第一部 第十一話 獣と人
第十一章 獣と人
待機七日目。
カヴォンの中央拠点に押し込められた生活は、全員の神経を少しずつ削っていた。
ドラグは毎日のように闘技場に通い、見知らぬ戦士たちと拳を交わしている。溜まった苛立ちを、汗と一緒に流しているのだろう。あるいは——カヴォンの側近に誘われた食事の後から、ドラグの足が闘技場に向く回数が増えた気がするのは、タロンの気のせいだろうか。
闘技場には——ルクザール側の人間もいる。
(ドラグが闘技場で名を売れば、ルクザール側の目に留まる。それが向こうの狙いなら——食事の誘いも、ドラグの腕を褒めたのも、全部繋がっている)
タロンは宿舎の窓から闘技場の方角を見つめながら、そう考えていた。
だが——アルヴィナには言わなかった。前に一度言った。それ以上は余計だ。
オルネスは宿舎に籠もって地図と書類を睨み続けている。何かを計算している。何を計算しているのか、タロンには読めなかった。
シェイラは——変わっていた。
金色の瞳がいつもより鋭い。鼻がひくひくと動く回数が増えている。何かの匂いを追っているのか、あるいは——何かの匂いを恐れているのか。
ジェーンはアルヴィナの傍を離れなくなった。まるで番犬のように。
ヴェスカだけが——変わらなかった。
「タロン君、暇でしょ。街を散歩しようよ」
八日目の朝、ヴェスカがタロンの袖を引っ張った。
「……出歩いていいのか」
「拠点の外に出るなとは言われたけど、中は自由だよ。カヴォンの側近に確認した」
タロンは——少し迷って、立ち上がった。
情報収集は一人でもできるが、ヴェスカと一緒なら「子供同士の散歩」に見える。目立たない。
*
中央拠点の裏通りを歩いていた時だった。
路地の奥に——人だかりができていた。
タロンとヴェスカが近づくと、見えたのは輪になった男たちと、その中心で蹲る一つの影だった。
小柄な体。灰色の肌。尖った耳。
——魔族だ。下級の魔族の子供。ヴェスカと同じくらいの体格。
三人の男たちが、その子供を囲んで笑っている。
「よう、チビ。通行料だぜ。この路地を通りたきゃ——」
「もう払えるもの何もないです……お願い、通して……」
「ねえもんは仕方ねえな。じゃあ体で払ってもらうか」
男の一人が子供の腕を掴み、捻り上げた。
「いたっ——やめて——!」
タロンは——足を止めた。
見ていた。
冷静に。客観的に。
(……ヴァルグラムでは珍しくもない光景だ。力のある者が力のない者から奪う。それがこの国の構造だ)
介入する理由はない。あの子供とタロンには何の関係もない。ここで目立つ行動をすれば——
「ちょっと! やめなよ!」
ヴェスカが飛び出した。
三人の男と、蹲る子供の間に割って入る。小柄な体を精一杯広げて、両手を広げて立ち塞がった。
「子供に何してんの! 恥ずかしくないの!」
「あ? なんだテメエ。邪魔すんじゃねえよ」
「邪魔する! 弱い者いじめなんて最低だよ!」
男の一人が——ヴェスカの胸ぐらを掴んだ。
小柄なヴェスカの体が持ち上がる。足が地面を離れる。
「うっ——」
「テメエも魔族か。仲間意識ってやつか? だったら一緒に痛い目に——」
男の声が——途切れた。
タロンが、男の腕を掴んでいた。
いつ動いたのか、誰にも見えなかった。
路地の端に立っていた少年が、次の瞬間には男の腕に手をかけていた。
「……放せ」
タロンの声は静かだった。
「あ? ガキが何——」
タロンの指に——力がこもった。
僅かに。ほんの僅かに。
だがそれだけで、男の顔が歪んだ。骨が軋む音が、路地に響いた。
「いっ——いてえ! いてえ放せ!」
男がヴェスカを手放した。ヴェスカが地面に着地する。
タロンは男の腕を放した。
男は腕を押さえて後退る。残りの二人が——タロンを見た。
フードの奥の、白い顔。少年の顔。
だがその目は——笑っていなかった。何も映していなかった。
(やめろ。ここで力を見せるな。制御しろ。制御——)
胸の奥で、何かが蠢いていた。
怒り——ではない。もっと原始的な衝動。獲物を見つけた捕食者の本能に似た、暗い脈動。
こいつらを壊せる。
簡単に。一瞬で。
ノルドヴァルの断片が——ちらりと、意識の端を掠めた。
青白い炎。灰。リーシャの——
「タロン君」
ヴェスカの声が——闇を裂いた。
「タロン君。大丈夫。もう大丈夫だよ」
ヴェスカが——タロンの手を握っていた。
いつの間に。
あの圧を——あの、ノルドヴァルで全員を凍りつかせた、あの気配の片鱗が漏れかけていたはずなのに。
ヴェスカは——怖がっていなかった。
琥珀色の瞳が、タロンを真っ直ぐに見ている。
第9章であの圧を浴びた時、座り込んで自分を抱きしめていた少女。あの恐怖を知っているはずなのに——今、タロンの手を握っている。
「大丈夫。ね。あの人たち、もう逃げたよ」
見れば——三人の男たちは、路地の奥に消えていた。タロンの目を見て、本能的に逃げたのだろう。
魔族の子供も——いなくなっていた。ヴェスカが割って入った隙に逃げたらしい。
路地には——タロンとヴェスカだけが残っていた。
手を握られている。
温かい。ヴェスカの手は——リーシャの手と同じくらい小さくて、同じくらい温かい。
(……止められた)
力が——引いていた。
胸の奥の暗い脈動が、ヴェスカの手の温度に押し戻されるように、沈静していく。
「……ヴェスカ」
「ん?」
「怖くないのか」
「何が?」
「僕が。——怖くないのか」
ヴェスカは首を傾げた。
「タロン君が怖い? なんで?」
「…………」
「タロン君、子供をいじめてた奴を止めてくれたでしょ。怖い人はそんなことしないよ」
「……僕は、止めたかったわけじゃない。お前が飛び出したから——」
「でも止めてくれた。理由なんてどうでもいいよ。やったことが全てでしょ」
ヴェスカは笑った。
暗い路地の中で、琥珀色の瞳が柔らかく光る。
「ほら、帰ろう。アルヴィナに怒られる前に」
ヴェスカがタロンの手を引いて、路地を出た。
タロンは——引かれるままに歩いた。
手を振りほどかなかった。
*
宿舎に戻ると——空気が違っていた。
重い。
朝出た時とは比べ物にならないほど重い。
部屋の中で、シェイラが立っていた。
いつもは壁にもたれて座っている女が——立っている。全身の毛が逆立っている。金色の瞳が、異常な光を放っている。
アルヴィナが向かい合って立っていた。顔が険しい。
「何があった」
ヴェスカが聞いた。場の空気を読まずに——あるいは読んだ上で、あえて声を出した。
アルヴィナが答えた。
「シェイラの部族に、使者が来た」
「使者?」
「ルクザール配下の人間だ。シェイラの故郷——辺境の獣人の部族に接触した。部族の長老を含む十数人を『保護』している。シェイラがアルヴィナの元を離れなければ——保護を解く、と」
保護。
保護という名の人質。
タロンは——シェイラの顔を見た。
金色の瞳が燃えていた。怒りではない。もっと深い感情。種族の——血の繋がりを脅かされた者の、根源的な恐怖と怒りの混合物。
「……シェイラ」
アルヴィナの声が低い。
「お前の判断に任せる。私は——お前を引き止めない」
シェイラが——口を開いた。
普段は一日に数語しか発しないこの女が、長い沈黙の後に。
「……恩がある。アルヴィナ。お前には恩がある」
「だから——」
「だが——族の者は、もっと前からの恩だ。血の恩だ。お前への恩は五年。族への恩は——生まれてから、ずっと」
アルヴィナは——何も言わなかった。
言えなかった。
シェイラの言葉は正しいからだ。五年の主従関係と、生まれてからの血の繋がり。どちらが重いか——答えは自明だった。
「……行け。シェイラ」
「すまない」
「謝るな。——お前は正しい」
シェイラは荷物をまとめた。
僅かな持ち物。武器と、毛皮の上着と、小さな革袋。
出口に向かう途中で——タロンの前を通った。
金色の瞳がタロンを見た。数秒。
「お前の匂い——最初から、人間じゃないと思っていた」
「…………」
「だが——悪い匂いじゃなかった。獣に似ている。森の獣の匂い」
それだけ言って、シェイラは出て行った。
扉が閉まった。
部屋に残ったのは、五人。
ドラグが壁を殴った。拳の跡が石壁にめり込む。
「——くそっ!」
「落ち着け、ドラグ」
「落ち着いてられるかよ! シェイラの族を人質にとるなんざ、卑怯にも程がある! ルクザールの連中、ぶっ殺してやる!」
「それをやれば——シェイラの族が本当に殺される」
オルネスが冷静に言った。
「人質を取られた以上、正面から力でどうにかできる段階は過ぎた。これは——政治だ」
政治。
暴力と策略と人質で構成された、ヴァルグラムの政治。
タロンは——窓際に立って、外を見ていた。
シェイラが去っていく姿が見えた。
獣人の女性が、一人で街道を歩いていく。背筋は真っ直ぐだった。振り返らなかった。
(守れなかった)
その思いが——ぼんやりと浮かんだ。
守りたかったのか?
シェイラを?
わからない。
だが——あの金色の瞳が最後にタロンを見た時、あの目の中にあったものは——信頼、ではなかった。理解だった。
お前も同じだ——と、あの目は言っていた。
人間ではないものが、人間の中で生きている。その孤独を知っている。
その理解を——もう、受け取ることはできない。
(ルクザールが仕掛けてきている。シェイラの次は——誰だ)
ドラグか。オルネスか。ジェーンか。ヴェスカか。
一人ずつ——削られていく。
外側から。
コーカサス家が滅んだ時と同じ構造だ。
外部の工作で、内部が崩される。
五百年前と——何も変わっていない。
タロンは拳を握った。
指先から黒い靄が滲みかけて——止めた。
(力で解決できる問題じゃない。人質を取られている以上、僕がいくら強くても意味がない。ノルドヴァルを焼いたところで——リーシャは戻らなかった。力は、大事なものを守るためには——使えない)
その無力感が——怒りよりも、悲しみよりも深く、タロンの胸を抉った。
*
その夜。
宿舎の屋上。
タロンが一人で座っていると——ヴェスカが上がってきた。
「……また来たのか」
「眠れなくて」
ヴェスカがタロンの横に座った。
しばらく、二人とも黙っていた。
「シェイラ、行っちゃったね」
「……ああ」
「あたし、シェイラが好きだった。怖い顔してるけど、あたしが熱出した時ずっと看病してくれたんだよ。冷たい布を額に当てて、ずっと隣にいてくれた」
「…………」
「あたしは魔族で、シェイラは獣人で、全然違う種族なのに。そういうの、関係ないんだなって思った」
ヴェスカの声が——少しだけ、震えた。
「タロン君」
「何」
「あたしたち、バラバラになっちゃうのかな」
タロンは——答えられなかった。
そうなる可能性が高い。
ルクザールの工作は始まったばかりだ。シェイラは最初の一人に過ぎない。次は——ドラグか。オルネスか。
全員が奪われるまで、続くだろう。
「……わからない」
「また『わからない』だ」
「……今回は、本当にわからない」
ヴェスカは——膝を抱えた。
「あたしね、ここが好きなんだ。アルヴィナの所。最下層で、ボロボロで、金もないけど——みんないるから。ドラグがうるさくて、シェイラが怖い顔して、オルネスが嫌味言って、ジェーンがアルヴィナの心配して。それが——あたしの居場所なんだ」
居場所。
その言葉が——タロンの胸の奥で、鈍く響いた。
リーシャも同じことを言った。「ここが、タロンの新しい居場所」と。
アルヴィナも同じことを求めている。「誰にも奪われない場所」を。
そしてヴェスカもまた——同じものを、ここに見出している。
(居場所は——奪われる。いつも)
ヴォルクハイムが奪われた。ノルドヴァルを——自分が灰にした。
そして今、この場所も——外から削り取られようとしている。
「……ヴェスカ」
「ん?」
「……お前は、ここにいろ。何があっても」
「え?」
「僕には居場所は——もうない。だけど。お前の居場所を——」
言葉が詰まった。
何を言おうとしているのか、自分でもわからなかった。
守る?
守ると言えるのか。ノルドヴァルを灰にした自分が。リーシャを殺した自分が。
シェイラすら守れなかった自分が。
「……忘れてくれ。何でもない」
「忘れない」
ヴェスカが即答した。
「タロン君が何か言おうとしてくれた。それだけで——嬉しいよ」
ヴェスカは笑った。
暗い屋上で、琥珀色の瞳が星明かりを映して光っている。
タロンは——その光を見つめた。
リーシャの空色とは違う。
だが——同じ種類の温もりが、そこにはあった。
(また——失うのか。この温もりも)
考えたくなかった。
だが——考えずにはいられなかった。
南の空で、星が一つ流れた。
ヴェスカが「あ」と声を上げた。
「流れ星。願い事しなきゃ」
「……何を願う」
「みんなが、ずっと一緒にいられますように」
タロンは——何も願わなかった。
願いが叶った試しがない。
だから——願わない方がいい。
そのほうが、砕けた時に痛くないから。




