間も魔族も亜人種も、それぞれの装いで行き交っている。多様性が当たり前の世界では、一人が少し変わっていても誰も気にしない。


(これは——助かる)


 商店が並ぶ通りを歩きながら、看板や掲示物に目を走らせる。

 文字は——読めた。タロンの時代のアルディナ共通語と基本的な構造は同じだが、知らない単語や表記法がいくつもある。言語は変化しているが根幹は残っている。数百年程度では、言語は完全には変わらない。


 市場に近づくと、喧騒が増した。

 様々な種族の商人が声を張り上げ、見たこともない品物が並んでいる。


 その中に——素材屋があった。


 タロンの足が止まった。


 店先に並んでいるのは、魔獣の素材だ。骨片、牙、鱗、体液の瓶詰め。

 だがその品揃えは、タロンの知識をはるかに超えていた。


 見たことのない魔獣の部位。知らない加工技術で処理された素材。そして——値札。


(安い。こんなに安いのか)


 タロンの時代、魔獣の素材は命がけで採取するものだった。一つ一つが血と汗の結晶であり、素材術の知識がなければ価値すら判断できなかった。


 それが今は、市場で——野菜のように売られている。


 素材術が一般化し、流通が確立し、かつては秘伝だった知識が大衆のものになった。

 それ自体は、良いことなのかもしれない。


 だがタロンの胸の奥で、何かが冷たく沈んだ。


(僕が命がけで集めて、研究して、大切にしていたものが——こんな簡単に手に入る時代になったのか)


 自分の人生の全てだった研究が、数百年の時を経て「当たり前」になっている。

 世界は進み、自分はハイヴの底で眠っていた。


 皮肉なことに——その「当たり前」の素材が、今は自分の体の中にある。市場で金を出して買うまでもない。意識するだけで、指先から生み出せてしまう。

 便利だが、それは同時に——自分がもう「素材を集める少年」ではないことの証明でもあった。


 素材屋の親父——角の生えた亜人種——がタロンに声をかけてきた。


「おい坊主、何か探してるのか? うちは品揃えなら界隈一だぜ」


「……いえ。見ているだけです」


「そうか。まあ冷やかしでも構わんよ。——ところで坊主、随分と変わった生地の外套だな。どこの品だ? 見たことねぇ」


「……旅の途中で手に入れたものです」


「ふーん。まあいいけどよ」


 タロンは足早にその場を離れた。


 人と話した。

 生前のヴォルグの裏切り以来、初めて——他者と言葉を交わした。

 それだけのことなのに、胸の中がざわざわと波立っている。


 この感覚は何だ。

 恐怖? 警戒? それとも——


(……寂しい、のか?)


 わからない。感情の名前がわからない。

 あるはずのものが、ぼやけて掴めない。


   *


 市場の広場の掲示板に、この都市の名前が書かれていた。


 ノルドヴァル。


 聞いたことのない名前だ。

 だが掲示板に貼られた簡易地図を見て——タロンの推測が確信に変わった。


 この都市は、かつてのグロムガルドの上に建てられている。


 地図の地形が一致する。北にフリヨルド山。南東に黒い森の残滓——ただし、タロンの時代よりかなり縮小している。そしてこの都市が建つ丘の形は、ヴォルクハイムが築かれていた丘と同じだ。


 コーカサス家の城の上に、別の誰かの都市が建っている。

 タロンの家族が暮らし、笑い、殺された場所の上に。


(……父上。母上。兄上たちは——この下に、埋まっているのか)


 足元の石畳を見つめた。

 この下にかつての城壁の残骸があるはずだ。大広間の瓦礫があるはずだ。兄弟たちが倒れた廊下の石が、この街の礎石として使われているかもしれない。


 人々がその上を歩いている。

 笑いながら。商売をしながら。子供を連れて。

 誰一人として、この地面の下に何があるか知らない。


 拳を握りしめた。

 爪が掌に食い込む。人間だった頃なら血が出るほどの力。だが今の体は——血が出ない。


 怒りが込み上げてくる。

 復活してからずっと曖昧だった感情の中で、怒りだけは——はっきりと、形を持っていた。


 掲示板の隣に、もう一枚の告知が貼られていた。

 ノルドヴァルの領主。この都市を治める小王家の名前と紋章。


 知らない名前。知らない紋章。

 コーカサスではない。タリンでもない。

 数百年の間に生まれた新しい家系が、コーカサスの跡地に王城を構えている。


(こいつらが——我が物顔で、ここに座っているのか)


 怒り。

 確かに感じる。だが同時に、その怒りの熱さが妙に薄い。

 燃えているのに、温度がない。感情はあるのに、そこに「自分」がいない。


 まるで——他人の怒りを借りて怒っている「つもり」なだけ、のような。


(僕は怒ってるのか? それとも——怒るべきだと思っているから、そのふりをしているのか?)


 わからない。

 何もかもわからない。


 タロンは掲示板から目を逸らし、都市の外縁部へと歩き始めた。

 人混みから離れたかった。この体に馴染まない感情の奔流から逃げたかった。


 都市の城壁を出ると、見覚えのある地形が広がっていた。

 丘の斜面。かつてグロムガルドの城下町があった場所は、今は畑と放牧地になっている。その向こうに——黒い森の端が見えた。


 縮小してはいるが、まだあった。

 あの闇の底に、影這いはまだいるだろうか。ベオウルフはフリヨルド山で群れを率いているだろうか。


 ハイヴの入口は——この都市の地下に埋もれている。自分が這い出てきた排水路が、かつての隠し通路の末端だった。


(戻る場所は——もうない)


 工廠は崩壊した。素材は全て自分の体に取り込まれた。

 ヴォルクハイムは消え、その上に他人の城が建っている。

 家族は——五百年前に死んだ。


 タロンは丘の上に立ち、灰色の空を見上げた。


 風が外套の裾を揺らす。

 フードの下の白い顔に、微かな光が差した。


 何もない。

 自分には、もう何もない。


 名前すら——この世界では意味を持たない。コーカサス家は滅んだ。タロン・コーカサスという少年は五百年前に死んだ。

 今ここに立っているのは——少年の姿をした、何か別のもの。


 それでも。


 胸の奥で、あの言葉が脈動していた。

 復活した瞬間に口をついて出た、たった一つの言葉。


 ——殺す。


 誰を?

 ヴォルグはもう死んでいるだろう。リューヤクも。ヴィジュアも。

 五百年。人間の寿命では三度も四度も入れ替わる時間。


 復讐の相手が——もうこの世にいない。


 なのに胸の奥の炎は消えない。

 行き場のない怒りが、体の中をぐるぐると回り続けている。


(……情報が要る)


 感情を押し殺して、思考を切り替えた。

 何が起きたのか。誰が生きていて、誰が死んだのか。コーカサス家に何が起きたのか。この世界はどう変わったのか。


 感情では動けない。この体が——感情を正しく扱えない以上、思考で動くしかない。


 生前の自分がそうだったように。

 観察し、分析し、パターンを見出す。


 タロンは都市を振り返った。

 ノルドヴァル。コーカサスの骨の上に建てられた、知らない誰かの街。


 あの中に——この数百年の歴史を記した書物があるはずだ。領主の城の書庫。図書館。学者の書斎。どこかに。


 掲示板に書いてあったノルドヴァルの領主——あの知らない家紋の小王家。

 彼らの城に入り込めば、書物にありつける。


(行くしかない。知るしかない)


 ——知りたかっただけだ。


 その言葉が、ふと頭をよぎった。

 死の間際に思ったこと。ヴォルグの剣が胸を貫いた瞬間に、最後に浮かんだ思い。


 今もまだ——同じことを思っている自分がいた。


 知りたい。

 この世界のことを。自分に何が起きたのかを。

 そして——家族に何が起きたのかを。


 タロンはフードを被り直し、再びノルドヴァルの門へ向かって歩き出した。


 その足取りは——軽くも重くもなかった。

 ただ前に進んでいた。

 他にできることが何もないから。


 丘の上に残された足跡は、次の風で消えた。

 まるで、そこには最初から誰もいなかったかのように。

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