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第一章 深き森の帰還

お久しぶりです。またまったりと投稿していきます。

本編はほとんどできているのでまた連日投稿していきますゆえ。よろしくお願いします!

キングスクラウン


第一章 深き森の帰還


 雪は、音もなく降り積もる。

 まるで世界が息を殺しているかのように。


 「黒い森」——北方の民がそう呼ぶこの深淵は、正午を過ぎてもなお夜のような闇に閉ざされていた。

 灰色の空から落ちてくるものが雪なのか、それとも森そのものが吐き出す死の微粒子なのか。この暗さでは判別すらつかない。


 その闇の底を、一つの影が這うように移動していた。


 タロン・コーカサスは息を殺し、巨木の根元にしゃがみ込んだ。

 手袋の指先が痺れるほどの寒さ。吐き出す息は白い霧になって一瞬だけ漂い、すぐに森の闇に吸い込まれる。

 視線は一点に固定されていた。


「……あった」


 巨木の樹皮に刻まれた、深く鋭い三条の傷跡。

 その溝には凍りついた樹液に混じって、黒ずんだ破片がこびりついている。

 普通の人間なら見落とす。いや、ここまで来ること自体が普通じゃない。


「影這いの爪痕だ。しかも新しい」


 懐から使い込まれたナイフを取り出し、凍りついた樹液ごと破片を慎重に削り出していく。刃先に伝わる微かな抵抗。その感触だけで、タロンの頭の中には無数の情報が組み上がっていた。


(この硬度——去年採取した個体より外殻の密度が確実に増してる。脱皮は少なくとも二回以上。となると推定年齢は……)


 指先で破片を転がすと、ピリピリとした魔力の感触が皮膚を這い上がってくる。微弱だけれど確かな揺らぎ。影這いの外殻に宿る残留魔力だ。


(この揺らぎのパターン、前に採取した個体とは位相がズレてる。別個体か、それとも環境因子の変化か)


 独り言にもならない思考の奔流を、タロンは手書きのラベルが貼られた小瓶に封じ込めた。瓶を光にかざすと——と言っても、この森に光なんてものはほぼ存在しないのだけれど——黒い破片がわずかに青白く脈動しているのが見える。


 影這い。

 黒い森の深部に棲む魔獣。単独行動を好み、この三条の爪痕で縄張りを主張する。外殻は脱皮するたびに硬くなり、光を極端に嫌い、闇の中ではその姿が溶け込むように消える。

 タロンが最も長く観察し続けている種だった。


「よし」


 小瓶を懐にしまい、立ち上がろうとした瞬間——足元の凍土がわずかに振動した。


 タロンの全身が凍りつく。

 比喩ではない。本能が、思考より先に身体を硬直させた。


(地面の下——ドヴォログ?)


 凍土の地中に棲む装甲の魔獣。普段は冬眠に近い低代謝状態だが、地上の振動を感知すると直下から一撃で獲物を仕留める。

 足を動かしてはいけない。振動を与えてはいけない。


 三秒。五秒。十秒。


 振動は——遠ざかっていった。

 こちらには来ない。おそらく別の何かを追っている。


「…………」


 長く、長く息を吐いた。

 白い霧が、まるで魂が抜けていくみたいに立ち昇る。


 黒い森は、いつだってこうだ。

 明確な食物連鎖なんてものは存在しない。影這いとドヴォログの棲み分けは曖昧で、ベオウルフの群れはヴェルヘンを見つけても手を出さない——殺した瞬間に体内の魔力が爆発して半径数十メートルが凍結するからだ。ナクトゥルは他の魔獣の死骸を取り込んで異形に膨れ上がる。

 誰が最強かなんて、誰にもわからない。


 この混沌の中にパターンを見出そうとしている人間は、おそらくこの北方にはタロン一人だけだった。


 もう一つ。

 この森ではもう一つ、気をつけなければならないものがある。


 フロストヴィヒト。


 魔獣に殺された死体が極寒の環境に放置されると、魔力が浸透して再び動き出す。凍りついた遺体がそのまま歩き回る——いわば、凍結した亡者だ。知性はない。ただ、生者に向かって突進してくる。だが生前の戦闘技術の残滓が残っていて、元が熟練の戦士であった場合は厄介極まりない。


 だからコーカサス家の討伐隊は、必ず仲間の遺体を持ち帰る。

 回収できなかった者は、次の討伐で「敵」として再会することになるからだ。


 タロンが城の地下に隠した通路を使って黒い森に出入りしていることは、誰にも知られていない。つまり——もし自分がここで死んだら、誰も遺体を回収してくれない。


(考えるのはやめよう。嫌な想像ばっかりだ)


 その時、森の静寂を震わせて、重厚な角笛の音が響き渡った。


 ヴォルクハイムの角笛。

 城門の開閉を告げる、あの低く唸るような音色。


「——やばっ」


 タロンは素早く、しかし足音を殺して動き出した。

 雪に埋もれた倒木を跳び越え、凍った灌木の間を縫って走る。やがて、巧妙に隠された縦穴にたどり着いた。

 かつての魔獣の巣——「ハイヴ」への入り口だ。


   *


 地下の工廠に滑り込むと、そこには彼だけの世界が広がっていた。


 壁を埋め尽くす何百もの瓶。

 整然と分類された薬草、乾燥した筋繊維、魔獣の骨片。螺旋状に降りていく壁面に沿って不思議な植物が這うように生え、その実に触れるとオレンジ色の柔らかな光が灯る。

 天然の照明。タロンが三年かけて育てた、この工廠の命脈だ。


 最深部にたどり着くと、手早く採取したばかりの影這いの爪を「未分類」と書かれた棚に置き、魔獣の骨と強化繊維で組み上げた自作の軽装甲を脱いでいく。

 口元を覆うフェイスガード。脛当て。胸部のプレート。全てタロンの手製だ。


 どれもこれも、正規の素材術の教本には載っていない配合で作られている。

 ドヴォログの装甲片を骨格に使い、影這いの外殻の粉末を接合剤に混ぜ、ベオウルフの脂肪で柔軟性を出す。カルディナのアルス・マギカ学院の学者が見たら腰を抜かすか、あるいは異端として火刑台に送られるか——どちらかだろう。


(いや、西方のセラフィル家の領地なら間違いなく後者だな)


 装甲を作業台に並べ、深い紺色の服に着替える。

 銀を磨いた姿見に自分の姿を映した。


 華奢な身体。細い腕。母親似の、女の子と間違われるような顔立ち。声変わりもまだ来ていない。

 北方の戦士コーカサス家の末子としては、あまりにも頼りない外見だった。


 だからこそ、誰もタロンを疑わない。

 この小さな体の中に、森の混沌を読み解こうとする静かな狂気が潜んでいるなんて。


「よし。間に合う」


 城の地下倉庫へと繋がる隠し通路に飛び込んだ。吊り下げたランプを手に取り、屈むようにして進んでいく。黒土と凍った石の隙間を抜け、石板に手を置いて重い扉をずらすと——カビ臭い倉庫の奥に出た。


 樽の間をすり抜け、石造りの階段を駆け上がる。

 螺旋を登りきった先、塔のバルコニーに出ると冷たい風が頬を叩いた。


 グロムガルドの城下町が一望できる。

 雪に覆われた灰色の屋根。白い息を吐きながら行き交う人々。そして、ヴォルクハイムの正門——今まさに、重い鉄の門扉が左右に開かれようとしていた。


 タロンは身軽に梁にぶら下がり、門をくぐってくる騎馬隊を見下ろした。


 揺れる旗。

 コーカサス家の紋章——銀地に黒い狼。

 その先頭を走る二頭の馬に跨がる、厚い毛皮と血の匂いを纏った男たち。


 目が、輝いた。


「父さん!!」


 バルコニーから飛び降りた。

 城壁の突起を蹴り、窓枠を掴み、別の建物の屋根を跳び越え、大広場に着地する。石畳の上に降り立った音に、下馬したばかりの男たちが振り返った。


「おお、タロン!」


 飛び込んだ胸は、堅いプレートを覆い隠す毛皮と獣たちの血の匂いに満ちていた。

 でもそんなのは気にしない。


 父、ヴォジャニグ・コーカサス。

 北方領主にして、アルディナ大陸で最も過酷な辺境——魔獣討伐の最前線を預かる鬼将。

 その太い腕が、末の息子を軽々と持ち上げてから地面に下ろした。


「どうだった、城の留守は。問題はなかったか?」


「はい。何もありませんでした」


 嘘だ。こっそり黒い森に出て影這いの爪を採取していた。でもそんなことは口が裂けても言えない。


「兄上もおかえりなさい。無事に帰ってきてくれて、嬉しいです」


 地面に降ろされると、長兄のラーズが笑いながらタロンの頭を乱暴に撫でた。


 ラーズ・コーカサス。

 身の丈も声も、北方の男をそのまま体現したような存在。額に走る一条の傷跡。厚い胸板。父と並んでも見劣りしない体格は、数年前にカルディナのアルス・マギカ学院——武官科を首席で卒業してから、実戦の中でさらに磨き上げられたものだった。


「俺を誰だと思ってる。あんな獣ども、俺と父上の敵じゃねぇよ。お前もこの城をちゃんと守っていたか?」


「もちろんです。僕もコーカサスの人間ですから」


「そうだ。お前にも土産を持ってきた」


 ラーズが懐から何かを取り出す。

 結かれた銀色の毛束。触れた瞬間、微かな魔力の波動が指先から腕を駆け上がった。


「ベオウルフのタテガミだ。おそらく何かの戦闘に巻き込まれて千切れたものだろう。俺が殺したわけじゃない。我がコーカサス家の紋章を司る狼だからな、敬意は払う」


 タテガミの長さ、太さ、そして残留する魔力の質。

 タロンの指は、もはや自動的にそれらを分析していた。


 長い。太い。魔力の揺らぎが深く、層が厚い。


「……長老種のタテガミだ。すごい……」


「む、わかるのか」


 しまった。

 口が滑った。


「あ——いや、その。書庫で読んで……」


「相変わらず勉強熱心だな、タロンは。まあいい、大事にしとけよ。お前にもいずれ外の世界に行く日が来る」


 タロンは愛想笑いを浮かべながらタテガミを受け取った。


 ベオウルフ。

 フリヨルド山の中腹に生息する群体型の魔獣。五匹程度の群れを成して下界に降りてくる。その配置、年齢構成、役割分担まで事細かに決まっている知性ある生物。冬に強くなり夏に弱る。タテガミの長さが年齢と地位を示し、長老種のそれには微量ながら極めて質の高い魔力が宿る。


 素材術の観点から見れば、この一束だけで小さな村が一年暮らせるほどの価値がある。


 だけど、そんな本当の感想を兄に聞かせるわけにはいかない。

 わざと少しだけ気弱な弟を演じる——それが、タロン・コーカサスという少年の鎧だった。


 帰還した討伐隊の後方では、戦士たちが担架に載せた何かを慎重に運び込んでいた。

 布に覆われたその輪郭は——人の形をしている。


 戻って来れなかった者たち。

 しかし、遺体は必ず持ち帰る。それがコーカサス家の掟だ。

 フロストヴィヒトにさせないために。

 仲間の体を、敵の殻にさせないために。


 ヴォジャニグが一瞬だけ目を伏せ、静かに頷いたのをタロンは見逃さなかった。


   *


 父や兄が戻ったからといって、タロンの日常に大きな変化はなかった。


 朝は日が昇る前に起きて隠し通路を通り、ハイヴの工廠へ。

 影這いの爪の分析。ベオウルフのタテガミから魔力パターンを抽出する実験。ドヴォログの装甲片を使った新しい接合方法の試行。

 防具の補修。新素材の組み合わせ。溶かして接合し、鍛え、剣で斬りかかって強度を検証する。


 そして昼前にはヴォルクハイムに戻り、何食わぬ顔で剣や弓の稽古、地政学の講義に出る。

 お付きの賢者——通称「ジイ」——の目を盗んで書庫に忍び込むのは夜の仕事だ。


 ある日の午後。

 稽古場に、ラーズが立っていた。


「今日は俺が相手をしてやる」


 木剣を構えるラーズの姿は、控えめに言っても壁だった。

 身長差は頭二つ近い。腕の太さはタロンの太腿ほどもある。声も体格も、北方の戦士をそのまま煮詰めて固めたような存在。


 対するタロン。

 細い腕。華奢な身体。女のような顔。

 同じ木剣を構えているはずなのに、まるで丈すら違うかのような錯覚を与える。


「少し背が伸びたか、タロン」


「剣を合わせたら余計な話はしないのが鉄則です」


「つれないな。そうだ、俺に勝ったらこれをやる。外で拾ってきた一点ものだ」


 ラーズが懐を開いて見せた。周りの戦士たちには見えないように、タロンだけに。

 そこには歪な形の角のようなものがぶら下がっていた。


 タロンの心臓が跳ねた。


「僕がそんなに魔獣好きに見えますか」


「兄ってのはなんでも知ってるもんさ。夜な夜なジイの部屋に忍び込んでは魔獣の書物や調合の文献を漁ってるだろう。イタズラはバレずに徹底的にやるもんだ。書物の陳列順も、棚の埃一つも、痕跡を残しちゃならん。——答えてみろ。この角は何だ」


 数秒の沈黙。

 タロンは小さく息を吐いた。


 隠しても無駄か。少なくとも、この兄には。


「アッシュカリブの幼角です。フリヨルド山の高所から山頂付近に棲む大型獣の、成長過程で一度だけ生え変わる角。しなやかで堅牢な防具の素材になる希少品で、歴代の当主が被る頭部アーマーの素材です」


「ご明察」


 ラーズは膝を折ってタロンと目線を合わせた。


「お前が密かにやってる”火遊び”とやら。外じゃ俺が代わりに隠してやってるんだ。だからこいつも手に入った」


 角を受け取った。しなやかな弾力の中に隠れた、キチン質の冷たい硬さ。僅かに湿り気を帯びた表面に触れると、不思議な高揚感が胸の底から湧いてくる。


「その実力——見せてみろ、タロン!」


 木剣が空気を裂いた。


 速いっ——!


 初撃を辛うじて受け止める。手に走る衝撃が両腕を突き抜け、足が石畳の上で数センチ滑った。


 ラーズは不敵に笑ったまま、後方に跳び上がる。着地と同時に石の礫を拾い上げ、指弾のように弾いてきた。

 タロンは木剣で叩き落とし、着地点めがけて踏み込む。


 体格差は歴然。力も、リーチも、経験も。真正面からぶつかって勝てる要素は一つもない。


 だから——真正面からぶつからない。


 小さな体を活かして低く潜り込み、木剣を振り上げる。ラーズは片手で受け止め、もう片方の腕で弾き返した。

 タロンは弾かれた勢いを殺さず、全身のバネを使って連続で斬りかかった。上段、下段、左、右——リズムを変え、角度を変え、予測を裏切るように。


 だが、ラーズの前にはどれも通らない。

 全て読まれている。全て受け止められる。


(やっぱり、正攻法じゃ無理だ)


 たまらず飛び退いて距離を取る。

 荒い息遣い。額を流れる汗が冷たい空気で瞬時に冷える。

 二人の王子が繰り広げる稽古に、周囲の戦士たちから野次が飛び始めていた。


「来ないのなら、こちらから行くぞ!」


 ラーズが目にも止まらぬ速さで間合いを詰めてくる。

 振り下ろされた剣をなんとか防ぐ——が、衝撃が桁違いだった。


 体ごと宙に浮いた。


 弧を描くように吹き飛んだ先は、稽古場の端に張られた炊事用のテント。幕を突き破って中に転がり込むと、鍋がひっくり返り、煮込み料理が地面にぶちまけられた。


「なにしやがる!」「きゃあっ!」


 炊事番の怒号と悲鳴。慌てて人々がテントから逃げ出していく。

 喧騒が嵐のように広がり——そしてテントの中には、タロンだけが残された。


 静寂。


 その中で——タロンの目が、冷たく光った。


(ジイは言った。戦いの中で剣を手放すことは言語道断だと。でも、剣がなければ手放しようがない。なら——剣以外の全てを使え)


 ひっくり返った鍋から立ち昇る蒸気。床に散らばった麦粉の袋。炊事場の火元で煮えたぎる大鍋。


 外の世界では、自分より体格が大きい魔獣も小さい魔獣も、それぞれの長所と短所を活かしてしぶとく戦う。ルールなんてない。美しさも倫理もない。


 勝つことが全て。生き延びることが全て。


 タロンは麦粉の袋を掴んで頭上にぶちまけた。

 白い粉塵がテントの中を満たし、外まで溢れ出す。

 同時に——炊事場の熱湯を凍りかけた地面に叩きつけた。氷が溶け、泥濘が広がる。


 煙幕の外から、戦士たちのどよめきが聞こえる。食器が鳴る音、走り回る足音——その全てが、タロンの足音を消すノイズになる。


 そして。


 タロンは木剣を空に投げた。

 高く、高く。回転しながら灰色の空へ。


 自分は麦粉の霧の中を無音で走り、テントの裏を回ってラーズの背後に回り込んだ。


 ラーズは鼻と口を片手で覆い、もう片方で木剣を構えながら周囲を警戒していた。

 あたりから聞こえる足音、食器の音、人の声——その全てをノイズとして処理しながら、本命の気配を探っている。

 さすがだ。学院を首席で卒業し、黒い森の魔獣と幾度も刃を交えてきた男。並の奇策では通じない。


 だが。


 微かな——本当に微かな足音。


 ラーズが振り返った時、すでに眼前にタロンの姿があった。

 素手。剣はない。代わりに、ラーズの懐めがけて手を伸ばしている。


 ラーズの反射は、タロンの想定をさらに上回った。

 振り下ろされる手を叩き落とし、その腕を掴んで地面に叩き伏せる。

 のしかかるように押さえ込み、拳を振り上げた。


 ——実戦の反射だ。


 黒い森で魔獣と命のやり取りをしてきた者の、殺すための本能が、制御を超えて発動していた。


「ラーズ!!!」


 悲鳴のような声が、霧の中から響いた。


 その声で——ラーズの瞳に、理性の光が戻った。

 振り上げた拳が、タロンの顔の寸前で止まる。


 見下ろせば、タロンが両腕で顔をガードしようとしている。

 細い、細い腕だった。


「すまない……タロン……」


 ラーズはすぐにタロンを解放した。自分がしたことに驚き、ショックを受けた顔で一歩後退る。


 タロンの前に、手が差し伸べられた。

 それを掴んで立ち上がると、慈愛に満ちた手が頭を撫でてくれる。


「平気? 怪我はしていない?」


 先ほどラーズを止めてくれた声の主。

 美しい白髪に、母親譲りの整った顔立ち。凛とした佇まいの中に、柔らかな温もりを湛えた瞳。


 長女、ミカエラ・コーカサス。

 コーカサス家の剣姫。兄弟たちの中で最も冷静で、最も優しく、最も容赦ない人。


「平気です、ミカエラ姉上」


「よかった。ラーズを責めないであげて。まだ外から帰ったばかりで少し気が立っているのよ、きっと」


「わかっています。僕も、やりすぎました」


 ミカエラがもう一度頭を撫でてくれる。その手の温もりが、不思議と心の奥まで染みてくる。


 そこで——タロンは懐から、何かを取り出した。


 アッシュカリブの幼角。


「タロン、お前……!」


 ラーズが自分の懐に手をやり、空っぽであることを確認する。

 あの一瞬——ラーズに組み伏せられる直前に、タロンは懐から角を掏り取っていた。


「ごめんなさい、兄上。でもジイは言いました。戦いの中で剣を離すことは言語道断だと。であれば——懐のものだろうと同じはずです」


 不敵な笑み。

 そして空からは——先ほど投げ上げた木剣が回転しながら落下してきて、二人の間の地面に突き刺さった。


 運命に託した一手。剣を手放したのではなく、空に預けた。

 もし組み伏せられなければ、落ちてきた剣を掴んで斬りかかるつもりだった。組み伏せられたら——懐を狙う。

 どちらに転んでも、次の手がある。


「タロン……お前……」


 ラーズは絶句したまま、弟の顔を見つめていた。


 体格差は歴然。剣も腕は立つがまだ未熟。力も技量も、疑いの余地なくこちらが上だった。

 だが、タロンはその力量差を知っていて利用した。利用されたのだ。

 力の差を糧に不測の事態を起こし、使えるものは全て使って有利な状況を作り出す——外の世界の鉄則そのものだ。


 麦粉で視界を奪い、熱湯で足場を崩し、戦士たちの喧騒で足音を消し、剣を空に投げて運命に託した。

 それでもなお「次の手」を用意している。


 感嘆の声が漏れかけた時、ミカエラが大きく笑ってタロンを抱き上げた。


「よくできました! さすが我が弟!」


 軽い体を持ち上げ、まるで母親のようにヒラヒラと回してやると、タロンも嬉しそうに声を上げて笑った。

 その瞬間だけは——魔獣の研究者でも、凡庸を演じる天才でもなく、ただの子供だった。


 ミカエラの腕の中で笑うタロンを見ながら、ラーズは思っていた。


 この子の凄さは、発想力にある。

 だが、もっと恐ろしいのは——あの目だ。

 テントの中に一人きりで残された瞬間、タロンの目には明確な切り替えがあった。

 子供の目ではなかった。研究者の目ですらない。

 あれは——生存者の目だ。

 何かを見て、何かを知って、それでもなお生き延びることを選んだ者の目。


 まだ声変わりすらしていない子供が、どこであの目を手に入れたのか。


 ラーズには、わからなかった。


 ミカエラがタロンを地面に下ろし、乱れた髪を直してやっている。

 その光景は、ヴォルクハイムの灰色の風景の中で、不思議なほど穏やかで——あまりにも脆く見えた。


 その夜。


 大広間では討伐隊の帰還を祝う宴が催された。

 豪勢な肉とビール、ワインが振る舞われ、戦士たちは大声で武勇を語り、女たちと踊り狂う。炎に照らされた顔はどれも赤く、笑い声は石壁に反響してうねりのように広がっていく。


 その熱気の端っこで、タロンは兄に貰ったベオウルフのタテガミを指先で弄んでいた。


「タロン。お前のその知識を私に聞かせてくれ」


 いつの間にか隣に座っていた父の声に顔を上げる。ヴォジャニグは杯を片手に、息子を見下ろしていた。

 厳めしい顔だが、その目の奥には穏やかな光がある。


「ベオウルフについてです?」


「なんでもいい。お前が知っていることを」


 タロンは少し迷ってから、慎重に言葉を選びながら話し始めた。


 ベオウルフの群れの社会構造。長老種を頂点にした役割分担。雪解けの時期に激化する縄張り争い。冬に力が増し、夏に弱まる生態サイクル。


 本当は十倍の知識がある。百倍の分析がある。

 だけど、出していいのはこのくらい。「書庫で読みました」で説明がつく範囲だけ。


 ヴォジャニグは黙って聞いていた。

 やがて、大きな手がタロンの頭に置かれた。


「お前は賢い子だ、タロン。この北方では、知恵は剣と同じくらい重要だ」


「……ありがとうございます、父上」


「アルス・マギカ学院にはまだ早いが——いずれ、お前の居場所は見つかる。焦ることはない」


 学院。カルディナにある、人類の魔法教育の最高機関。

 ラーズはそこの武官科を卒業した。コーカサス家からは、代々長子を送る慣わしだ。


 タロンはまだ入学対象の年齢に達していない。

 それに——正直に言えば、タロンが学びたいことは、あの学院にはない気がしていた。


(僕が知りたいのは、もっと——)


 その先の言葉は、宴の喧騒に溶けて消えた。


 やがて時間が経ち、宴の熱気が狂気じみてくる頃、ミカエラがそっとタロンの手を引いて大広間から連れ出してくれた。


「明日も早いでしょう。ちゃんと眠りなさい」


「……はい」


 世話係に連れられて自室に向かう途中、タロンは一度だけ振り返った。

 大広間の光が、長い廊下に細い線を描いている。その向こうで、父と兄たちの笑い声がまだ聞こえていた。


 あの笑い声が——永遠に続くものだと、タロンは信じていた。


 コーカサスの家紋、銀地の黒い狼。

 ヴォルクハイムの雪。

 フリヨルド山から吹き降ろす凍てつく風。

 母の温もりと、姉の白い髪と、兄たちの笑い声。


 それが自分の世界の全てで——それ以外に何も要らないと、本気で思っていた。


 まだ、何も知らなかった頃の話だ。

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