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第一部 第十二章 上院の影

第十二章 上院の影


 待機十二日目の朝、カヴォンの使者が来た。


「通行の許可が降りた。本日付けで待機命令を解除する。南方への移動を認める」


 アルヴィナは——使者の顔を見つめた。


「……理由は」


「ガロウ様とルクザール殿の間で調整がつきました。本件は手打ちとなりました。以上」


 使者は一礼して去った。


 宿舎に沈黙が落ちた。


「手打ち……?」


 ジェーンが呟いた。


「死人が出ているのに、手打ち? ルクザールがそれで納得するわけないでしょう」


「同感だ」


 オルネスが腕を組んだ。


「ルクザール側は配下を一人殺された。不審死だ。そのうえシェイラを人質に取るほどの執念を見せていた。それが突然——手打ち? 条件が合わない」


 ドラグが壁にもたれたまま、低い声で言った。


「……何かを差し出したんだろう。ガロウが。ルクザールを黙らせるために——何かを」


 全員が顔を見合わせた。


 何を差し出した?

 金か。領地か。利権か。

 それとも——


 タロンは窓際に立っていた。何も言わなかった。

 だが——嫌な予感が、胸の奥で冷たく脈打っていた。


   *


 宿舎を出て、中央拠点の門に向かう途中だった。


 大通りの掲示板の前に——人だかりができていた。

 いつもの下院ランキングの更新ではない。人々の顔が違う。好奇と嫌悪と恐怖が混ざった、見世物を見る目。


「何だ、あれ」


 ドラグが眉をひそめた。


 人だかりの中心に——何かが置かれていた。


 木箱。

 粗末な木箱が、掲示板の下に無造作に置かれている。蓋は開いていた。


 アルヴィナが近づいた。

 人垣を押し分けて、木箱の前に立った。


 中を見た。


 ——足が、止まった。


 灰色の肌。金色の瞳——もう、光を失っている。

 銀色の毛並み。尖った耳。


 シェイラの首だった。


 切断面は綺麗だった。一太刀。熟練の刃。

 表情は——穏やかだった。苦しまなかったのか。それとも——覚悟の上だったのか。


 木箱の底に、紙片が一枚敷かれていた。


 『手打ちの証。——ルクザール』


 手打ち。

 これが——手打ちの中身だった。


 ガロウがルクザールに差し出したもの。

 あの不審死の代償として。

 シェイラの——命。


(シェイラは族の元に帰ったんじゃない。ガロウがルクザールに引き渡したんだ。族を人質に取ったのはルクザールだが——シェイラ本人を差し出すことで取引を成立させたのはガロウの側だ)


 アルヴィナの手が——震えていた。


 周囲の喧騒が遠くなる。人だかりの声も、大通りの物音も、全てが水の底に沈んだように聞こえなくなる。


 シェイラ。

 寡黙で、信義に厚くて、金色の瞳で全てを見通していた女。

 タロンの匂いが「人間じゃない」と最初に見抜いた鼻。

 ヴェスカが熱を出した時に、ずっと冷たい布を当ててくれていた手。


 その首が——木箱の中で、安らかに目を閉じている。


「……アルヴィナ」


 ジェーンの声が聞こえた。遠い。


「アルヴィナ、こっちを向いて。見ないで——」


「見ている」


 アルヴィナの声は——静かだった。

 静かすぎた。


「見ているよ、ジェーン。ちゃんと見ている」


 アルヴィナは——木箱の中のシェイラの顔に手を伸ばした。

 冷たい頬に触れた。指先で、閉じた瞼をそっと撫でた。


「……ごめん。シェイラ。——守れなかった」


 その声は——誰にも聞こえなかっただろう。

 唇が動いただけの、音にならない言葉。


 アルヴィナは立ち上がった。


 振り返った時——その目は、もう濡れていなかった。

 代わりに——炎があった。

 静かで、冷たくて、消えることのない炎。


「ルクザールを殺す」


 全員が——凍りついた。


「そしてガロウも——」


「ガロウは殺さない」


 アルヴィナの声が、ドラグの声を遮った。


 沈黙。


 ドラグの目が——剣呑に光った。


「……何言ってんだ、アルヴィナ。シェイラを売ったのはガロウだぞ。ルクザールが殺したとしても——差し出したのはガロウだ」


「わかっている」


「わかっていて、許すのか。冗談じゃねえ」


 ドラグの声が——低く、太く震えていた。怒りだ。純粋な。


 オルネスが口を開いた。冷静な声——だが、目は冷たい。


「ドラグに同感だ。ガロウが我々の仲間を取引の材料にした。元締めとしての信頼は完全に壊れている。この男の下にいる限り——次に売られるのは我々だ」


 ヴェスカは何も言わなかった。

 ただ——泣いていた。声もなく。頬を涙が伝っている。

 その涙の向こうにある感情が怒りなのか悲しみなのか——おそらく両方だった。


 ジェーンがアルヴィナを見つめていた。


「……アルヴィナ。みんなの気持ちはわかるでしょう。ガロウを庇う理由があるなら——聞かせて」


 四人の目が——アルヴィナに集中していた。

 タロンは壁際に立って、その光景を見ていた。


 亀裂。

 小さいが——確かな亀裂が、今この瞬間に入った。


 アルヴィナは——全員の目を一人ずつ見つめた。


「……ガロウは、そんなことをする男じゃない」


「は——」


「聞け、ドラグ。最後まで聞け」


 ドラグが口を噤んだ。拳は握りしめたままだが。


「ガロウは——私を拾ってくれた人間だ。十七の孤児を。アルディナから逃げてきた、言葉も通じない女を。下院の末端に入れてくれた。最初の仕事をくれた。最初の武器をくれた」


「恩人だからって——」


「恩人だから庇っているんじゃない。あの男の性質を知っているから言っている。ガロウは冷徹だが、無意味な犠牲を出す男じゃない。配下を取引材料にするのは——あの男のやり方じゃない」


「だが現にシェイラは——」


「だから——裏がある、と言っている」


 アルヴィナの声が鋭くなった。


「ガロウは老いている。ここ数年、上院の中で力を失いつつある。ルクザールのような新興勢力に縄張りを侵食されている。肉体の衰えと共に、政治力も衰えている」


 全員が黙った。


「以前のガロウなら——シェイラを差し出す前に、ルクザールの弱みを突いて交渉を有利に運べた。それができなかったということは——ガロウ自身が追い込まれている。手札が尽きかけている。あるいは——」


 アルヴィナの声が低くなった。


「カヴォンが独断でやった可能性もある。ガロウの権力が衰えたことで、カヴォンが独自の判断でルクザールと取引した。ガロウの名前を使って。——老いた主の名を騙るのは、この国では珍しくもない」


「推測だろう」


 オルネスが言った。


「推測だ。だからこそ——確かめに行く。ガロウに直接会って、真実を聞く。シェイラの件が本当にガロウの判断だったのか。それとも——別の何かが起きているのか」


 ドラグが——低く唸った。


「……で、もしガロウが本当にシェイラを売っていたら?」


「その時は——」


 アルヴィナは一瞬だけ目を閉じた。


「その時は、私が自分でケリをつける」


 沈黙が——重く落ちた。


 ドラグは納得していなかった。顔を見ればわかる。

 オルネスも。ヴェスカも。ジェーンも。


 四人の中に燻る感情は同じだった。——ガロウへの憎悪。

 シェイラを殺したルクザールへの怒りはもちろんある。だがそれ以上に、味方であるはずの元締めが仲間を売った——その裏切りへの怒りが、全員の胸に黒く渦巻いている。


 アルヴィナだけが——ガロウを信じようとしている。


 その一点が——集団の中に、小さな楔を打ち込んでいた。


「……ルクザールを倒す。それは全員一致だろう」


 アルヴィナが言った。


「ガロウの件は——私が確かめる。お前たちがガロウを許せないのはわかっている。だが——結論を急ぐな。真実がわかるまでは」


「……わかった。だが——」


 ドラグが立ち上がった。


「もしガロウが本当にやってたなら、俺はあの男を許さねえ。アルヴィナ、お前がどう言おうともだ」


 それだけ言って、ドラグは焚き火を離れた。


 残された全員が——それぞれの沈黙を抱えて座っていた。


 タロンは壁際から、アルヴィナの横顔を見ていた。


(この女は——信じようとしている。裏切られたかもしれない相手を。証拠もなく、根拠は直感だけで。——僕には、できないことだ)


 信じていた人に殺された。タロンにはその記憶がある。

 ヴォルグは笑顔で心臓を貫いた。


 だからタロンは——もう誰も信じない。


 だがアルヴィナは——まだ信じようとしている。

 それが愚かなのか、強さなのか。タロンにはわからなかった。


「ガロウに会う必要がある。ヴァルグラムの首都——ヴァルグに居を構えている。ルクザールを倒すにしても、ガロウの後ろ盾がなければ勝ち目は薄い」


 首都ヴァルグ。

 ヴァルグラムの心臓部。上院の全員が集まる場所。


 タロンは——黙って聞いていた。


 南への旅が——方向を変える。

 カルディナの記録院ではなく、ヴァルグラムの首都へ。

 目的地から——遠ざかる。


(ルクザールを倒すのは、アルヴィナの戦いだ。僕の目的とは関係ない。——ここで離れるべきか)


 その思考が走った時——アルヴィナがタロンを見た。


「タロン。お前は——来るか」


「……僕の目的地はカルディナ方面だ。ヴァルグラムの首都は逆方向になる」


「わかっている。だが——ガロウに会うことは、お前にとっても意味があるかもしれない」


「どういう意味だ」


 アルヴィナは少し迷ってから——口を開いた。


「ガロウは——ヴァルグラムの上院の中では異質な男だ。他の上院は幾何学魔法や融合型の最新魔法を使う。だがガロウは違う。あの男は——剣を使う」


「……剣?」


「正確には——剣を触媒とする魔法だ。体内の魔力を剣に通し、刃そのものを魔法的に強化する。ヴァルグラムの主流とは全く違う、古い型の術式だと聞いている」


 タロンの思考が——止まった。


 剣を触媒とする魔法。

 体内の魔力を外部の物体に通す。

 幾何学魔法でもなく、素材術でもなく——


(それは——瑩洲エイシュウの体系だ)


 ノルドヴァルの書庫で読んだ記述が蘇る。


 瑩洲——東大陸の魔法体系。魔族の固有魔法を人間が取り込んだ融合型。その根幹にあるのは「魔力を外部に投射する」思想だ。アルディナの幾何学魔法が「魔法陣やルーン文字を媒介にして魔力を制御する」のに対し、瑩洲の体系は「術者自身の体——あるいは武器——を魔力の通り道にする」。


 剣を触媒とする魔法は——瑩洲系の技術だ。

 あるいはその派生。


(ガロウという男が、なぜ瑩洲系の魔法を使える? ヴァルグラムは元々瑩洲から侵出した勢力だ。李家の軍がアルディナに渡り、アサラムの長に李家が滅ぼされ、残った軍が自律的に再編された——それがヴァルグラムの起源。だとすれば、ガロウは瑩洲の旧い技術を受け継いでいる可能性がある)


 瑩洲。

 東大陸。

 タリン家がコーカサスを滅ぼした裏にあった脅威。リューヤクが人類王を目指した理由。ヴォルグとヴィジュアが語っていた「海の向こう」の危機。


 全ての起点は——瑩洲にある。


 そしてカルディナの記録院——タリンの血統認定機関——もまた、瑩洲との関係を無視しては語れない。アルディナの旧秩序と瑩洲の新秩序が交差する場所に、タリンの名の根がある。


(ガロウに会えば——瑩洲系の魔法について、直接知ることができる。書庫の文字情報ではなく、生きた術者の技を。それは——カルディナに行くよりも、先に得るべき情報かもしれない)


 タロンの頭の中で、線が繋がった。


 遠回りではない。

 これは——回り道に見えて、実は核心に近づく道だ。


「……行く」


 タロンが言った。


 アルヴィナが——僅かに目を見開いた。


「意外だな。お前は自分の目的を最優先にすると思っていた」


「目的は変わらない。だが——お前のガロウという人物に、興味がある」


「興味?」


「剣を触媒とする魔法。それは——僕が追っているものと、根が同じかもしれない」


 アルヴィナはタロンの目を見つめた。

 青白い瞳の奥に——冷たい知性の光がある。損得を計算している目。だがそれだけではない。


 何かを——追っている目。


「……詳しくは聞かない。お前が来ると言うなら、それでいい」


「ああ」


「ヴァルグまで、馬で十日。——長い旅になるぞ」


「構わない」


 タロンはフードを被り直した。


 南ではなく——西へ。

 ヴァルグラムの心臓部へ。

 上院の老いた実力者に会うために。


 目的地が変わった。

 だが——その先に見えるものは、同じだ。


 瑩洲。タリン。コーカサス。

 五百年前に全てを壊した構造の根。


 それを——辿る。


   *


 出発の前に、アルヴィナはシェイラの首を丘の上に埋めた。


 穴を掘ったのはドラグだった。

 ヴェスカが拠点の鍛冶屋から儀式用の短剣を買ってきた。刃のない、飾り彫りの施された安物だ。だがヴァルグラムでは——戦士の墓には剣を刺す。それが弔いの作法だった。


 ドラグが短剣を土に突き立てた。

 刃のない剣が、灰色の空に向かって真っ直ぐに立っている。


 全員が——その剣の前に立った。

 祈りの言葉はない。ヴァルグラムの弔いに祈りはない。ただ、立つ。死んだ者の前に立ち、その剣を見つめる。それが——この国のやり方だった。


 タロンは——少し離れた場所に立っていた。


 剣の前には立たなかった。

 立つ資格がないと思ったからだ。


 グルダとの戦いであの圧が漏れた時——シェイラは全身の毛を逆立てて怯えていた。

 あの不審な死を招いた遠因は——タロンだ。

 タロンの体が勝手に放った力が、あの男を殺し、それがルクザールとの摩擦を生み、シェイラが取引の材料にされた。


(……僕のせいだ)


 その認識が——静かに、胸の底に沈んだ。


 悲しみではない。罪悪感、かもしれない。

 だがその輪郭も——やはりぼやけている。


 ヴェスカが泣いていた。

 声を押し殺して、花を一本ずつ土に挿しながら。


 アルヴィナは泣かなかった。

 目は乾いていた。だがその乾いた目の奥に——あの炎がある。

 静かで、冷たくて、消えることのない炎。


「行くぞ」


 アルヴィナが言った。


「シェイラの分まで——歩く」


 五人が丘を下り、西への街道に馬を向けた。


 タロンは相変わらず裸足で歩いている。

 馬と同速で。地面の霜を溶かしながら。


 もう——それを奇異に思う者はいなかった。

 この集団では、それが普通になっていた。


 灰色の空の下。

 一つ減った隊列が、西に向かって動き出す。


 シェイラがいた場所には——誰もいない。

 シェイラの金色の瞳は、もう何も映さない。


 だが——アルヴィナの目の中に、あの金色が残っている。

 炎の中に。怒りの中に。


 消えない。

 消させない。


 ヴァルグラムの首都は——西に十日。

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