表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/20

第一部 第十七話 老いた狼

第十七章 老いた狼


 目を開けた時、最初に見えたのは天井だった。


 木組みの天井。古いが、手入れが行き届いている。梁の木目が暖炉の光に照らされて赤く浮かんでいる。


 暖炉。

 毛布。

 柔らかい寝台。


(……どこだ、ここ)


 体を起こそうとした。——動いた。

 いつものように軽い。だが、頭の中に靄がかかっている。記憶が——断片的にしか戻ってこない。


 峠。ルクザール。精鋭五十人。

 漆黒の湖。甲冑。剣先が水面に触れた瞬間——


 そこから先が——ない。


(また意識を失っていたのか)


 部屋の隅で、小さな寝息が聞こえた。


 ヴェスカだった。

 椅子に座ったまま、頭をテーブルに伏せて眠っている。タロンの枕元には果物と水差しが置かれていた。


(……看病してくれていたのか)


 扉が開いた。


 アルヴィナが入ってきた。目の下に隈がある。何日も寝ていない顔だ。

 だがタロンの姿を見て——表情が変わった。


「……起きたか」


「どれくらい眠っていた」


「四日」


「四日……」


「お前を担いで峠を越えた。ヴェスカと二人で。——軽かったのが唯一の救いだ」


 アルヴィナが椅子を引いて腰を下ろした。


「ここはヴァルグラムの首都ヴァルグ。ガロウ様の城の中だ」


「ガロウの——」


「お前が意識を失ったまま城門に着いた。ルクザールを葬った下院の一行だということは既にこの街に伝わっていてな。すぐに通された」


「……ルクザールを葬った」


「ああ。ガロウ様には——お前がやったと報告した。隠しても仕方がない。あの規模の戦闘を隠し通せるわけがないし、ガロウ様の元で嘘をつくつもりもない」


 アルヴィナの口元に——久しぶりの、乾いた笑みが浮かんだ。


「状況を整理する。聞け」


 タロンは頷いた。


「ルクザールの壊滅で、ヴァルグラムの上院は大きく動いた。ルクザールの配下は四散し、その縄張りは空白地帯になっている。——だが、問題がある」


「……何が」


「峠の件が外に漏れたらしい。ノヴァ・カルディナ——東の学者の国だ。あそこが状況把握に動き始めている。偵察の使い魔が飛んでいるのを、ガロウ様の斥候が目撃している」


「……使い魔」


「ノヴァ・カルディナは学者の国だ。力で押すのではなく、まず情報を集める。今はまだ全体像を掴もうとしている段階だろうが——そのうち、お前の存在にも気づくだろう」


 タロンは窓の外を見た。

 城壁の向こうに、ヴァルグの街並みが広がっている。駐屯地とは比べ物にならない規模。石造りの建物が並び、闘技場の巨大な円形構造が街の中心に聳えている。


「それと——ガロウ様がお前に会いたがっている」


「……ガロウが?」


「お前をここに入れたのはガロウ様の判断だ。ルクザールを壊滅させた人間に——興味があるんだろう」


「お前の恩人だな」


「ああ。——身なりを整えろ。午後に会う」


   *


 ガロウの居室は、城の最上階にあった。


 広い部屋。だが華美ではない。壁には武器と地図が掛かり、床には使い込まれた絨毯が敷かれている。暖炉の前に大きな執務机があり、その奥に——男が座っていた。


 ガロウ。


 最初に目についたのは——白髪だった。

 長い白髪を後ろで緩く束ねている。顔には深い皺が刻まれ、肌は日焼けしているが血色が悪い。体は大きいが、かつての筋肉は萎えている。


 老いた男。

 だが——目だけは、鋭かった。


 暗い灰色の瞳が、部屋に入ってきたタロンを捉えた。一瞬で全身を見て、値踏みし、何かを判断した——その速度だけが、かつてこの男が何者であったかを物語っていた。


 アルヴィナが先に一歩進み、跪いた。


「ガロウ様。お約束の通り、お連れしました」


「うむ。——よく来た、アルヴィナ。苦労をかけたな」


 ガロウの声は——低く、枯れていた。だが芯がある。老いた木の幹のような声。


「お前がタロンか」


 タロンに向けて言った。


「……はい」


「アルヴィナから報告は受けた。ルクザールの精鋭を五十人、お前一人で葬ったと」


「…………」


「答えなくてもいい。——わかる」


 ガロウの灰色の瞳が——タロンを見据えたまま、僅かに細まった。


「部屋に入ってきた時からわかっておった。お前の中にあるもの——あれは、人間の魔力ではない。私が今まで出会ったどの術者とも違う。底が見えん。——アルヴィナの報告がなくとも、お前がただの子供でないことくらいは、この老いぼれにもわかる」


 タロンは——少し驚いた。

 この老人は、ルクザールと同じように——タロンの中にあるものを、感じ取っている。


 ガロウが——椅子から立ち上がった。


 動作は遅い。関節が軋む音がした。老いた体を、意志の力で動かしている。

 だが立ち上がった姿は——大きかった。座っている時よりも遥かに。


 腰に——剣を帯びていた。


 古い剣だ。鞘は使い込まれ、柄の革は擦り切れている。だがその剣からは——微かに、魔力が漏れ出していた。


(……この剣。魔力が通っている。剣そのものが魔力の通り道になっている)


 タロンの目が——剣に引き寄せられた。


 ガロウはそれに気づいた。


「……ほう。見えるのか。この剣の中を通っているものが」


「……魔力が、剣を媒介にして流れている。幾何学魔法の魔法陣とは違う。術者の体から直接——」


「よく見える目だな。歳はいくつだ」


「…………」


「聞き方を変えよう。自分がいくつに見えると思う?」


「子供に見えるでしょう」


「子供には見えんな。——目が違う」


 ガロウが机の前に戻り、座った。タロンにも座るよう促す。


 アルヴィナは壁際に立った。ヴェスカは部屋の外で待っている。


「アルヴィナから聞いた。お前はこの剣の技に興味があると」


「はい。剣を触媒とする魔法——これは瑩洲の体系ですか」


「違う」


 ガロウの即答に、タロンの眉が動いた。


「瑩洲の融合型とは根が異なる。あちらは魔族の固有魔法を人間が取り込む技術だ。私の師が教えてくれたのは——もっと古い」


「もっと古い……」


「アサラム家。その名を聞いたことはあるか」


 アサラム。

 ノルドヴァルの書庫で読んだ名前だ。


「瑩洲の影の勢力。李家を滅ぼし、その後姿を消した一族」


「知っておるな。——私の師は、そのアサラム家の流れを汲む剣士だった。アサラム家は瑩洲の中でも異端でな。融合型が主流の東大陸にあって、魔族の力を取り込むのではなく——己の魔力を剣に通し、剣そのものを己の延長として扱う流派を守っていた」


(魔力を外部の物体に投射する。だが融合型とは違い、魔族の力は借りない。あくまで術者自身の魔力を——剣を介して外に出す)


「その流派を、師はどこで学んだのですか」


「さて。師は多くを語らなかった。東大陸の出身ではあったが、若い頃に海を渡ってアルディナに来た。各地を放浪していたらしい。——問題は、その後だ」


 ガロウが目を閉じた。老人の記憶を辿るように。


「師はアルディナの西方——セラフィルの領地で暮らしていた時期がある。だが追われた。セラフィルは反魔獣の過激な信仰国家だ。剣に魔力を通す技は——あの国では異端と見なされた」


「追われた。それで——」


「巫女の裁量で、ヴァルグラムに流された。ベアトリーチェという名の巫女が、処刑の代わりに追放を選んだのだ。師はヴァルグラムに渡り、この地で私に出会い——私に技を教えてくれた」


 ベアトリーチェ。

 セラフィル家の巫女。年齢不詳。永世。タロンの時代から五百年以上生きている存在。


「その師は——今は」


「死んだ。二十年前に。老衰でな」


 ガロウの声が——僅かに、揺れた。


「師が死んでから、この技を受け継ぐ者は私だけになった。だが——見ての通り、私も老いた。体が言うことを聞かん。剣を振るえても、かつてのようにはいかん」


「他に弟子は」


「おらん。この技は——才能を選ぶ。誰にでも教えられるものではない。魔力を剣に通すには、魔力そのものの質が問われる。私は師の弟子の中で唯一——剣を鳴らせた男だった」


 剣を鳴らす。

 魔力が剣を通った時、鋼が共振して音を発する。それがこの流派における「適性の証」なのだろう。


「ガロウ。——ベアトリーチェに会いたい」


 タロンの声が——変わった。

 子供の声ではない。何かを決めた者の声。


「巫女は、師をセラフィルから追放した人物だ。だが同時に——師の命を救った人物でもある。師がアサラムの流れを汲んでいたことを知った上で、殺さずに逃がした。——つまり、アサラムについて何かを知っている」


 ガロウの目が——鋭くなった。


「……お前は鋭い。だが、ベアトリーチェに会うのは簡単ではないぞ。セラフィルの聖都サンクトゥスは閉じた国だ。外の人間が巫女に謁見するには——」


「推薦状があれば」


「推薦状か」


「あなたの名前で」


 ガロウは——しばらく黙っていた。


 灰色の瞳がタロンを見つめている。老いた目だが——奥底に、まだ炎が残っている。小さく、弱く。だが——消えてはいない。


「……アルヴィナ」


「はい」


「お前は、このガキをどう見ている」


 壁際のアルヴィナが——少し間を置いて答えた。


「……わかりません。わからないまま、ここまで来ました」


「わからん、か。正直だな」


「ただ——嘘はつかない人間です。少なくとも、私には」


「嘘をつかん人間、か。この世界では珍しい」


 ガロウが引き出しを開け、一枚の羊皮紙を取り出した。

 羽ペンを取り、ゆっくりと——だが確かな筆跡で、文面を書いていく。末尾に署名と、腰の剣の鍔から外した印を押した。


「推薦状だ。これがあれば、聖都の門は通れる。だが——巫女が会うかどうかは巫女次第だ。私の名前が通じるかも怪しい。あの女は五百年以上生きておる。私など——瞬きの間に通り過ぎた者に過ぎんよ」


 タロンは推薦状を——まだ受け取っていなかった。

 ガロウが羽ペンを置いたまま、タロンを見つめている。


「その前に——聞いておきたいことがある」


 ガロウの目が——アルヴィナに向いた。


「アルヴィナ。お前の家臣たちのことだ。シェイラ。ドラグ。オルネス。ジェーン。——私はあの者たちを知っている。お前が下院で集めた仲間だ。全員に会ったこともある」


 アルヴィナの体が——強張った。


「ガロウ様……」


「報告は受けた。シェイラが殺されたこと。ドラグが引き抜かれたこと。オルネスが脅されて去ったこと。ジェーンが——」


 ガロウの声が——途切れた。


 老人の目が——僅かに潤んでいた。


「……すまんな、アルヴィナ」


「ガロウ様——」


「私が弱くなったせいだ。カヴォンが独断で動いた。ルクザールとの取引にシェイラを差し出したのも——ドラグの引き抜きを黙認したのも——全てカヴォンの仕業だ。私は知りもしなかった。知っていれば——止められたはずだ。かつての私ならば」


 老いた声が——掠れた。


「だが、もう遅い。シェイラは戻らん。ドラグもオルネスも。——ジェーンは、お前自身の問題だろう。私が口を出すことではない」


「……はい」


「カヴォンの件は、私が処理する。だが時間がかかるだろう。私にはもう——かつてほどの力がない」


 ガロウが窓の外を見た。残念そうに——だが、諦めてはいない目で。


「アルヴィナ。お前は行け。ベアトリーチェの元へ。お前とこの少年がここにいても——私の老いた体の役には立たん。お前たちには、お前たちの道がある」


 アルヴィナは——唇を噛んで、頷いた。


 ガロウの視線が——再びタロンに戻った。


「さて。推薦状を渡す前に——もう一つだけ」


 灰色の瞳が——真っ直ぐにタロンを射抜いた。


「お前は、一体何者だ」


 部屋が——静まった。


 暖炉の炎の爆ぜる音だけが響いている。


「アルヴィナからは報告を受けた。お前が一人でルクザールと五十人の精鋭を蹂躙したと。だが正直、信じられんかった。——この部屋に入ってきたお前の魔力を感じるまでは」


「…………」


「あの魔力は人間のものではない。私が生涯を費やして磨いた剣技の全てをもってしても——あの底には届かん。それはわかる。だからこそ聞いている。お前は——何者だ」


 タロンは——しばらく黙っていた。


 アルヴィナが壁際で息を詰めている。ここでタロンが何を答えるか——彼女にもわからない。


 タロンはフードに手をかけた。

 ゆっくりと——外した。


 白い髪が露わになった。白い肌。少年の顔。

 ガロウの居室の暖炉の光に照らされて、異様に白い。


 そして——タロンの右手が動いた。


 掌を下に向け、ガロウの執務机の上に置いた。


 黒い靄が——指先から滲み出した。


 靄が机の木の表面に触れると——木が変質し始めた。腐敗ではない。木の繊維が魔力に侵食され、変形し、表面に模様が浮かび上がっていく。


 幾何学模様ではなかった。

 直線も円弧もない。

 代わりに広がったのは——有機的で、だが規則的な模様。血管の分岐に似た曲線。神経網の放射に似たパターン。生きているかのように脈動する、黒い紋様。


 ガロウの目が——見開かれた。


 机の上に広がる紋様から——魔力が溢れている。この部屋の空気そのものが震え、暖炉の炎が揺れ、壁にかかった剣が微かに共鳴した。


「タロン・コーカサス」


 少年の声が——静かに響いた。


「今から五百年前に存在し、滅亡したコーカサス家の三男だ」


 突拍子もない言葉だった。

 五百年前の人間が、目の前に座っている。あり得ない。正気の者なら笑い飛ばす。


 だが——ガロウは笑わなかった。

 笑えなかった。


 疑えるはずもなかった。


 アルヴィナから聞かされていた。上院の実力者と精鋭部隊を、たった一人で蹂躙した存在だと。それは——正直、半信半疑だった。


 だが、今。

 この魔力を目の前にすれば——わかる。


 ガロウは長い人生を生きてきた。多くの戦士と出会い、多くの魔法使いと刃を交え、上院の頂に立ったこともある。

 だが——これは、そのどれとも違う。


 人生で一度だけ、顔も姿も直接には見ることができなかった存在がいた。聖都サンクトゥスの奥で、謁見の間の向こう側に気配だけを感じた——ベアトリーチェ。あの巫女が発する神々しいオーラとは、姿も形も全く異なる。


 だが——似ている。


 本質が、似ている。


 生物的に。本能的に。

 骨が知っている。血が知っている。


 今、目の前にあるこの存在は——到底自分には味わうことのできぬ領域にいるのだと。


 ガロウは——ゆっくりと息を吐いた。


「……コーカサス、か」


 枯れた声が——震えていた。

 恐怖ではない。畏怖だ。


「私の師が——生涯をかけて追い求めていたものがある。剣の道の果てに辿り着く場所。師はそれを『剣が還る場所』と呼んでおった。——今わかった。師が追っていたのは、これだ」


 机の上の紋様が——ゆっくりと消えていった。黒い靄がタロンの掌に吸い込まれるように引いていく。木の表面に、微かな焦げ跡だけが残った。


 ガロウは推薦状を取り上げ、タロンに差し出した。


「行け。——コーカサスの末子よ。ベアトリーチェの元へ。あの女は五百年以上を生きておる。お前と同じ時代を知る数少ない者だ。私の師のことも。アサラムのことも。そしておそらく——お前の家のことも」


 タロンは推薦状を受け取った。


 そして——ガロウが立ち上がり、剣を抜いた。


 鞘から解放された刃が——低く、澄んだ音を発した。


 剣が——鳴っている。


 魔力が鋼を通り、共振している。老いた体から放たれる、微かだが確かな魔力の音色。


「この音を覚えておけ、小僧」


 タロンの全身が——震えた。


 この音を——知っている。


 五百年前。ヴォルクハイムの城壁の上で、吹雪の中に響いていた金属の共鳴音。

 あれは風が鎧を鳴らしているのだと思っていた。


 違った。

 父の剣が——鳴っていたのだ。


(父上も——この技を……?)


「いい顔をするな。何かを思い出したか」


「……昔。似た音を聞いたことがある。とても——昔に」


「そうか。——ならば、お前にもこの音が聞こえる素質があるということだ」


 ガロウが剣を鞘に収めた。


「行け。——お前の道を」


 タロンは——深く頭を下げた。


 自分から頭を下げたのは、復活してから初めてだった。


 部屋を出る時、アルヴィナが小声で言った。


「お前……頭を下げたな」


「……あの人は、頭を下げる価値のある人間だ」


「知ってる。だから——嬉しかった。お前にもそれがわかるんだと思って」


 タロンは何も答えなかった。


 だが——胸の奥で、微かに何かが動いた。

 あの剣の音が——まだ、鳴り続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ