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第一部 十三話 亀裂

第十三章 亀裂


 首都ヴァルグへの道中、五日目。


 最初にいなくなったのは、ドラグだった。


   *


 その夜、宿場町で宿を取った。


 ドラグは夕食の後、「闘技場を見てくる」と言って出て行った。この町にも小さな闘技場がある。カヴォンの中央拠点にいた頃から、ドラグは闘技場に通う習慣がついていた。


 夜が更けても戻らなかった。


 翌朝。

 ドラグの寝床は空のままだった。


 荷物はある。大剣もある。

 だが——ドラグがいない。


「……闘技場か」


 アルヴィナが宿を出て、町の闘技場に向かった。

 タロンがついて行った。


 闘技場の管理人——肥った人間の男——が、眠そうな目でアルヴィナを見た。


「ドラグ? ああ、昨晩遅くまで試合をしてたな。そのあと——ルクザールの連中と飲みに行ったよ」


 アルヴィナの顔が凍った。


「ルクザールの連中と?」


「そうだ。上院直属の精鋭が三人、昨日この町に来てた。ドラグの試合を見て気に入ったらしい。『お前ほどの腕が最下層にいるのは勿体ない』とか何とか言ってたな」


「……ドラグは何と答えた」


「さあ。一緒に飲みに行ったのは確かだ。そのあとは知らん」


 アルヴィナは管理人に礼を言い、闘技場を出た。


 町の酒場を片っ端から回った。

 三軒目で——酒場の主人が言った。


「ドラグって大剣の男か。昨夜は朝まで飲んでたよ。明け方に——ルクザールの連中と一緒に出て行った。馬に乗って、北に」


 北。

 カヴォンの中央拠点の方角。ルクザールの縄張りの方角。


 アルヴィナは——酒場の前で、しばらく動かなかった。


 タロンは隣に立って、何も言わなかった。


「……ドラグは」


 アルヴィナの声が、掠れていた。


「ドラグは——行ったのか。自分の意志で」


 タロンは答えなかった。

 答える必要がなかった。


 ドラグの荷物はある。大剣もある。

 だが本人がいない。——それが、全てだった。


 荷物を置いていったのは、「強制されたのではない」という証拠でもある。

 武器を置いていったのは、「もう必要ない」という意味だ。ルクザール側が新しい武器を与えるのだろう。


(……カヴォンの側近に飯を奢られた時から、布石は打たれていた。闘技場で名を売らせ、ルクザールの目に留まるようにし——最後に、精鋭を送り込んで引き抜く。段階的な工作だ)


 タロンは——ドラグの大剣を見つめた。

 使い込まれた柄。刃こぼれのある刀身。

 この剣と共にアルヴィナの前衛として戦ってきた男が——もういない。


「宿に戻るぞ」


 アルヴィナの声は——平坦だった。

 感情が消えているのではなく、押し殺しているのだとわかった。


   *


 宿に戻ると、オルネスが待っていた。


 テーブルの上に、地図と書類が広げられている。いつもの光景だ。

 だが——オルネスの顔が、いつもと違った。


「アルヴィナ。話がある」


「ドラグの件なら——」


「ドラグの件じゃない。私自身の件だ」


 アルヴィナが——足を止めた。


 オルネスは椅子に座ったまま、薄い笑みを浮かべていた。

 だがその笑みの奥に——疲労と、諦めが透けていた。


「……ノヴァ・カルディナの脱走兵。それが私の過去だ。お前も知っているだろう」


「ああ」


「その件で——脅されている」


 空気が変わった。


「誰に」


「ルクザールの情報屋だ。私がカルディナを脱走した時の記録を握っている。カルディナ側に引き渡されれば——私は処刑される。脱走兵は、ノヴァ・カルディナでは死罪だ」


「いつから」


「カヴォンの中央拠点にいた頃から。最初は小さな接触だった。『情報を提供しろ』と。アルヴィナの動き、兵力、計画。——断り続けていた。だが」


 オルネスが書類の一枚を持ち上げた。

 カルディナの紋章が押された、古い書簡。


「これが——昨日届いた。カルディナの捜査機関からの、正式な逮捕状だ。ルクザールの情報屋が手配したものだろう。——私が今日中にアルヴィナの元を離れなければ、この逮捕状が各地の検問に配布される」


「……オルネス」


「悪いが——私は死にたくない」


 オルネスの声は、いつもの皮肉な調子を失っていた。

 代わりにあるのは——剥き出しの、生存本能。


「お前と共にいた時間は——悪くなかった。だが私の命より重いものは、この世にない。——すまない、アルヴィナ」


 オルネスは立ち上がり、荷物を担いだ。


「一つだけ忠告しておく。ルクザールはお前を潰すつもりだ。手段を選ばない。——気をつけろ」


 オルネスは——振り返らなかった。

 宿の扉を開け、出て行った。


 靴音が遠ざかっていく。


 残されたテーブルの上には、地図だけが広がっていた。

 オルネスが何日もかけて書き込んだ、ヴァルグラムの勢力図。それだけが——置き土産だった。


   *


 二人失った。


 ドラグとオルネス。武力の柱と頭脳。

 アルヴィナの集団の両翼が、一日で消えた。


 残っているのは——アルヴィナ、ジェーン、ヴェスカ。そしてタロン。


 ヴェスカが泣いていた。声を押し殺して。

 シェイラの時も泣いた。ドラグの時は怒った。オルネスの時は——ただ泣いた。


「……ヴェスカ。泣くな」


 アルヴィナの声が硬い。


「泣いてない。泣いてなんかない——」


 嘘だった。頬が濡れている。


 ジェーンは——黙っていた。

 アルヴィナの隣に座って、何も言わなかった。


 だがその目が——タロンは見ていた。

 ジェーンの目の奥に浮かぶもの。それは悲しみだけではなかった。


 計算。

 あるいは——決意。


(ジェーンの目が変わっている。あれは——壊れかけている人間の目だ)


   *


 七日目の夜。

 首都ヴァルグまで、あと三日。


 宿営地の焚き火を囲んで、四人が座っていた。

 以前は七人だった円が、もう半分になっている。


 ジェーンが——口を開いた。


「アルヴィナ。ガロウの話をしよう」


 アルヴィナの目が——僅かに動いた。


「……何を」


「あなたはガロウを信じてる。裏があると言ってる。でも——私はそう思わない」


「ジェーン——」


「私もガロウに拾われた人間よ。あなたと一緒に。十七の時。覚えてるでしょう」


「覚えている」


「ガロウは私たちに居場所をくれた。それは事実。でもね、アルヴィナ——ガロウが見ていたのは、いつもあなただけだった」


 アルヴィナの表情が固まった。


「ガロウが仕事をくれたのはあなた。武器を与えたのもあなた。下院に入れたのもあなた。私は——あなたのおまけだった。ガロウにとっても」


「そんなことは——」


「ある。あなたが気づいていないだけ。ガロウはあなたの才能を見抜いていた。私のことは——あなたを引き留めるための飾りとしか思っていなかった」


 ジェーンの声が震えていた。

 怒りではない。もっと深い場所から来る、長い年月をかけて溜め込まれた感情の奔流。


「だから——ガロウがシェイラを売ったと聞いた時、私は驚かなかった。あの男にとって、使える人間以外は——取引の材料でしかないのよ」


「ガロウはそんな男じゃない」


「そんな男よ。あなたが認めたくないだけ」


 焚き火が爆ぜた。


「そしてあなたは——ガロウと同じことをしている」


 アルヴィナが——息を呑んだ。


「使える人間を集めて、使えなくなったら切る。ドラグ。オルネス。シェイラ。みんな——あなたにとっては駒だったんじゃないの?」


「違う——」


「じゃあ私は? 私はあなたにとって何なの」


 同じ問い。

 だが——その奥にあるものが、これまでとは違った。


「十七の時から一緒にいた。アルディナから逃げて、ヴァルグラムに渡って、五年間ずっと隣にいた。あなたが凍えている時は毛布を分けた。殴られた時は一緒に殴り返した。ずっと——ずっと、あなたの隣に」


「知っている。だから——」


「だから何? 感謝してる? 大事にしてる? ——嘘でしょう」


 ジェーンの目から涙が溢れた。


「あなたはいつもそう。前だけ見て、上だけ見て。ドラグが来ればドラグを頼りにして、あのガキが来ればあのガキにばかり気を取られて。私はいつも後回し。いつも——あなたの影」


「ジェーン——」


「ガロウに会いに行くんでしょう。あなたを捨てたかもしれない男に、それでも会いに行く。——私が五年間。いいや、ずっと隣にいたことより、あの男の恩のほうが重いんだ」


 アルヴィナの口が——開いた。だが言葉が出なかった。


 ジェーンが立ち上がった。


「もう——疲れた。あなたの隣にいるのが、疲れた」


「ジェーン、待ってくれ——どこに行く」


「知らない。アルディナに戻るかもしれない。他の街で一人で暮らすかもしれない。——ルクザールのところには行かないわよ。あいつらはシェイラを殺した。それだけは私にも矜持がある」


 その一言に——タロンは少しだけ安堵した。

 ジェーンは壊れかけているが、まだ壊れきってはいない。


「行かないで」


 アルヴィナの声が——掠れていた。

 指揮官の声ではなかった。幼馴染に縋る、少女の声。


「……残る理由を言って。私が残る理由を——一つでいいから、言って」


 アルヴィナは——口を開いた。


 だが——言葉が出なかった。


 残る理由。

 ジェーンが残る理由。


 友人だから? 幼馴染だから?

 ——それは、ジェーンがずっと否定してきた言葉だ。恩でも借りでもなく、対等な理由が欲しいと言っている。


 だがアルヴィナには——それが見つけられなかった。


 ジェーンが待っていた。五秒。十秒。

 焚き火が爆ぜた。


 ジェーンが——笑った。

 泣きながら。


「……やっぱり、ないんだ」


 荷物を肩にかけ、闇の中に歩き出した。


「ジェーン!」


 アルヴィナが叫んだ。


 ジェーンは——一度だけ振り返った。


「……さよなら、アルヴィナ。——あなたのことは、嫌いじゃなかった。ただ——好きでいるのが、辛かっただけ」


 闇に消えた。


 焚き火の前に、三人が残された。


   *


 アルヴィナが——崩れた。


 膝から力が抜け、地面に手をついた。

 肩が震えている。声は出ていない。だが——全身が震えている。


(……壊れた)


 タロンは見ていた。

 アルヴィナの「人を信じたい」が——砕ける瞬間を。


 ドラグは買収された。

 オルネスは脅された。

 シェイラは人質を取られた。

 ジェーンは——嫉妬を利用された。


 四人が四人とも、それぞれの弱みを突かれて奪われた。


 コーカサス家がヴォルグの裏切りで滅んだ時と——同じだ。

 外部の工作で、内部が崩される。


 ヴェスカが——アルヴィナの背中に手を置いた。


「……アルヴィナ。あたしはいるよ。あたしは——どこにも行かない」


 アルヴィナは顔を上げなかった。

 震えが止まらない。


「……なんで。なんでみんな——」


「アルヴィナ」


 タロンの声だった。


 アルヴィナが顔を上げた。

 涙は流れていない。だが——目の奥の炎が、消えかけていた。あの、シェイラの死の時に灯った、静かで冷たい炎が。


「……お前も行くのか、タロン。お前も——」


「行かない」


 即答だった。


「僕にはルクザールに与する理由がない。ここにいる理由がある。——ガロウに会うまでは」


 冷たい言葉だった。

 感情ではなく、合理性。


 だが——アルヴィナは、それに救われた。


 嘘のない言葉。

 感傷ではなく、損得。

 それが今のアルヴィナには——誰の慰めよりも信じられる響きだった。


「……そうか。お前は——お前は、嘘をつかないんだな。相変わらず」


「嘘をつく理由がない」


 アルヴィナは——立ち上がった。


 足はまだ震えていた。だが——立った。


「ヴェスカ」


「うん」


「……ありがとう。お前も——残ってくれて」


「当たり前でしょ。あたしの居場所はここだもん」


 ヴェスカが笑った。

 暗闇の中で、琥珀色の瞳が焚き火の光を映している。


 三人。

 七人だった隊列が、三人になった。


 焚き火が小さくなっていく。

 薪が尽きかけている。


 誰も——新しい薪をくべなかった。


 火が細くなり、闇が広がり——やがて、最後の炎が消えた。


 暗闇の中で、三人が座っていた。


 アルヴィナと。ヴェスカと。タロン。


 それだけが——残った全てだった。

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