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第一部 第十四話 灰の王、再び

第十四章 灰の王、再び


 首都ヴァルグまで、あと一日。


 三人の旅は——静かだった。


 アルヴィナは口数が減った。以前の不敵な笑みが消え、代わりに据わった目で前だけを見ている。ジェーンの離脱が——一番深く刺さったのだろう。ドラグは買収。オルネスは脅迫。シェイラは人質。どれも外圧だ。だがジェーンは——感情で去った。


 ヴェスカだけが変わらなかった。


「アルヴィナ、お水飲んで。タロン君も。はい」


 水筒を差し出し、干し肉を分け、休憩の場所を探し、焚き火の薪を集める。

 誰もやらなくなった雑事を、全部一人でやっている。


「ヴェスカ。無理するな」


「無理してないよ。これ、あたしの仕事だもん。昔からずっと」


 笑顔。いつもの笑顔。


   *


 異変は、街道の最後の峠で起きた。


 峠を越えれば首都ヴァルグの城壁が見えるはずだった。

 だが——峠の手前で、道が塞がれていた。


 武装した集団。五十人以上。

 統一された鎧。揃った武器。下院の寄せ集めではない。上院直属の精鋭部隊。


 そしてその中央に——馬上の男が一人。


 長い黒髪を後ろで束ね、顎に整えた髭を蓄えた壮年の男。鎧は黒く、兜は被っていない。額に細い銀の飾り——上院の証。目を閉じていても周囲に魔力の気配が漂っている。ただ馬上にいるだけで、空気が重い。


 ルクザール。


「アルヴィナか」


 低い声。落ち着いている。怒りも嘲りもない。


「ガロウの犬が、主人に会いに来たか。——犬の散歩を邪魔するつもりはなかったんだがな。お前がヴァルグに入ると少々面倒なことになる」


「面倒?」


「ガロウはもう終わりだ。老いぼれて、議会での発言力もない。あと半年もすれば自然に消える。だがお前がガロウの元に辿り着けば——あの老人にもう一度火がつくかもしれん。それは困る」


「……ここで殺すのか」


「殺す必要はない。引き返せ。お前の家臣は既に預かった。ドラグもオルネスも私の下で不自由なくやっている。お前も来い。悪い条件は出さん」


 アルヴィナは——笑った。


 刃のような笑み。


「シェイラの首を木箱に入れて寄越した男の口から——悪い条件は出さん、か」


 ルクザールの目が僅かに細まった。


「あの獣人か。あれはカヴォンの判断で——」


「もういい。お前と話すことは何もない」


 アルヴィナが——半歩、退いた。


 その半歩の意味は——後ろのタロンに、前を譲るということだった。


 タロンがアルヴィナの横を通り過ぎ、前に出た。


 フードを被った小柄な人影。裸足。灰褐色の外套。

 五十人の精鋭の前に——子供が一人、立った。


 ルクザールの眉が——跳ねた。


 そして——笑った。


「なんだ、これは。アルヴィナ、奴隷を盾にするのか。趣味が悪いな。——おい小僧、邪魔だ。退け。主人に言われて出てきたのか知らんが、大人の話に子供が——」


 タロンがフードを外した。


 白い髪が、風に広がった。


 ルクザールの笑い声が——途切れた。


 凍った。


 笑みが消えた。唇が引き攣った。目が——見開かれた。


 五十人の精鋭たちは何も感じていなかった。白い髪の少年が立っている、それだけの光景。

 だが——ルクザールだけは、違った。


 上院の一角。ヴァルグラムでも指折りの魔法使い。その鍛え上げられた魔力感知が——少年の中にあるものを、感じ取ってしまった。


 底がない。


 海を覗き込んだ時の、あの感覚。足元の水が透明に見えて、その下に途方もない深淵が広がっていると気づいた瞬間の。


 この子供の中に——人間の器に収まりきらない何かが、眠っている。いや、眠ってすらいない。静かに渦巻いている。膨大すぎて輪郭すら掴めないものが。


「……何だ、お前は」


 ルクザールの声が——変わっていた。

 嘲笑は消え、代わりに出たのは——本能的な警戒。上院の実力者が、同格以上の存在に向ける声色。


 タロンは——口を開いた。


「跪け、定命の者どもよ」


 少年の声だった。

 高く、澄んだ、声変わり前の声。

 だがその言葉には——この世界の何処にも属さない、途方もない重さが宿っていた。


「我が名はタロン。タロン・コーカサス」


 風が——止まった。


「本当の死を、味わわせてやる」


   *


 世界が——裂けた。


 そう見えた。


 峠の街道が——地面が——空が——全てが一瞬で色を失い、暗転した。


 次に目が開いた時——全員が、見知らぬ場所に立っていた。


 漆黒の湖。


 足元に水面がある。黒い。何も映さない。鏡のように滑らかだが、その奥は何も見えない。

 空もない。地平線もない。上も下も左も右も——漆黒。

 ただ水面だけが、全方位に広がっている。


 五十人の精鋭が——狼狽した。


「な——何だこれは!」

「どこだ! ここはどこだ!」

「足元が——水か? 沈まないのか!」


 足は沈まなかった。水面の上に立てる。だが——水面を蹴っても走れない。滑るように移動はできるが、方向感覚がない。どちらに行っても同じ漆黒。壁もない。出口もない。


 逃げ場が——ない。


 ルクザールは馬から降りていた。馬は——いなかった。この空間には人間しかいない。武器と鎧はそのままだが、ルクザールの顔には——明確な恐怖が刻まれていた。


「結界——いや、違う。これは——領域そのものを書き換えている。こんな魔法は——」


 魔法の分類に当てはまらない。

 幾何学魔法でも、融合型でも、古代魔法でも。


 ルクザールの知識のどこにも——これに該当するものがない。


 漆黒の湖の中央に——タロンが立っていた。


 だが——さっきまでの裸足の少年ではなかった。


 漆黒の甲冑。


 全身を覆う、光を吸い込むように黒い鎧。影這いの外殻に似た光沢を持ちながら、ドヴォログの装甲のように重厚で、ベオウルフの毛皮のように生きている——矛盾した質感の甲冑が、タロンの体を覆っていた。


 肩から背にかけて、靄のような暗い気配が揺らめいている。

 兜はない。白い髪と白い顔が、漆黒の甲冑の上に浮かんでいる。


 その姿は——美しかった。

 恐ろしいほどに。


 右手に——剣があった。

 黒い刃。細く、長い。これもまた体の内側から生成されたもの。

 その刃が——ゆっくりと、下ろされていった。


 剣先が——水面に触れた。


 波紋が広がった。


 小さな波紋。黒い水面を、同心円状に広がっていく。

 静かに。穏やかに。


 だが——その波紋が精鋭たちの足元に届いた瞬間。


 水面が——沸騰した。


   *


 下から来た。


 漆黒の水面の下に——何かがいた。


 最初に飛び出したのは三条の爪だった。

 黒い外殻。光を吸い込む体表。闇に溶ける体躯——影這い。


 次に水面を割ったのは——銀の毛並みと牙。群れで動く灰色の影——ベオウルフ。


 地面を突き破るように——装甲に覆われた巨体がせり上がってくる。ドヴォログ。


 氷のように白い鹿の角が水面から突き出し——ヴェルヘン。


 他の魔獣の死骸を取り込んだ、輪郭すら定まらない異形——ナクトゥル。


 かつて北方の黒い森に棲んでいた魔獣たち。

 タロンが少年の頃に観察し、研究し、素材を集めた者たち。

 その全てが——タロンの体内に取り込まれた因子から、この漆黒の領域の中に顕現していた。


 水面の下で——彼らは待っていたのだ。

 今か今かと。狩りが始まるのを。


 波紋が合図だった。

 剣先が水に触れた瞬間——檻の扉が開いた。


 魔獣たちが——五十人の精鋭に襲いかかった。


   *


 悲鳴が上がった。


 逃げ場がない。この漆黒の空間には壁もなく出口もないが、同時に——どこにも逃げられない。走っても走っても同じ暗闇。そして足元から、横から、背後から——魔獣が湧き出してくる。


 影這いが闘士の脚を絡め取り、水面下に引きずり込む。

 ベオウルフの群れが隊列を分断し、孤立した兵士に牙を立てる。

 ドヴォログが水面から装甲の頭を突き出し、兵士を丸ごと飲み込む。


 精鋭たちは戦おうとした。剣を振り、魔法を放った。

 だが——刃は魔獣の外殻に弾かれ、魔法は水面に吸い込まれるように消えた。


 この空間では——タロン以外の魔法は機能しない。


 ルクザールが——剣を抜いた。


 刃に魔力を込める。瑩洲系ではないが、ルクザール独自の強化型魔法。刃が青白く輝き——影這いの外殻を斬り裂こうとする。


 通らなかった。


 刃が外殻に触れた瞬間——魔力が消えた。剣がただの鉄に戻り、外殻に弾かれる。


「馬鹿な——!」


 ルクザールが後退る。二体目のベオウルフが横から跳びかかる。ルクザールは身を捻って回避し——背後からドヴォログの尾に薙ぎ払われ、水面を転がった。


 タロンが——歩いてきた。


 漆黒の甲冑。黒い剣を片手に。

 魔獣たちはタロンの周囲を避けるように動いている。主人に道を空けるかのように。


「貴様——何者だ!」


 ルクザールが水面の上で這いながら叫んだ。

 上院の実力者。数千の配下を統べる男。ヴァルグラムで最も手段を選ばぬ策略家。


 その男が——地を這って、子供に怯えている。


 タロンは答えなかった。

 黒い剣を振り上げた。


 ルクザールが剣で受けた。鋼と鋼の激突——だが、力が違いすぎた。ルクザールの剣が弾き飛ばされ、水面の上を滑っていく。


 ルクザールが手のひらから魔法を放った。炎の奔流。上院の全力。


 タロンの甲冑に——触れた瞬間、炎が消えた。水面に吸い込まれるように、跡形もなく。


「剣も。魔法も。効かない——」


 ルクザールの声が、もう悲鳴だった。


 タロンの剣が——ルクザールの肩を斬った。

 黒い鎧ごと。肉を裂き、骨に届く一撃。


 ルクザールが倒れた。水面に血が広がる——が、黒い水がそれを飲み込むように吸い取っていく。


   *


 アルヴィナは——目を閉じていた。


 両手で耳を塞ぎ、水面の上に蹲っていた。


 見えない。見たくない。

 聞こえない。聞きたくない。


 漆黒の空間が出現した瞬間から——アルヴィナの体は動かなくなっていた。あの圧とは別の何か。この空間そのものが、戦闘に参加しない者を拘束しているかのように。


 だが——音は届く。

 耳を塞いでも。


 悲鳴。骨の砕ける音。水が跳ねる音。獣の唸り声。

 鎧が裂ける金属音。人間の声が途切れる音。

 何十人もの——死の音。


 ヴェスカが——アルヴィナの横に蹲っていた。

 同じように目を閉じ、両手で耳を塞ぎ、体を丸めて震えている。

 琥珀色の瞳から涙が溢れ、止まらない。


「やめて……やめて……やめて……」


 ヴェスカの声が——震える唇から漏れていた。


 だが——止まらない。

 狩りは止まらない。


 少年の中にいる獣たちが——五百年分の飢えを、今ここで満たしている。


   *


 やがて——音が消えた。


 悲鳴が消え、金属音が消え、獣の唸りが消え。

 水の跳ねる音だけが——遠く、遠く響いて、それも消えた。


 静寂。


 完全な静寂。


 アルヴィナは——ゆっくりと、目を開けた。


 漆黒の空間が——薄れ始めていた。

 黒い水面の端が溶け、その向こうに——峠の街道の風景が滲んできている。

 灰色の空。冬枯れの並木。石だらけの地面。


 領域が——収束していく。


 黒い水面が後退し、足元に石と土が戻ってくる。

 空が広がる。風が吹く。


 そして——峠の街道が、元に戻った。


 だが——風景だけが。


 五十人の精鋭は——一人も、立っていなかった。


 地面に倒れている。全員。

 血と、裂けた鎧と、折れた武器が散乱している。

 動いている者は——いない。


 ルクザールは——街道の端に倒れていた。肩から血を流し、意識を失っている。死んではいない——胸が微かに上下している。だが起き上がれる状態ではない。


 アルヴィナは——立ち上がれなかった。

 足が震えている。全身が震えている。

 見た。見てしまった。いや——見ていない。目を閉じていた。だが音で全てがわかった。


(あれが——タロンの力)


 領域を書き換える。魔獣を召喚する。全ての魔法を無効化する。

 人間の枠を——完全に、超えている。


(あれは——もう、人間じゃない)


 知っていた。最初から知っていた。馬と同速で歩く裸足の少年が、普通の子供であるはずがない。


 だが——知っていることと、見ることは違う。


 峠の中央に——タロンが立っていた。


 漆黒の甲冑は——消えていた。

 灰褐色の外套と、裸足。元の姿に戻っている。


 白い髪が——風に揺れている。


 タロンが——ゆっくりと、こちらを振り返った。


 白い顔。少年の顔。

 だがその目は——虚ろだった。


 焦点が合っていない。

 体が——揺れた。


「タロン——!」


 ヴェスカが叫んだ。


 タロンの体が——前のめりに崩れた。

 膝が折れ、地面に倒れ込む。


 ヴェスカが駆け寄った。アルヴィナも——震える足で、走った。


 タロンは——意識を失っていた。


 呼吸はある。心臓も動いている。

 だが——目は閉じたまま。あの青白い瞳の光が消えている。


「タロン君! タロン君! 起きて!」


 ヴェスカがタロンの体を揺する。反応はない。


 アルヴィナはタロンの顔を見下ろした。


 眠っているようだった。

 穏やかな——子供の寝顔。


 さっきまであの漆黒の空間を支配し、五十人の精鋭を魔獣に喰わせた存在と——同じ人間。


 同じ——人間、なのか。


「……担ぐぞ。ヴェスカ、手を貸せ」


「う、うん——」


 二人でタロンの体を持ち上げた。

 軽かった。子供の体だ。あの凄まじい力の器が——こんなに軽い。


 アルヴィナがタロンの上半身を背負い、ヴェスカが足を支えた。


「ヴァルグまであと一日。——歩けるか」


「歩く。歩くよ」


 ヴェスカの声は震えていた。だが——足は動いていた。


 二人の女が、意識のない少年を担いで、峠の道を歩き始めた。


 背後には——五十人の死体と、意識を失ったルクザールが横たわっている。

 誰も振り返らなかった。


 首都ヴァルグの城壁が——峠の向こうに見えていた。

 夕日に照らされて、赤く燃えている。


 タロンの白い髪が、アルヴィナの肩の上で風に揺れていた。


 この少年は何なのか。

 人間なのか。魔獣なのか。それ以外の何かなのか。


 答えは——まだ出ない。


 だが——一つだけ、わかったことがある。


 この少年は、アルヴィナのために戦った。

 理由が何であれ——戦って、勝って、そして倒れた。


 それだけが——今は確かな事実だった。


 灰色の空の下を、二人と一人が、首都に向かって歩いている。


 三人。

 七人だった隊列の、最後の三人。


 だが——まだ、歩いている。

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