第一部 第十八話 聖都への道
第十八章 聖都への道
ガロウの城を出たのは翌朝だった。
三頭の馬——ガロウが用意してくれたもの——を連れて、西の街道に出る。タロンは相変わらず裸足で歩こうとしたが、アルヴィナが馬に乗れと言った。
「セラフィルまで十日はかかる。裸足で歩かれると馬の速度に合わせなきゃならん。乗れ」
「……馬に乗ったことがない」
「嘘をつけ。五百年前の貴族が馬に乗れないわけがないだろう」
アルヴィナの口から——その言葉が、自然に出た。
五百年前の貴族。
ガロウの居室でタロンが正体を明かした時、アルヴィナは壁際に立っていた。全て聞いていた。黒い紋様が机の上に広がるのも見た。ガロウの顔が畏怖に染まるのも。
だが——アルヴィナ自身は、それほど驚かなかった。
最初からわかっていた——とは言わない。だが、この少年が普通ではないことは、街道で初めてすれ違った時から感じていた。ノルドヴァルの灰。裸足で歩く体。馬と同速の脚。グルダとの戦いで全員を凍りつかせた圧。峠で五十人を葬った領域。
五百年前のコーカサス家の三男。
突拍子もない話だ。だが——あの力を目にした後では、そう言われたほうが腑に落ちる。
「……五百年前は乗れた。今の体で乗ったことがないだけだ」
「体が覚えているだろう。乗れ」
タロンは渋々馬に跨がった。
案の定——体が覚えていた。手綱の握り方、体重の預け方、馬の呼吸に合わせる腰の使い方。五百年前の少年の記憶が、この体にも残っている。
「ほら。乗れるじゃないか」
「…………」
三人が馬を並べて、西へ向かう。
ヴァルグの城壁が背後に遠ざかっていく。
*
旅の最初の二日間は、ヴァルグラムの領域内だった。
街道は整備されており、検問も少ない。ガロウの推薦状が——ではなく、ルクザールを壊滅させた一行だという噂が、通行証代わりになった。
誰もが道を空けた。
タロンの白い髪を見て——背筋を伸ばす者、目を逸らす者、足早に去る者。
「タロン君、有名人だねー」
ヴェスカが馬上で足をぶらぶらさせながら言った。
「有名になりたかったわけじゃない」
「でもさ、道が空くのは便利だよ。前は検問で毎回止められてたのに」
ヴェスカは——タロンの正体を、まだ知らない。
ガロウの居室でタロンが名乗った時、ヴェスカは部屋の外にいた。アルヴィナはタロンに確認した——「ヴェスカに話すか」と。タロンは「まだいい」と答えた。
ヴェスカにとってタロンは、まだ「正体不明の、力の強い少年」だ。
それでいい。ヴェスカの前では——タロンはまだ、ただのタロンでいられる。
「ねえねえ、セラフィルってどんなところ? あたし行ったことないんだよね」
「私も行くのは初めてだ」
アルヴィナが答えた。
「だが——噂は聞いている。反魔獣の信仰が国の根幹にある。魔族にとっては——あまり居心地のいい場所ではないだろう」
「えっ」
ヴェスカの顔が曇った。
「あたし魔族だよ? 大丈夫なの?」
「見た目は人間に近い。耳を隠して、瞳の色を言い訳できれば——通れるだろう。問題はあの国の空気だ。魔獣を憎み、魔獣に関わるものを全て穢れと見なす——狂信に近い信仰がある」
「やだなあ……」
「だから聖都では目立つな。余計なことを言うな。特に——タロン、お前だ」
「僕か」
「お前の力は魔獣に由来している。あの国の人間が感じ取れば——異端として扱われる可能性がある。フードを深く被れ。力は一切使うな」
「……わかった」
タロンは頷いた。
だが——一つ、気になっていることがある。
ベアトリーチェ。
五百年以上生きている巫女。タロンの時代から今まで、セラフィルの指導者であり続けている存在。
歴史書には「永世」と書かれていた。
人間にはあり得ない寿命。それを可能にしているのは——何なのか。
(ガロウは言った。あの女は多くを知っている、と。——だがそれは同時に、あの女自身が「普通ではない」ということだ。五百年以上を生きる人間は、いない。あの女は——何者なのか)
設定資料に書かれていたことを、タロンは知らない。
ベアトリーチェがナハトグルントの意志に繋がっていることも。神託が本物だがナハトグルントの意志であることも。
だが——何かがある、という直感はあった。
*
三日目。
ヴァルグラムの領域を抜け、緩衝地帯に入った。
どの勢力の支配下にもない荒野。交易路だけが細く通っている。治安は悪い。だが三人の旅人に絡む者はいなかった。タロンの白い髪が——抑止力になっている。
夜の宿営地。焚き火を囲んで座る。
「タロン」
アルヴィナが言った。
「ガロウ様の居室で——お前、コーカサス家の三男だと名乗ったな」
ヴェスカが——ぴくりと反応した。
「え? タロン君が? コーカサス家って——」
「五百年前に滅んだ北方の上位家系だ」
アルヴィナがヴェスカに説明した。短く、事実だけを。
「……はあ?」
ヴェスカの口が——開いたまま閉じなかった。
「五百年前……って……えっ? タロン君って五百年前の人なの? えっ? えっ?」
「落ち着け、ヴェスカ」
「落ち着けるわけないでしょ! あたし五百歳の人と一緒にフルーツ飴食べてたの?!」
「……フルーツ飴は美味しかった」
タロンが小さく言った。
ヴェスカは——数秒間、口をぱくぱくさせていた。
それからゆっくりと、タロンの顔を見つめた。
「…………ふーん」
「ふーん?」
「うん。ふーん。——まあ、タロン君はタロン君だもんね」
アルヴィナが目を丸くした。
「それだけか? お前の反応は」
「だってさ。五百歳でも百歳でも十歳でも——タロン君はタロン君でしょ。あたしの手を握ってくれたし、路地裏で助けてくれたし。年齢が変わったって、やったことは変わらないよ」
タロンは——ヴェスカの顔を見た。
琥珀色の瞳が、焚き火の光を映して温かく光っている。
恐怖も、畏怖も、距離もない。
あるのは——ただの、あのいつもの笑顔。
(……この子は、いつもこうだ。何があっても——変わらない)
「ただ一つだけ」
ヴェスカが人差し指を立てた。
「今度からタロン君って呼ぶのやめたほうがいい? タロン様とか? 五百歳だし」
「やめてくれ」
「あはは。じゃあ今まで通りね。タロン君」
焚き火が爆ぜた。
アルヴィナが——小さく笑った。
ヴェスカに引き出された笑いだった。
*
五日目。
セラフィルの領域に入った。
空気が——変わった。
荒野が終わり、乾いた赤土の丘陵地帯が始まる。所々に白い石造りの集落が見える。建物の屋根には一様に——太陽と剣を組み合わせた紋章が掲げられている。セラフィルの国章だ。
道端に——石碑が立っていた。
彫られた文字を読む。
『汝、穢れを持ち込むなかれ。獣の血は聖なる地を冒涜する。巫女の名において』
「……歓迎されてる感じはしないな」
アルヴィナが呟いた。
「あたし、大丈夫かな……」
ヴェスカが耳を帽子の下に隠しながら、不安そうに呟いた。琥珀色の瞳は——陽の光の下では異様に目立つ。サングラスなどという便利なものは、この世界にはない。
「目を伏せろ。なるべく喋るな。お前の発音には魔族特有の癖がある」
「え、あたしの喋り方って変?」
「変じゃない。だがセラフィルの人間は——そういう違いに敏感だ」
最初の集落を通り過ぎる時、住民たちの視線が刺さった。
敵意——ではない。監視。異物を見る目。
集落の中央に広場があり、その中心に——巨大な石像が立っていた。
剣を天に掲げた女性の像。顔は穏やかだが、足元には——魔獣を踏みつけた姿が彫られている。
「ベアトリーチェの像か」
タロンが呟いた。
「巫女様の像だよ。この国のどの集落にもある」
通りがかりの老人が、敬虔な声で言った。
「巫女様が我々を獣の脅威からお守りくださっている。巫女様の神託に従えば、この地は安泰だ」
老人は石像に向かって深く頭を下げてから、去っていった。
タロンは石像を見上げた。
(この国の人間は——ベアトリーチェを、生ける神のように崇めている。五百年以上も統治し続ける存在を——疑いもせず)
第5章でリーシャと読んだ歴史書を思い出す。セラフィル家は旧体制の生き残り。三大勢力の中で唯一、五百年前の構造を維持している。それを可能にしているのが——ベアトリーチェの「永世」だ。
(この国は——巫女一人の存在で保たれている。もしベアトリーチェがいなくなれば、この体制は崩壊する)
不安定な安定。
一人の超越者に依存した、脆い平和。
*
七日目の夜。
セラフィルの領域内の宿場町で宿を取った。宿の主人はアルヴィナの通行証とガロウの推薦状を見て、怪訝な顔をしたが——金を多めに払うと黙って部屋を用意した。
ヴェスカは帽子を脱げないまま、部屋の隅で膝を抱えていた。
「……あたし、この国苦手」
「もう少しの辛抱だ」
「みんなの目がさ。あたしのこと見てるの。わかるんだ。魔族だって。帽子の下に尖った耳があるって。目の色が違うって」
「気のせいだ」
「気のせいじゃないよ。市場で果物を買おうとしたら——おばさんが手を引っ込めたの。あたしの手に触れるのが嫌だったんだよ」
ヴェスカの声が——珍しく、沈んでいた。
タロンは窓際に立ったまま、振り返らずに言った。
「……僕も、人間ではない」
「え?」
「この体の中にあるものは——人間のものではない。魔獣の因子だ。この国の基準で言えば——僕はお前よりも穢れている」
「タロン君……」
「だが——穢れているかどうかを決めるのは、この国の人間ではない。お前がお前であることを、誰かに否定される理由はない」
ヴェスカが——しばらく黙っていた。
それからゆっくりと、帽子の端を持ち上げて、尖った耳を出した。
「……ここでだけは、出してていい? 部屋の中だけ」
「好きにしろ」
「じゃあ出す。——あー、楽。耳を隠すのって疲れるんだよね」
ヴェスカが笑った。弱々しいが——笑った。
アルヴィナが部屋に戻ってきた。外で情報を集めていたらしい。
「聖都サンクトゥスまで、あと三日。——それと、宿場の商人から聞いた話がある」
「何だ」
「東のほうで揉め事があったらしい。ヴァルグラムとノヴァ・カルディナの緩衝地帯で、小規模な衝突が起きたと。双方に死者が出ている」
「……もう始まったのか」
「始まった、というより——始まりかけている。まだ本格的な戦争ではない。だが——このまま放置すれば、大きくなる」
タロンは窓の外を見た。
西の空に、日が沈みかけている。赤い光がセラフィルの乾いた丘陵を染めている。
(ヴァルグラムとノヴァ・カルディナの衝突。——ガロウは大丈夫だろうか)
その思考が浮かんだことに——タロン自身が、少し驚いた。
ガロウの安否を気にしている。あの老人のことを。
(……僕は、あの人のことを心配しているのか)
心配。
ヴェスカに以前「心配じゃないの?」と聞かれた時、「わからない」と答えた。
今も——わからない。だが、気にかかるのは事実だった。
「アルヴィナ。ベアトリーチェに会って——必要な情報を得たら、すぐに戻る」
「……ガロウ様のことか」
「あの人は、いまこの世界で最も狙われやすい位置にいる。権力を失いかけた上院。ルクザールが消えた今、次の標的はガロウだ」
「わかっている。——だからこそ、早く動く。セラフィルでの用が済んだら、一日も無駄にせず戻る」
アルヴィナの目に——あの炎が戻っていた。
シェイラの死の後に灯った、静かで冷たい炎。だが今は——もう少し温かい。
怒りだけではなく、守るべきもののための火。
「三日後。サンクトゥスに着く。——全員、体を休めておけ」
*
同じ頃。
遥か東——ヴァルグラムとノヴァ・カルディナの緩衝地帯。
荒れた平原に、二つの軍勢が対峙していた。
小規模な前哨部隊同士の睨み合い。まだ本格的な戦闘には至っていない。
その最前線に——一人の男が立っていた。
大柄な体格。乱れた黒髪。腕にはめられていた銀の枷は——既に外されている。
鎧は着ていない。獄衣のような粗末な服。だが——その体からは、隠しきれない力が滲み出していた。
グレイヴ。
五年ぶりの外の空気を肺一杯に吸い込んで——獣のように、笑った。
「……いい風だ。牢の中じゃ味わえなかった」
隣に立つノヴァ・カルディナの軍指揮官が、嫌悪を隠さない目でグレイヴを見た。
「罪人。任務を確認するぞ。ヴァルグラムの前線を突破し、ガロウを排除する。それがお前の——」
「ガロウ? あの老いぼれか。つまらねえ相手だな」
「つまらなかろうが、これが任務だ。元老院——議長直々の命令だ」
「議長のジジイね。——ああ、わかってるよ。俺を出してくれた恩があるからな。ガロウの首を取ればいいんだろ」
指揮官が——一歩退いた。
グレイヴの目が——獣の目をしていたから。
「だがよ、指揮官殿。一つ聞いていいか」
「何だ」
「あの白い髪のガキ——ガロウの近くにいるっていう、あの化け物。そいつと会えるのか」
「……情報は限られている。ガロウの近くにいるという報告はあるが、現在の所在は不明だ」
「そうか。——まあいい。ガロウを潰しに行けば、向こうから来るかもしれねえ」
グレイヴが——掌を開いた。
五年ぶりに枷を外された手のひら。そこに——微かな魔力の光が灯った。
他者の魔法を模倣する力。
あの古文書——北方の貴族の日記——から得た、分類不可の技術。
(学者の坊主が言っていたな。あのガキの力は、空間を書き換え、獣を召喚する——俺にはできないことだ、と)
(だが——会ってみなきゃわからねえだろう。本物かどうか。この手で触ってみなきゃ)
グレイヴが——前線に向かって歩き出した。
「おい、罪人! まだ作戦の説明が——」
「作戦? 知るかよ。俺のやることは一つだ。——前にいる奴を全部倒す。それだけだろ」
指揮官の声が背後で何か叫んでいたが、グレイヴの耳には届かなかった。
五年ぶりの風が——心地よかった。
五年ぶりの土の感触が——足の裏に伝わってくる。
五年ぶりの自由。
その自由の先に——死が待っているとしても。
(死ぬなら——外で死にてえ。牢の中じゃなくて。空の下で)
前方に——ヴァルグラムの旗が見えた。
グレイヴは笑った。
狩りの時間だ。




