第一部 第十五章 学者たちの城塞
第十五章 学者たちの城塞
ノヴァ・カルディナは——白い街だった。
白い石壁。白い塔。白い屋根。朝の光を受けて、街全体が淡く発光しているように見える。
旧王都カルディナの廃墟の上に建てられた学者の都市国家。元老院の後継組織が統治する、知識の城塞。
エリオンがこの街に来たのは三年前だ。
外部の研究者——つまり元老院の血を引かない、正統でない学者。
正統でないからこそ、正統の枠組みに縛られない。禁じられた問いを——ほんの少しだけ——禁じられた方向に追いかけることができる。
研究テーマは、魔力体系の比較分類学。
幾何学魔法。素材術。瑩洲の融合型。この三体系はそれぞれ独立した発展を遂げてきたが、根底に共通する原理があるのではないか——というのがエリオンの仮説だった。
三年間、文献を漁り、実験を重ね、論文を書いてきた。
答えにはまだ遠い。遠いからこそ、毎日が面白い。
*
その日の午後、研究棟に書記官が駆け込んできた。
「エリオン殿。元老院より召集です。至急、議場へ」
「議場? 外部研究者の私が呼ばれる案件とは」
「魔力分析の専門家が必要とのことです」
*
元老院の議場。白い円形の建物。半円形の議席に、白い法衣の元老たちが並んでいる。
議長——白髭の老人——が書類を手に取った。
「諸君、聞いてくだされ。西方より急報じゃ。ヴァルグラムの領域内、首都近くの峠にて大規模な戦闘があった。上院の一角であるルクザールの精鋭五十名が壊滅。ルクザール本人は重傷で生死不明」
議場がざわめいた。
「偵察の使い魔を飛ばして確認したところ、現場には確かに多数の遺体がありましてな。周辺から異常な魔力の残滓が検出されておる。——じゃが、それ以上のことはわからん。襲撃者の素性は不明。ヴァルグラム内部の抗争の可能性もあるが、魔力の残滓が既知のどの体系にも分類できんのが問題でな」
議長が小さな木箱を示した。
「使い魔が現場から回収した物証じゃ。破壊された鎧の欠片——鉄屑よ。ここに残留する魔力を分析し、何が起きたのかを突き止めてほしい。エリオン殿、お主は魔力体系の比較分類を専門にしておるな。適任であろう」
エリオンは木箱を受け取った。親指ほどの黒い金属片がいくつか入っている。手に取ると——指先がピリッとした。残留魔力。
「確かに残留魔力があります。分析には数日いただきたい」
「急いでくれい。ヴァルグラムの動向は流動的じゃ。正体不明の存在が上院を壊滅させたとなれば——我々にも火の粉がかかる」
*
研究棟に戻り、鉄屑を作業台に並べた。
まず残留魔力の波形を抽出する。魔力測定用の幾何学魔法陣を展開し、鉄屑を中央に置いて詠唱する。淡い光が金属片の表面を走り——波形が浮かび上がった。
二つの波形が重なっていた。
一つは鎧本来の強化魔法。幾何学魔法ベースの標準的なパターン。これは問題ない。
だがもう一つ——上から被さるように、別のパターンが刻まれている。鎧を破壊した力の痕跡。
紙に書き写し、手持ちの資料と照合した。三年間かけて収集した分類不可系統の記録——世界各地の遺跡、古戦場、不明遺物から採取した異常波形の資料集。
どれにも——完全には一致しなかった。
(三体系のどれでもない。私の資料にある分類不可のサンプルとも完全一致はしない。だが——共通する特徴がある)
この波形は——有機的だ。
通常の魔法の波形には、人為的な規則性がある。魔法陣のパターンであれ、術者の意志であれ、「人間が介在した」痕跡がある。
この波形にはそれがない。代わりにあるのは、生物的な揺らぎ。心臓の鼓動に似たリズム。呼吸に似た周期。
(生物由来の魔力パターンに近い。だが人間のものではない。魔族のものとも異なる。現存する魔獣の資料とも一致しない)
三日間、研究棟に籠もった。分析を繰り返し、波形を再測定し、文献を漁った。結論は変わらなかった。
未知の魔力。生物的パターン。分類不可。
(行き詰まった。視点を変える必要がある)
*
エリオンの恩師——マールス老は、ノヴァ・カルディナの古参の学者だった。
元老院の席は持たないが、長い研究人生で培った知識の幅は元老の誰にも引けを取らない。半ば引退し、街の端の書斎で資料の整理をしている——というのが表向き。実際には若い研究者がひっきりなしに相談に来る、非公式の知恵袋だ。
「先生。お時間をいただけますか」
「おお、エリオンか。まあ入れ入れ」
薄暗い書斎。壁を埋め尽くす書物と標本。マールス老は拡大鏡で何かの骨片を観察していたが、鏡を置いてエリオンを迎えた。
「えらい深刻な顔をしておるの。何があった」
「この波形を見ていただきたい」
エリオンが紙を広げた。鉄屑から抽出した波形と、分析ノート。
マールス老はしばらく黙って紙を見つめ——眼鏡を外した。
「……どこで手に入れたのじゃ、これは」
「元老院からの依頼です。ヴァルグラムの峠で起きた事件の物証——破壊された鎧の欠片に残留していた魔力です」
「ほう。それで——お前の手持ちの資料とは照合したのかの」
「しました。完全一致はありません。ただ——最も近い特徴は、魔法の波形ではなく、生物の魔力パターンです」
「生物、のう」
マールス老が椅子に深く座り直した。
「エリオン。お前が照合した資料は——現存する種のものだけかの?」
「はい。現存する魔獣の記録と照合しました」
「では、絶滅した種はどうじゃ」
「絶滅種は——記録がほとんど残っていません。体系的にまとまった資料が存在しないので」
「そりゃあそうじゃろうな」
マールス老が壁際に歩き、古い巻物を一本引き出した。
「のう、エリオン。この大陸にはかつて、今とは比較にならん数の魔獣が棲息しておった。人間が都市を築く遥か前——この大地の主は魔獣じゃった。そしてその中には、人間の軍勢を丸ごと呑み込むほどの強大な種もおった」
巻物を広げた。大陸の地図に、かつての魔獣の生息域が色分けされている。
「南方の深海域。西方の砂漠地帯。中央の大森林。東の山岳地帯。——各地にそれぞれ固有の魔獣の群がおり、地域ごとに独自の進化を遂げていた。その魔力のパターンも——地域によって大きく異なっておったのじゃ」
「地域固有の魔力パターン……」
「ところがの。大戦の前後で——多くの種が消えた。人間との衝突で滅んだものもあれば、環境の激変で緩やかに消えたものもある。そしてそれらの記録は——戦乱の中で失われたか、あるいは勝者の手で意図的に消されたか。じゃ」
「意図的に、ですか」
「勝者は都合の悪い記録を消す。人の世の常じゃよ。新秩序を築いた連中が、不都合な情報を処分したとしても不思議はあるまい」
「つまり——この波形が、絶滅種の魔力に由来する可能性がある、と」
「可能性じゃ。断定はできん。じゃが、現存種と一致せんのなら——絶滅種の方向を当たる価値はあろう。儂の手元にも、いくつかの地域の旧種について断片的な記録がある。南方と中央の一部じゃがな。古い資料じゃが——照合してみい」
マールス老が数冊の手記を引っ張り出した。
「ただし——記録の残っておる地域は限られておる。辺境のことは——そもそも記録する者がおらんかったのじゃ」
エリオンは手記を受け取った。
「ありがとうございます。照合してみます」
「うむ。——もう一つだけ言っておくがの、エリオン。分類不可の領域を深く掘れば掘るほど——お前は既存の秩序に疑問を抱くようになる。三体系がなぜ三体系として確立されたのか。なぜ『それ以外』が放置されておるのか。その問いを追い始めると——触れてはいかん場所に辿り着くかもしれん」
「触れてはいけない場所?」
「わしにもわからん。本当にわからん。——だがの、匂いはするのじゃよ。長い人生で嗅いできた、あの匂いがな。真理の近くに漂う——危険の匂いがの」
*
翌日。元老院の議場で臨時の会議。
議題は——ヴァルグラムへの対応。
「ルクザールの壊滅後、ヴァルグラムの上院は再編に動いておる。ガロウという老いた上院が権力を回復しつつあるとの報告じゃ。衝突は時間の問題よ」
ここまでは元老たちの意見は一致していた。問題は——その先。
「議長。一つ提案がございます」
議席の上段から声が上がった。議長派の重鎮として知られる元老——痩身で鉤鼻の男だった。
「収監中のグレイヴを解放し、前線に投入してはいかがかと」
議場が——凍った。
「グレイヴじゃと。あの罪人を野に放つのか。正気かね」
向かいの席から、白髪の女性元老が声を荒げた。反対派の筆頭格だ。
「あの男は元老院の最高機密に不正に接触した危険人物ですぞ。二度と外に出さんという合意の上で処刑を免れた。それを覆すなど——」
「合意は状況に応じて見直されるべきでしょう。正規の軍では未知の脅威に対処できませぬ。非正規の力が必要な局面です」
「必要だからといって、何でも許されるわけではない。グレイヴの能力は——」
「局面を打開できる可能性のある手札を、手元に持っておくのは当然のことです」
応酬が続いた。議長派と反対派が真っ向からぶつかっている。
議長が——杖で床を叩いた。重い、石を打つ音が議場に響いた。
「……よい。意見は十分に聞いた。グレイヴの解放については——儂の判断で決める」
「儂の判断で」——多数決ではなく議長の専権。反対派は数では上回っていたが、議長の専権を覆す手続きは、この元老院には存在しなかった。
白髪の女性元老が——唇を噛み、沈黙した。
エリオンは末席から、元老たちの顔を見回した。
(元老院は一枚岩ではない。議長とその派閥が、反対を押し切ってグレイヴを出そうとしている。——なぜそこまで)
その日の夕刻、議長はグレイヴの解放と前線投入を正式に決定した。
*
エリオンは収監棟に向かった。
地下の独房。鉄格子の向こうに——大柄な男が座っていた。乱れた黒髪。腕には魔力を封じる銀の枷。目だけが——鋭い。獣のような光。
グレイヴ。
「誰だ。見ねえ面だな」
「外部研究者のエリオンです。魔力体系の比較分類——特に分類不可系統を専門にしています」
「分類不可、ね。物好きな学者もいたもんだ。で、何の用だ。見舞いか?」
「情報の交換を提案します。私はヴァルグラムの峠の事件の物証を分析しています。あなたは明日にも前線に出る。互いに持っている断片を合わせれば——何か見えるかもしれない」
「断片、ね」
グレイヴが鉄格子に背をつけた。銀の枷が軋む。
「いいぜ。五年も牢の中じゃ退屈で死にそうだったんだ。話し相手がいるだけでもマシだ。——何が聞きてえ」
「あなたの力の源泉について。記録には詳しく書かれていません」
「そりゃあ、俺が喋んなかったからだろうが」
グレイヴが首を鳴らした。
「……まあいい。どうせ出されんだ。少しくらい話してやる。——俺の力はな、ある古文書から得た」
「古文書」
「この街の最奥——元老院の機密書庫にあった文書だ。議長のジジイしか触れることを許されてねえ最高機密。俺はそれを——盗み見た」
「…………」
「盗み見ただけじゃねえ。書き写した。解読した。実践した。——それが俺の罪だ。処刑されなかったのは、元老院の連中が俺の研究成果を没収したかったからだ。殺しちまったら、俺の頭の中にあるモンも一緒に消える。惜しかったんだろうよ」
「その古文書には——何が」
「技術書じゃなかった。——日記だ」
エリオンの眉が動いた。
「日記?」
「ああ。ある家族について書かれた、古い日記だ。北方の貴族の——古典的な習わしと、家族の暮らしが綴られていた。ほとんどが劣化して復元不可能だったがな。読めた部分は僅かだ」
「日記から——魔法の技術を?」
「日記の合間に、技術的な記述が断片的に混ざっていたんだ。書いた奴は——研究者でもあったんだろう。家族のことを書きながら、自分がやってる実験や調合の覚え書きも一緒に記していた。俺はその断片を繋ぎ合わせて、自分なりに再構成した。——他者の魔法を模倣し取り込む技術は、そうやって手に入れた」
「その家族というのは——何者だったんですか」
「さあな。北方の貴族だってことしかわからねえ。家名の部分は完全に劣化していて読めなかった。ただ——」
グレイヴの目が——少しだけ、遠くなった。
「読めた部分には、父親と兄弟の話が多かった。厳しい土地で、獣と戦いながら暮らしていた一族。——書いた奴は、その家族を愛していた。それだけは、行間からでもわかった」
沈黙が落ちた。
「……それで——前線の話だ。一つ確認させてください。あなたの力で、上院の精鋭五十人と上院の実力者一人を同時に相手にすることは可能ですか」
グレイヴが——鼻で笑った。
「ハッ。正直に言やあ——無理だな。俺の力は一対一向きだ。相手の魔法を見て、模倣して、取り込む。だが五十人が同時にかかってきたら——模倣する暇もなくぶっ潰される。上院の一人なら、まあ何とかなるかもしれねえが」
「では——魔獣を使役するような技術は」
「魔獣を使役? 俺にゃそんな芸当はできねえよ。俺が古文書から拾ったのは、あくまで人間の魔法を模倣する技術だ。獣は畑が違う」
「日記には、獣についての記述は」
「あったよ。獣と共に暮らしていた一族だ。獣の名前やら習性やらが書かれていた部分もあった。——だが、そこは技術的な記述じゃなくて、ただの日常の描写だった。『今日は父が獣狩りから帰ってきた』みたいなな。俺には使えなかった」
「北方の、獣と共に暮らす一族……」
「それ以上のことは俺にもわからねえ。家名が読めねえんじゃ調べようもなかった。五年も牢の中だしな」
エリオンは礼を言って収監棟を出た。
*
研究棟に戻ったエリオンは、作業台に広がる資料を見つめた。
二つの情報がある。
一つ——マールス老の助言。鉄屑の波形は絶滅種の魔力に由来する可能性がある。各地にそれぞれ固有の生息域があり、独自の進化を遂げた魔獣がいた。だが記録は失われている。特に辺境。
二つ——グレイヴの証言。古文書は北方の貴族の日記。獣と共に暮らしていた一族。獣の名前や習性が書かれていた。
(北方の一族。獣と共に暮らしていた。——そしてあの鉄屑の波形は、絶滅種の魔力パターンに似ている。現存種には一致しない)
つまり——あの波形の手がかりは、北方の絶滅種にあるかもしれない。
エリオンは書架から地誌を引っ張り出した。北方の地理。かつての魔獣生息域。
ページを繰る。北方の大部分はヴァルグラムの領域だが、さらに北——アルディナの旧北方領は、今もほとんど人が住んでいない辺境だ。
フリヨルド山。その南東に——
「……黒い森」
地誌にその名があった。
『黒い森。フリヨルド山南東に位置する原生林。正午でも日光が届かないほどの深い森。かつては多種多様な魔獣が棲息していたと伝えられるが、現在は縮小し、詳細な調査記録は存在しない』
詳細な調査記録が存在しない。
つまり——魔力パターンのサンプルも存在しない。
この森の魔獣が——鉄屑に残った波形の正体かもしれない。
(現地に行って、残留魔力のサンプルを採取できれば——照合できる。波形が一致すれば、あの力が何なのかの手がかりになる)
だが北方は遠い。ヴァルグラムの領域を通過しなければならない。単独の学者の足では——
(前線視察を名目にすれば、北方に近づける。ヴァルグラムとの衝突が予想される以上、前線に研究者を配置する理由はある)
エリオンの足は——研究棟ではなく、元老院の事務局に向かっていた。
前線視察の申請書を出すために。
廊下を歩きながら、頭の中で断片を並べ直す。
鉄屑の波形。生物的なパターン。絶滅種の可能性。北方の獣と暮らした一族の日記。黒い森。
まだ——何も繋がっていない。断片が散らばっているだけだ。
だが——全ての断片が、同じ方角を指している。
北。
研究棟の窓から、北の空が見えた。灰色。冬の色。
あの灰色の空の下に——分類不可の答えが眠っている。
エリオンにとって、それは何よりも魅力的な誘いだった。




