第二章 灰と雪
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第二章 灰と雪
来客を告げる角笛が、いつもと違う音色で鳴った。
二度。長く、重く。
それは外敵の接近ではなく、正式な使節の到着を意味する信号だった。
タロンはラーズとの稽古の余韻が残る体を引きずって城壁に駆け上がり、眼下を覗き込んだ。
臙脂色の旗。
龍と盾を描いた家紋。
それを掲げる騎馬の列が、雪に覆われた街道をゆっくりとヴォルクハイムに向かってくる。
タリン家。
アルディナ大陸の中央を治め、王都カルディナに最も近い上位家系。そして——コーカサス家の上位にあたる宗家。
「タリン家がなんでこんな北方に……」
事前の通達はなかったはずだ。少なくとも、タロンの耳には入っていない。
城内が慌ただしく動き始めた。ヴォジャニグが大広間から出てきて正門に向かい、母が侍女たちに指示を飛ばし、ラーズが鎧を正して父の隣に並ぶ。ミカエラも書物を閉じて立ち上がった。
タロンも急いで階段を降り、家族の列に加わる。
正門の前で、コーカサス家の全員が膝を折った。
車列から最初に降りたのは、煌びやかな法衣を纏った男だった。
金糸の刺繍が施された深紅の外套。額には細い銀の冠。その奥に覗く目は、鋭く、だが不思議な温かみを湛えている。
タリン家当主、国王リューヤク。
続いて降りたのは、ブロンドの髪を白い毛皮のショールに流した女性——王妃ユーリ。そして、白馬から降り立つ二人の若者。
「面を上げよ、ヴォジャニグ。兄弟分ではないか。こうして出迎えずとも良い」
「そう言うわけには参りません、陛下」
「堅いな。まあいい。——近くを通りかかったついでに顔を見たくなってな。数日の間、世話になれるか」
「もちろんです。事前に仰ってくだされば護衛を送りましたが」
「なに、お前は魔獣狩りで忙しいだろう」
「恐れ入ります。実は先日戻ったばかりで」
リューヤクは軽く笑った。だがその笑みの奥に、タロンは何か別のものを見た気がした。
疲労——ではない。もっと根深い何か。焦り、のような。
(……気のせいかな)
タロンは父と国王の背中を見送りながら、小首を傾げた。
*
凍てつく洞窟を降りていく二つの影。
松明の炎が石壁を照らし、二人の巨大な影を揺らめかせている。
ヴォルクハイムの地下深く。そこには、コーカサス家の歴代の戦士たちが眠る墓所がある。
「家臣達の墓参りにも行きたい。悪いが、案内してくれ」
リューヤクはそう言って、従者を退けた。ヴォジャニグも同じように。
二人きりで、死者たちの眠る場所へ。
石碑が並ぶ墓所は、凍りついた空気の中で静謐に沈んでいた。息を吐けば白い霧が立ち昇り、松明の炎ですら揺れることを躊躇うような冷たさ。
リューヤクが、墓碑銘を一つ一つ指でなぞった。
「……何人、増えた」
「七人。先の遠征で」
「そうか」
沈黙が降りた。
やがて、リューヤクの声色が変わった。
「ヴォジャニグ。手紙の件だが」
「読みました。正直に申し上げて、内容の理解に苦しんでいます」
「無理もない。だが、悠長にしておられん」
ヴォジャニグは松明を石壁の金具にかけ、リューヤクと向かい合った。
墓所の奥で、凍りついた石碑たちが二人を見守っている。
「“人類王”——とは何です。私の知らぬ間に王の上に王が生まれたとでも?」
「否。あながち間違いではない」
リューヤクの目が、炎の光を反射して揺れた。
「この大陸の外に何があるか、お主も知っているだろう。貴様の狩る魔獣は北方の個体に過ぎん。世界にはまだ数多の魔獣がいる。その中には——人間と同じく言語を操り、文明を築く者もいる」
「眉唾ですな」
「我も直接見たわけではない。だが他の王たちが口を揃えてそう言っている。そして——ある家系が、この均衡を崩そうとしている」
「李家ですか」
「いかにも。ドリンダメア海を越え、瑩洲の勢力が動き始めた。オークとゴブリンが手を組み、その影にはアサラム家がいる」
ヴォジャニグは腕を組んだ。
「リューヤク様。あの連中は以前、トールと手を結ぶと言い、その前はオークを手懐けたと言っていた。龍とはこれで——」
「四回目だ」
「四回目。にもかかわらず、毎度のように慌てふためく。私を兄弟とお思いなら、周りの家系の動きに惑わされずタリン家を導くことが重要なはずです」
リューヤクは薄く笑った。だが目は笑っていなかった。
「ヴォジャニグ。かの戦列も、冬季大攻勢も、アカデミーの対抗戦も、お前とは数多くの死線を乗り越えてきた。だが——今度はレベルが違う」
「……何が違うと」
「そこらの魔獣とは全く違う。言うなれば——お前たちが恐れ崇めるハイヴの奥にいる邪悪を、この大地にそのまま溢したような厄災になる」
ハイヴの奥。
ヴォジャニグの眉がかすかに動いた。あの深淵の底に何がいるのか——正確には知らない。だが、討伐隊の中には、あまりに深く潜って戻って来れなくなった者がいる。戻ってきた者も、何も語ろうとしなかった。
「私は一人の友として、そう申しているのだ」
「ならば友として答えよう。コーカサスの兵は今、冬の魔獣と戦い続けている。せめて雪が溶けるまで待ってくれ。それが本音だ」
「待てぬ。人類の存亡がかかっている」
「存亡、ね」
ヴォジャニグは石碑の前で剣を抜いた。
切っ先を地面に当て、両手を柄に重ねて頭を垂れる。死者への祈り。
リューヤクも同じようにした。
何度も繰り返してきた儀式。何度も捧げてきた祈り。
どんなにぶつかり合っても、この時間だけは二人にとって不可侵の聖域だった。
やがて剣を収め、元来た道を歩き始める。
先ほどよりも声は低く、言葉は少ない。
「また、あの丘に行かなくてはならんのだ」
「それは——かつての戦場のことか」
「たとえお前がいなくとも、私は人類の王になる。否、ならなければならぬ。誰かがやらねば、今まで命を投げうって戦ってきた者たちに顔向けできん」
ヴォジャニグは足を止めた。
「リューヤク。昔みたいに何も考えずに戦えばいい——そんな時代はとっくに終わっている。俺たちは多くを失った。その上にこの世界を築いた。家族を愛し、子孫にあんな思いをさせたくないと誓い合ったはずだ」
「なればこそだ。蛮族共の跋扈を許しておけるか。女子供が攫われ、魔獣に喰われる——そんな社会を、また見たいのか」
「……見たくはない」
「ならば——」
「それが、俺の決定だ。コーカサスの決定だ」
地上に出ると、わずかに雪が降り始めていた。
白い粒が二人の肩に積もる。
「考え直す気はないか」
「諄い」
ヴォジャニグはそれだけ言って、背を向けた。
*
冷え切った空気の中。
城の庭園——と言っても雪に埋もれた殺風景な場所だが——に、二つの人影があった。
「ミカエラ、君のような人がこんな辺境で朽ちるのは惜しい。中央へ来ないか。私の隣なら、君はもっと輝ける」
タリン家の第一王子、カーサス。
ブロンドの髪に、両親譲りの整った顔立ち。雅な紋様をあしらった鎧が、この雪景色の中では異質なほど煌びやかだった。
アルス・マギカ学院に現在も在籍中——つまり、ラーズの後輩にあたる。
ミカエラは読んでいた書物から目を上げた。
「殿下。私は剣を振るうために生まれてきました。着飾って誰かの隣を歩くことに、価値は感じません」
「手強いな。手紙では世界中の女が俺に言い寄ってくるんだが。姉妹で抱き合わせなんてのもあった。中央は面白いぞ——各国の貴族が学院に集まって、交流し、学びを得ている」
「にもかかわらず、私が中央の剣術や魔法のことしか聞かないのがおかしい。そう仰りたいのですか?」
「言い寄ってこなかったのは、お前が初めてだ。しかも下の家系の人間が」
カーサスの声に、わずかな苛立ちが混じった。
ミカエラは静かに書物を閉じ、立ち上がった。
「私と婚約を結びたければ、簡単に結べるでしょう。上位家系の権限として。ですが逆にお訊きします——貴方に、コーカサスの血を受け入れる覚悟はおありですか?」
「……覚悟?」
「我々は幾千、幾万の獣の血肉を喰らって生きてきました。この凍てつく大地で、獣たちの怨みや呪いすら糧とする。それがコーカサスです。家紋の上の話ではありません」
「所詮は家紋だろ。大したことない奴ほど家を語りたがる」
空気が、凍った。
ミカエラの目が——一瞬だけ、刃のように光った。
だがすぐに、穏やかな微笑みに戻る。
「そうですか。であれば、この話はやめにしましょう。中へお戻りください。外はお寒いでしょう」
ミカエラは一礼して背を向けた。
その背中を見送るカーサスの顔には、屈辱と——それ以上に、得体の知れない何かへの恐れが浮かんでいた。
*
その夜。
城の暗い回廊を、二つの足音が並んで歩いていた。
タリン家の側近騎士ヴィジュアと、コーカサス家の戦士長ヴォルグ。
二人はかつてカルディナのアルス・マギカ学院で同期だった。同じ釜の飯を食い、同じ講義で居眠りをし、同じ酒場で酔い潰れた仲だ。
ヴォルグの自室に入ると、ラベルのない横流し品の酒を二つの杯に注いだ。
「久しぶりだな、ヴィジュア。こんな辺境まで来てくれるとは。それで——本題は何だ」
「気づいていたか」
「ヴォジャニグ様が気にかけておられた。リューヤク様に何か言われたのか、あるいは何かを察知されたのか」
ヴィジュアは杯を傾け、一口で半分を流し込んだ。
「単刀直入に言う。使節や斥候が数十人、戻っていない」
「山賊か魔獣だろう」
「これだけの数が消えるのは、そんな話じゃない。そして——その代わりに、何が現れたと思う?」
「さあ。東の連中が首でも取ってきたか」
「言葉を話す魔族だ」
ヴォルグの手が止まった。
「……人型で、龍のような翼を持っていた。書物にある”悪魔”そのものの姿だった」
「馬鹿な。人型の魔族は、死体か身売りの質の悪い個体しかいないはずだ」
「だからこそだ。古代魔法の技術が進化し、人間の形を保ったまま魔族の力を注ぎ込む——そんな技術が実現しつつある」
ヴォルグは杯の酒を見つめた。琥珀色の液体に、松明の炎が揺れている。
「古代魔法の術者は呪いで子孫を残せない。新たに招集もできない。どうやって——」
「ゴブリンだ。奴らは人間の墓を暴き、装備品を掘り出し、古代魔術の断片を拾い集めた。だがそれだけでは力にはならない。首謀者がいる。奴らを統べ、触媒を集めさせている者が」
「……李家か」
「おそらく。だが確証はない。リューヤク様はその脅威を説いておられるが、根本的な問題はもっと深い」
「元老院か」
「そうだ。人類王が空位になって二十年。元老院は自分たちが王であるかのように振る舞い、統制が取れていない。カルディナでは金と見えない権力を皆が求めている。秩序なき世界に安寧はない」
ヴォルグは酒を飲み干し、杯を置いた。
「つまり——リューヤク様は人類王になると。そしてコーカサスにもその戦線に加われと」
「そういうことだ」
「通りでヴォジャニグ様が怪訝な顔をしておられたわけだ。あの方は元々、戦いを好まない」
「ヴォルグ。正直に聞く。ヴォジャニグ殿は——動かないのか」
「雪が溶けるまでは、な。それがあの方の決定だ」
長い沈黙が落ちた。
酒の残り香と、松明の燃えかすの匂いが部屋に漂う。
「ヴォルグ」
ヴィジュアの声が、それまでと変わった。
低く、冷たく。
「一つ聞きたいことがある。あの末の王子——タロンのことだ」
「タロン? あの子はただの、物静かな少年だぞ」
「あの子の目を見たことがあるか。凡庸を演じ、全てを観察しているあの目を」
「…………」
「あれは化け物の芽だ」
ヴォルグは何も答えなかった。
だがその沈黙は——否定ではなかった。
*
タリン家の滞在は一ヶ月半に及んだ。
その間、表向きは穏やかな日々が続いた。
リューヤクとヴォジャニグは政務の話を進めながら、それとなく互いの外堀を埋めようとし——結局、どちらも譲らなかった。
タロンはいつもの日課を続けた。
朝はハイヴの工廠。昼は稽古と講義。夜は書庫。
タリン家の人間とはできるだけ距離を置いた。目立たないように。凡庸な末子のまま。
だが、何かが変わりつつあることは感じていた。
城の空気が、少しずつ張り詰めていく。
父の眉間の皺が深くなる。母の笑顔が硬くなる。ラーズが夜遅くまで剣を振っている。
そして——ミカエラが、以前より頻繁にタロンの頭を撫でてくるようになった。
まるで、今のうちに触れておこうとするかのように。
タリン家が帰還する日の朝。
ヴォジャニグは護衛として一部の騎士と共に城を出た。街道の安全を確認し、途中まで見送るためだ。
タロンは城壁の上から、父の背中が雪の中に消えていくのを見送った。
その日の夜だった。
*
「火事だ! 敵襲だ!」
誰かの叫び声で、タロンは跳ね起きた。
窓の外が——紅蓮に染まっている。
ヴォルクハイムの屋根が、城壁が、炎に包まれている。
飛び起きて部屋を出ると、廊下は煙で霞んでいた。
衛兵たちが倒れている。立っている者が一人もいない。前夜に振る舞われた酒——あれに、何かが入っていたのだ。
正門が開け放たれていた。
そこからなだれ込んでくる武装した集団。家紋を隠してはいるが——鎧の造り、武器の型、統率された動き。正規の訓練を受けた兵士だ。
(タリン家……!)
頭が回るより先に、足が動いていた。
タロンは廊下を走った。兄弟たちの部屋。母の部屋。ミカエラの部屋。
「兄上! ミカエラ姉上!」
次男の部屋の扉を蹴り開けた時——そこには、もう血の海があった。
次男。三男。四男。
押し寄せる兵の波に飲まれ、家族を逃がすための盾となって、既に倒れていた。
「——っ!」
声が出なかった。
足が震えた。
視界が赤くなった。
だが——脚は止まらなかった。
止まったら、死ぬ。
(ハイヴだ。あそこなら——僕にしか分からない道がある)
地下倉庫。隠し通路の入口。
燃える城の中を駆け抜け、煙を吸い込みながら石の階段を降りていく。
たどり着いた倉庫の奥——石板の前に、先客がいた。
腹部を血で染め、壁にもたれかかっている男。
「ヴォルグ……! 生きていたんですね!」
コーカサス家の戦士長。タロンにとっては稽古の師匠であり、父の最も信頼する部下。
「タロン……か。よく、無事で……」
ヴォルグの声は掠れていた。腹部の傷は深い。だが致命傷ではない——とタロンの目は判断した。
「早く、僕の通路へ! ハイヴに入れば——」
「ああ……家系の存続が、第一だ。急ごう」
タロンが石板に手を置き、重い扉をずらした。
二人は隠し通路からハイヴへと滑り込んだ。
螺旋状に降りていく縦穴。
オレンジ色の植物の光が、壁面をぼんやりと照らしている。
ヴォルグは——立ち止まった。
「……なんだ、これは」
目の前に広がっていたのは、子供のガラクタ箱ではなかった。
壁を埋め尽くす何百もの瓶。整然と分類された素材。魔獣の骨格を組み替えた、見たこともない武具。臓器の標本。調合の記録。
それは——現代の幾何学魔法を嘲笑うかのような、あまりに原始的で、あまりに高度な叡智の集積だった。
「これ全部、僕が作ったんです。ヴォルグ、ここでなら——」
タロンが振り返った。
希望を込めた目で、師匠の顔を見上げた。
その瞬間だった。
胸の奥に——冷たい鋼の感触が走った。
「…………ぁ?」
呼吸が、止まった。
見下ろせば、ヴォルグの剣が、タロンの心臓を正確に貫いていた。
痛みは——不思議となかった。
ただ、冷たかった。金属の冷たさが胸の中心から全身に広がっていく。
視界が急速に色を失う。
ヴォルグの顔が——これまで見たこともないほど悲痛に歪んでいるのが見えた。
「やはり、ヴィジュアの言った通りだった」
ヴォルグの声が、遠い。
「タロン……お前は……この時代に残しておいてはいけない、美しすぎる怪物だ」
「……な、んで……」
「お前の目を、ずっと見ていた。凡庸を演じ、全てを観察しているあの目を。そしてこの工廠——ここにあるものは、この世界の常識を覆す。お前が成長すれば、誰にも止められなくなる」
タロンの唇が動いた。声にはならなかった。
——僕は、ただ、知りたかっただけなのに。
「すまない」
ヴォルグの腕に力がこもった。
「どうか来世では——ただの少年でいてくれ」
剣が引き抜かれた。
その衝撃で、タロンの体は螺旋の底へと投げ出された。
落ちていく。
自慢の棚が砕ける音。
集めてきた瓶が次々と割れる音。
影這いの爪が、ベオウルフのタテガミが、アッシュカリブの幼角が——少年の涙と共に奈落へ降り注ぐ。
落下する視界の中で、最後に見えたもの。
螺旋の遥か上方、出口のあたりに映る——城を焼く炎の光。
雪と火の粉が混じり合って舞い落ちてくる。
あまりに皮肉なほど、美しかった。
*
遥か彼方。
森の中では、護衛に出ていたヴォジャニグが待ち伏せの刃に沈んだ。
城の寝所では、母が冷たい鋼に倒れた。
コーカサス家の灯が、一つ、また一つと消えていく。
ただ一人——ミカエラだけは、その夜の闇の中で刃を握り続けていた。
彼女に何が起き、どこに連れて行かれたのか。それは、まだ誰も知らない。
*
タロンは、冷たい泥の底に叩きつけられていた。
痛みは、もう感じなかった。
感覚の全てが遠ざかっていく。音も、光も、温もりも。
残っていたのは——ただ一つの問いだけだった。
——どうして。
どうして僕が。
何がいけなかったんだ。
知りたかっただけだ。この世界のことを。魔獣のことを。素材のことを。
誰も傷つけてない。誰も脅かしてない。
ただ——知りたかった。
それだけなのに。
空っぽになった瞳に、最後の光が映った。
城を焼く火の粉が、雪と共に、螺旋の底まで舞い降りてくる。
オレンジと白。炎と雪。
混じり合って、溶けて、消えて。
暗闇が——全てを覆った。
*
そこから、時間は形を変えた。
コーカサスの城は灰となり、土に還り、やがてその上に雪が積もった。
春が来て、夏が過ぎ、秋が枯れ、冬がまた訪れる。
それが何十回、何百回と繰り返された。
人々は石を積み、鉄を溶かし、星の運行を数式に変え、魔法を磨き上げた。
国は興り、戦い、滅び、また興った。
かつての悲劇は語る者さえいない、神話の屑へと変わった。
だが——閉ざされたハイヴの底だけは、時の流れの外にあった。
横たわる白骨に、割れた瓶から漏れ出した数千もの魔獣の因子が、滴り落ちていた。
影這いの外殻の粉末。ベオウルフのタテガミに宿った魔力。アッシュカリブの幼角のキチン質。ドヴォログの装甲の鉱物。ナクトゥルの——死体を取り込む因子。
全てが、少年の骨に、染み込んでいった。
朽ち果てた工廠そのものが巨大な胃袋となり、彼をゆっくりと、確実に——「別の何か」へと変質させていった。
ハイヴの最深部では、ウルヴァングの心臓が脈動し続けていた。
ナハトグルントから湧き出す「何か」の端末。その魔力が、ハイヴ全体に絶え間なく供給されている。
タロンの白骨は——その魔力の海の中で、培養されていた。
偶然なのか。
それとも——何者かの意志なのか。
少年が生前に集めた素材の配列が、一つの「設計図」として機能していたのか。
その答えを知る者は、まだどこにもいない。
*
ある夜。
歴史が再び大きく動こうとする、その前夜。
死の静寂に包まれていた地下の底で——カチリ、と、何かが噛み合う音が響いた。
白骨化していたはずの眼窩の奥に。
青白い冷徹な光が——宿った。
骨だったものを覆う、再構成された肉体。
白い肌。細い指。
その指先が、堆積した泥を掴む。
数百年ぶりに空気が喉を通り、肺腑に満ちた。
数百年ぶりに声帯が震え、音が生まれた。
「————殺す」
それは、かつて知りたがりの少年だったものの声。
そして——この世界の全ての繁栄を終わらせうる、破滅の鐘の音。
ハイヴの底で、無数の瓶の破片が青白い光に照らされて煌めいた。
かつて少年の宝物だったものたち。
今はもう、ただの残骸。
だが、その残骸の全てが——少年の体の一部になっていた。
第一部 開幕——。




