第一部 第十章 血の階段
第十章 血の階段
カヴォンの中央拠点は、駐屯地とは格が違った。
石造りの城壁に囲まれた小さな要塞都市。門には正規の衛兵が立ち、通行証の確認は厳格で、ガロウの名前を出しても一度は止められた。
「下院最下層のアルヴィナ一行。カヴォン殿への出頭のため参上した」
「……確認する。待て」
門前で三十分待たされた。
北方の駐屯地の丸太三本とは大違いだ。ここはヴァルグラムの中枢に近い。秩序がある——暴力の上に築かれた秩序だが。
タロンはフードを深く被り、アルヴィナの後ろに立っていた。
門の衛兵はタロンをちらりと見たが、子供に興味はないらしく、すぐに目を逸らした。
(……ここまでは、子供で通る)
だが——この先はわからない。
門が開いた。
*
中央拠点の街並みは、駐屯地の粗野さと南方の商業都市の華やかさが混ざったような独特の空気を持っていた。
大通りには武器屋と酒場が並び、その隙間に仕立て屋や宝石商が入っている。闘技場は駐屯地のそれより三倍は大きく、石造りの観客席まで備わっている。通りを歩く人々の装備も格段に良い。
ここは下院の上位と、上院の末端が重なる場所だ。
上に行きたい者たちが集まる、野心の坩堝。
「アルヴィナ。あれを見ろ」
オルネスが顎で示した先——大通りの掲示板に、名前の一覧が貼られている。
下院のランキング。
武勲と戦果に基づく、定期更新の序列表。上位に行くほど上院への推薦が近づく。
アルヴィナの名前は——最下層。紙の一番下、かろうじて載っている程度だった。
「……これが現実だ」
アルヴィナは掲示板を一瞥して歩き続けた。
だがタロンは——その一覧を、数秒で記憶した。名前、順位、所属する上院。全てが頭に入った。
(下院の上位勢力はほぼ全て、ガロウかルクザールの二大上院のどちらかに属している。中立の勢力はほとんどない。——二極構造だ)
*
カヴォンとの面会は、中央拠点の本陣——石造りの広い建物の一室で行われた。
カヴォンという男は、アルヴィナの予想とは違っていた。
小柄。痩身。禿げ上がった頭に、鋭い目。
戦士というより——商人に近い印象。だがその目の奥には、何千もの人間を値踏みしてきた重みがある。
「座れ、アルヴィナ。——お前たち家臣も」
長いテーブルの片側にアルヴィナたちが並び、反対側にカヴォンと二人の側近が座った。
タロンは——部屋の隅の椅子に座らされた。子供だから、交渉の席には着かせない。カヴォンもタロンにはほぼ視線を向けなかった。
「事情は聞いている。ルクザール配下のグルダ一党と交戦し、こちらの被害はなし。向こうは一人が死亡、残りは気絶。——合っているか」
「合っています」
「で——死んだ男だが」
カヴォンが書類をめくった。
「傷がない。毒の痕跡もない。外傷ゼロの死体だ。——これをどう説明する」
沈黙が落ちた。
アルヴィナは——答えを持っていなかった。
あの瞬間、何が起きたのか。本当にわからないのだ。
「……正直に申し上げます。わかりません」
「わからない?」
「交戦中に、グルダの部下の一人が魔法を使用しました。その直後——何かが起き、全員が動けなくなりました。圧のようなものが辺り一帯を覆い、魔法は消滅し、放った男が死んでいました。我々は何も手を出していません」
カヴォンの目が——細まった。
「魔法の暴発か。自分の魔法に呑まれて死んだケースはある」
「可能性はあります」
「だが——お前の報告では、全員が動けなくなる『圧』があったと。それは魔法の暴発では説明がつかん」
「はい」
「なるほど」
カヴォンは書類を閉じた。
「正直に言おう。ルクザールの側はこの件で騒いでいる。配下が不審死した以上、黙ってはいられんとな。だがガロウ様も——お前たちを簡単にルクザールに差し出すわけにはいかん。面子の問題だ」
「では——」
「しばらくここにいろ。ガロウ様とルクザール殿の間で調整が必要だ。その間、お前たちはこの拠点内で待機だ。出て行くな。騒ぐな。目立つな」
「……承知しました」
「それと——」
カヴォンの目が——初めて、部屋の隅のタロンに向いた。
「あの子供は何だ」
「旅の途中で保護した孤児です。行き場がないので連れています」
「孤児、ね」
カヴォンはタロンを数秒見つめ——それ以上は追及しなかった。
だがその目は——「信じていない」と言っていた。
*
待機命令が出た。
カヴォンの中央拠点内に宿舎を与えられ、アルヴィナ一行は身動きが取れなくなった。
南への旅が止まった。
タロンにとっては苛立たしい足止めだったが——この状況を利用できることにも気づいていた。
中央拠点には情報がある。
下院の勢力図。上院の人間関係。ヴァルグラム全体の権力構造。
書庫の歴史書とは比べ物にならない、生きた情報が。
タロンは宿舎を出て、拠点内を歩き回った。
子供のフリをして。目を開いて。耳を澄ませて。
闘技場の観客席で、下院の戦士たちの会話を聞いた。
酒場の隅で、商人たちの情報交換を聞いた。
掲示板の前で、新しく更新されるランキングと公示を読んだ。
頭の中の地図が——急速に精度を上げていく。
*
三日目の夜。
宿舎の中は重い空気だった。
待機命令が長引くにつれ、全員の神経が削られていく。ドラグは苛立って壁を殴り、シェイラは窓の外を見つめたまま動かず、オルネスは地図を広げては畳みを繰り返していた。
ヴェスカだけが相変わらず陽気に振る舞おうとしていたが、さすがに声が小さくなっていた。
ジェーンは——アルヴィナの横に座っていた。
「アルヴィナ。この足止め、長引くわよ。ガロウとルクザールの調整なんて、数日で終わるようなものじゃない」
「わかっている」
「……ここにいる間に、何か仕掛けられるかもしれない。カヴォンは中立に見えるけど、結局はガロウの代理人よ。ガロウにとって私たちが不要になれば——」
「わかっている、ジェーン」
アルヴィナの声が——少し、硬かった。
ジェーンは唇を引き結んで黙った。
その目に浮かぶものが——心配だけではないことに、アルヴィナは気づいていた。
(……ジェーン。お前は、何を思っている)
幼馴染。アルディナから一緒に逃げてきた。誰よりも長い付き合い。
だが最近——ジェーンの目が変わった。アルヴィナを見る目に、以前はなかったものが混じっている。
それが何なのか——今は考えたくなかった。
*
四日目の昼。
ドラグが宿舎に戻ってきた時、その顔が変だった。
「どうした」
「……いや。ちょっと話があって呼ばれた」
「誰に」
「カヴォンの側近の一人。——飯を奢ってくれた」
アルヴィナの目が鋭くなった。
「……何を言われた」
「別に。世間話だよ。俺の腕を褒めてくれた。上院の下級兵だった頃の話を聞かれた。——ルクザール様のところなら、お前の腕なら上に行ける、みたいな話を、ちらっとな」
空気が凍った。
ルクザールの名前。
ドラグに向けて。
「……お前、何と答えた」
「何も。飯を食って帰ってきた」
「本当か」
「本当だ。——俺を疑ってるのか、アルヴィナ」
ドラグの目が——真っ直ぐにアルヴィナを射抜いた。
数秒の沈黙。
「……疑ってはいない。だが——気をつけろ。あれは偶然の世間話じゃない。工作だ。ドラグ、お前の腕を見込んで、ルクザール側に引き抜こうとしている」
「わかってるよ。馬鹿にするな」
ドラグは横になって、背を向けた。
アルヴィナは——そのまま、しばらくドラグの背中を見つめていた。
(工作が始まった。——予想より早い)
ドラグの腕は確かだ。元上院の下級兵。実戦経験も豊富。ルクザール側にとっては——アルヴィナの武力の柱を引き抜くことで、一石二鳥の効果がある。アルヴィナが弱体化し、同時にルクザールの戦力が増える。
(カヴォンの側近がやっている。ということは——カヴォン自身は知っているのか。それともルクザールが独自に動いているのか)
どちらにしても——アルヴィナには、止める手段がなかった。
ドラグを信じるしかない。
*
その夜。
全員が寝静まった後、アルヴィナは宿舎の屋上に出た。
中央拠点の夜景。松明と魔石灯の光が、石造りの街並みを照らしている。闘技場の歓声が風に乗って届いてくる。
(ここまで来て——足止めか)
苛立ちを——飲み込んだ。
飲み込むことには慣れている。アルディナを追われてからの五年間、飲み込み続けてきた。
(アルディナ——)
記憶が——不意に、蘇った。
石造りの館。庭園の噴水。金の刺繍が施された礼服。母の匂い。父の声。
アルヴィナ家——中位家系の中でも名門と呼ばれた一族。アルディナ中央部の温暖な丘陵地帯に、代々の領地を持っていた。
騒乱の世紀が来た。
五家体制の崩壊。戦乱。旧秩序の解体。
アルヴィナ家は——より大きな勢力に飲み込まれ、領地を奪われ、当主だった父は殺された。母はその前に病で死んでいた。
残されたのは、剣術だけは仕込まれていた十代の娘と、幼馴染のジェーン。
二人で逃げた。
アルディナの混乱を突いて東へ。ヴァルグラムの領域に入り、身分を隠し、下院の最下層に潜り込んだ。
それから五年。
毎日が泥の中を這うような日々だった。
汚れ仕事。侮辱。暴力。女であること、外国人であること、元貴族であること——全てがハンデになる世界で、拳と度胸だけで生き延びてきた。
(居場所が欲しい。誰にも奪われない場所が。——それだけだ。それだけのために、ここまで来た)
「……眠れないのか」
声がして振り返ると——タロンが屋上の入口に立っていた。
フードは外していた。白い髪が夜風に揺れている。
「お前こそ。——ああ、二三日に一度しか眠らないんだったか」
「うん」
タロンが隣に立った。
二人で夜景を見下ろす。
しばらく、沈黙が続いた。
「アルヴィナ」
「何だ」
「お前の家は——どんな家だった」
不意の質問だった。
アルヴィナは——少し驚いた。タロンが自分から質問してくることは珍しい。
「……中位家系の、まあまあの名門。アルディナの中央部に領地があった。丘の上の館で、庭には噴水があった。——馬鹿みたいに大きな噴水」
「…………」
「父は剣が強かった。母は歌が上手かった。使用人がたくさんいて、食事はいつも温かかった。それが——なくなった。戦乱で」
「……そうか」
「お前は?」
「…………」
タロンは——長い間、黙っていた。
アルヴィナは待った。急かさなかった。
「……僕の家も、同じだ。父がいて、母がいて、兄がいて、姉がいた。北方の城に住んでいた。——なくなった」
「戦乱で?」
「……裏切りで」
それだけだった。
だがアルヴィナには——その短い言葉の奥にある重さが、わかった。
自分と同じ種類の重さだ。
故郷を失った者。
家族を失った者。
何もかもなくなった後に、それでも歩き続けている者。
「……似ているな、私たち」
「……似ている」
タロンがそう認めたのは——初めてだった。
誰かとの共通点を、自分から認めたのは。
アルヴィナは——少しだけ、笑った。
「お前のその白い髪。北方の家系か」
「……母と、姉が——同じ髪だった」
「綺麗な色だ」
「…………」
「嘘じゃない。本当に綺麗だと思う」
タロンは——何も答えなかった。
だがフードを被り直さなかった。
白い髪を夜風に晒したまま、南の空を見上げていた。
星が出ていた。
北方の星座とは配置が少し違う。南に来た証拠だ。
「アルヴィナ」
「何だ」
「……ドラグの件。気をつけたほうがいい」
「……聞いていたのか」
「壁が薄い」
「…………」
「あの男は——引き抜かれる可能性がある。忠義の問題じゃない。条件次第で人は動く。特に——上を目指す者は」
アルヴィナは——苦い顔をした。
わかっている。
ドラグが裏切るかもしれないことは、頭では理解している。
だが——信じたい。信じたいのだ。
「……お前は、人を信じないのか。タロン」
「信じていた人に殺された」
平坦な声だった。
だがその一言が——アルヴィナの胸を、深く刺した。
「…………」
「だから——信じるかどうかは、関係ない。備えるかどうかだ」
「……お前の言う通りかもしれない。だが——私はまだ、人を信じたい。馬鹿だとわかっていても」
「知っている。だからお前は——ここにいるんだろう」
アルヴィナは——タロンを見つめた。
白い少年の横顔。感情の乏しい、冷たい目。
だがその目の奥に——ほんの微かに、何かがあった。
同意、ではない。共感、でもない。
もっと静かなもの。
理解——かもしれなかった。
「……お前のその、人を信じたい気持ちは」
タロンが言った。
「僕には——もう、ないものだ。だから……守れない。だが——」
言葉が途切れた。
「だが?」
「…………お前がそれを持っている限りは、壊させたくないとは思う」
アルヴィナは——息が止まった。
この少年の口から、こんな言葉が出るとは思わなかった。
「……それは、心配してくれているのか」
「わからない。そういう名前のものかどうか、自分でもわからない」
「……ヴェスカが言っていたぞ。『わからない』は、本当はわかっているってことだと」
「…………」
タロンはフードを被り直した。
「寝ろ、アルヴィナ。明日も長い」
「お前に寝ろと言われるのは妙な気分だ」
「僕は眠らなくていい体だから」
「……ああ。そうだったな」
アルヴィナは立ち上がり、屋上の入口に向かった。
振り返ると——タロンは南の空を見上げたまま、動かなかった。
白い髪が夜風に揺れている。
小さな背中。華奢な体。
だがその中に——都市を灰にした何かと、人を信じたいと願う何かの残滓が、同居している。
(このガキは——何なんだ。本当に)
答えは出なかった。
だが——一つだけ、わかったことがある。
この少年は、嘘をつかない。
少なくとも——アルヴィナには。
それだけで——今は十分だった。




