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第一部 第十六章 黒い森の底

第十六章 黒い森の底


 北方は——寒かった。


 当たり前のことだが、書物で読む「極寒」と体で受ける「極寒」には、越えられない溝がある。ノヴァ・カルディナの白い街で育ったエリオンにとって、凍りついた街道を馬で進むこと自体が苦行だった。


 前線視察の名目で元老院から許可を得て出発し、十日が経つ。

 ヴァルグラムの領域の東端を迂回し、旧アルディナの辺境を北上するルートを取った。人に会うことは極端に少ない。集落はあるが、どれも小さく、旅の学者に好意的とは言い難い。


 それでも——足は止まらなかった。

 鉄屑の波形。絶滅種の可能性。北方の黒い森。

 答えが、あの方角にある。


 フリヨルド山の稜線が見え始めた頃、最初の異変に出くわした。


   *


 小さな村だった。名前すら地図に載っていない、街道沿いの数十戸の集落。


 エリオンが馬を止めて水を求めると、井戸端にいた老婆が怪訝な顔をした。


「学者さんかい。こんな辺境まで何の用だね」


「魔獣の調査です。この辺りの古い生息域について——」


「魔獣なんぞ、最近は見かけやしないよ。森が縮んでからはね。——それより、あんた。この先には行かんほうがいい」


「なぜですか」


「灰の街があるからさ」


 老婆の目が——曇った。


「半年ほど前かね。一晩で街が一つ消えた。ノルドヴァルっていう、けっこう大きな街だったよ。朝起きたら——空が赤かった。いや、青かったかね。とにかく、普通じゃない色だった。次の日に見に行った者がいるが——何もなかったそうだ。灰だけが残ってたと」


「灰の街……」


「見に行くなら止めやしないが、あそこには近づかないほうがいい。死人の匂いがするって話だ。——それに、あの辺りは変なんだよ。鳥が飛ばない。獣が近寄らない。何かが、残ってるんだ」


 エリオンは老婆に礼を言い、村を出た。


(灰の街。一晩で消えた都市。——ノルドヴァル。あの鉄屑の出所だ)


 報告書には「峠で起きた事件」としか書かれていなかったが、ここに来て初めて——規模がわかった。峠だけの話ではなかった。街を一つ灰にした存在が、その後に峠で精鋭五十人を壊滅させた。


 順序が逆だったのだ。


 馬を北に向けた。


   *


 灰の街を初めて見た時——エリオンは、馬を降りることができなかった。


 丘の上に——何もなかった。


 灰。

 一面の灰。

 青みがかった灰が地面を覆い、焼け残った柱の残骸が墓標のように立っている。石壁は溶けて歪な形に固まり、金属は飴のように変形していた。


 街があった形跡はある。道の痕跡。建物の基礎。井戸の石組み。

 だがその全てが——焼け潰されている。石すら溶かすほどの熱が、一瞬で全てを飲み込んだことがわかる。


 エリオンは——しばらく、馬上で動けなかった。


 書物で読む「壊滅」と、目の前の「壊滅」は違う。

 ここには人が住んでいた。家があり、店があり、子供が遊び、老人が日向ぼっこをしていた場所だ。それが——灰。


(……これを、一人の存在がやったのか)


 馬を降り、灰の中を歩いた。

 足の下でさくりと音がする。乾いた灰。その下に——何があるかは、考えたくなかった。


 崩壊した建物の残骸を調べていく。

 焼けた金属片。鎧の破片。武器の残骸。


 一つ一つを手に取り、残留魔力を測定する。

 結果は——予想通りだった。


(鉄屑と同じ波形だ。生物的パターン。三体系に属さない。——同一の存在による犯行で間違いない)


 さらに灰の中を歩き回っていると——気づいたことがあった。


 甲冑の傷跡。


 焼け残った鎧の破片をいくつか並べてみる。全て異なる兵士のものだが——破壊のパターンが酷似している。同じ方向から、同じ種類の力が加わっている。


 峠で回収した鉄屑の破壊パターンと——完全に一致した。


(確定だ。同一の存在が、この街を焼き、その後に峠で戦闘を行った)


 エリオンは灰の平原の端に立ち、周囲の地形を見回した。


 北にフリヨルド山。東に——黒い森の端。


 そして——灰の平原の北側に、灰とは異なる瓦礫が見えた。

 灰の下に埋もれた、もっと古い石材。


 焼け崩れたのではなく——何百年も前に崩壊した、石造りの構造物の残骸だ。


   *


 灰の街の地下から——古城の跡が顔を出していた。


 ノルドヴァルが建てられる以前の構造物。地誌の記述と照合すると——ここにはかつて「グロムガルド」という城下町があり、その中心に「ヴォルクハイム」という城があった。


(コーカサス家の城だ)


 マールス老が言っていた。コーカサス家は北方の魔獣と最も深く関わっていた家系だと。


 古城の跡を調べ始めた。

 灰の下を掘ると、ノルドヴァルの建設時に封鎖されたらしい旧構造物の入口が見つかった。崩壊した壁の隙間を這って進むと、地下へ降りる石の階段が続いている。


 さらに奥へ。

 倉庫だったらしい空間を抜けると——別の通路が口を開けていた。


 人工的だが、城の建築様式とは異なる。もっと粗い。もっと古い。自然の洞窟を人の手で拡張したような作りだ。


 そしてその通路の入口に——足跡があった。


 新しい足跡。

 泥の上に、裸足の人間の足跡がくっきり残っている。

 大きさは——子供のもの。


(誰かが、最近ここを通った。裸足で)


 足跡を追った。


 通路は螺旋状に降下していく。深い。どんどん深くなる。

 空気が変わった。冷たく湿っていた空気が——密度を増していく。魔力の濃度が上がっているのがわかる。幾何学魔法の灯りを手に進むと、壁面に不思議な植物の枯れた残骸が張り付いていた。かつてはこの壁面を覆って光を放っていたのかもしれない。


 やがて——通路が開けた。


   *


 そこは——かつて、何かの作業場だった。


 広い空間。天井は高い。壁面に沿って棚の残骸が並び、床には砕けた瓶の破片が散乱している。

 全てが朽ちていた。何百年も放置されたことが一目でわかる。


 だが——エリオンの目を捉えたのは、そこではなかった。


 壁。


 壁面の一角に——黒い物質で、何かが書き記されていた。


 幾何学魔法の灯りを近づける。

 黒い物質は——ただの塗料ではなかった。手で触れると、微弱だが確かな魔力の振動が伝わってくる。


 そしてそこに描かれているのは——文字だった。

 だがエリオンの知るどの文字体系にも属さない。ルーン文字でもない。瑩洲の漢字系でもない。南方の音節文字でもない。


 古代記号。


 壁面を埋め尽くすように、古代記号が黒い物質で書き連ねられている。整然としたものもあれば、乱雑に走り書きされたものもある。研究者のノートのようでもあり、狂人の落書きのようでもある。


(これは——誰が書いた? いつ? そしてこの黒い物質は何だ?)


 エリオンは小瓶を取り出し、壁面の黒い物質を慎重に削り取って採取した。


 さらに奥へ進むと——空間の最深部に行き着いた。


 床面に——痕跡があった。


 人間が横たわっていた痕跡。体の形に、泥がへこんでいる。長い時間——何十年、何百年も——同じ場所に何かが横たわっていた痕跡。


 そしてその痕跡の周囲に——紋様があった。


 幾何学魔法の魔法陣ではない。

 整然とした幾何学的パターンではなく、もっと有機的な——脈動するような、渦を巻くような、生き物の血管を思わせる紋様が、横たわっていた体を中心に同心円状に広がっている。


 紋様は床面だけではなかった。壁を伝い、天井にまで達している。

 この空間全体が——一つの巨大な「陣」のような構造になっていた。


(これは幾何学魔法の陣ではない。人が設計したものじゃない。自然に——いや、超自然的に——形成されたものだ)


 エリオンは膝をつき、床面の紋様からもサンプルを採取した。

 黒い物質と同じ手触り。同じ微弱な魔力振動。


 灯りを紋様に近づけた時——エリオンの手が、震えた。


 紋様の中に——波形が見えた。

 魔力の灯りに反応して、紋様が微かに脈動している。その脈動のパターンは——


(鉄屑と——同じだ)


 同じ波形。同じ生物的パターン。

 灰の街に残された残留魔力。峠の鉄屑に刻まれた痕跡。そしてこの地下空間の紋様。


 全てが——同一の源から発している。


 だが——紋様のサンプルには、もう一層あった。


 鉄屑には存在しなかった、もっと深い層。

 表層の生物的パターンの下に隠れている、根源的な振動。


 エリオンは簡易解析陣を床に展開し、サンプルを中心に置いて詠唱した。淡い光が走り、波形が浮かび上がる。


 表層——一致。鉄屑と同じ。

 深層——未知。だが——


(この深層の波形は——三体系の全てに共通する基底パターンと、構造が似ている。いや、似ているのではない。これが基底パターンそのものだ。三体系が枝分かれする前の——幹)


 三年間追い続けてきた仮説。「三体系の根底に共通原理がある」。

 その共通原理の——実物が、ここにある。


 手が震えた。


 エリオンの研究ノートのどこにも、この概念に当てはまる既存の用語はなかった。

 だが——古文献の中に、一つだけ。断片的に、繰り返し消されながらも痕跡が残っている言葉。


 ナハトグルント。


 夜の底。


(実在するのか。文献の中の伝説ではなく——物理的に実在する何かがこの世界の地下にあり、そこから全ての魔力が湧き出しているのか)


 恩師マールス老の言葉が蘇る。

 「真理の近くに漂う危険の匂い」。


 匂いどころではなかった。

 この地下空間全体が——その匂いで満ちている。


 引き返すべきだ。学者として、この知見を持ち帰り安全な環境で分析すべきだ。


 だが——足が動かなかった。


 知りたい。もっと知りたい。

 この紋様の全てを記録したい。壁の古代記号を全て書き写したい。この空間を隅から隅まで調べ尽くしたい。


(……僕は、何に似ているんだろう。この空間を作った存在——ここで獣の素材を集め、研究し、壁に記号を書き連ねた誰か——と、同じ衝動に突き動かされている)


 エリオンは記録を取り始めた。

 壁の古代記号を一つ一つ書き写し、床の紋様を模写し、空間の寸法を測り、魔力濃度の分布を記録する。


 何時間かかったかわからない。灯りの魔法を三度かけ直した。


 全てを記録し終えた時——エリオンは地上に這い出て、灰色の空を見上げた。


 日が傾いていた。フリヨルド山の稜線が夕日に赤く染まっている。


(ノヴァ・カルディナに戻らなければ。このサンプルと記録を精密に分析しなければ)


 だが同時に——もう一つの確信がエリオンの中にあった。


 この存在は——今、ヴァルグラムにいる。

 灰の街を作った力。峠で精鋭を壊滅させた力。そしてこの地下から目覚めた存在。


 全てが一本の線で繋がっている。


 馬に跨がり、南に向かった。


 背後では、ハイヴの入口が暗い口を開けたまま、夕闇に沈んでいく。


 五百年前の少年が眠り、目覚め、変わった場所。

 その痕跡が——今、エリオンの革袋の中にある。


 小さなサンプル瓶の中で、黒い物質が微かに——脈動していた。

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