第一部 第十九章 巫女の間
第十九章 巫女の間
聖都サンクトゥスは——白ではなく、金だった。
ノヴァ・カルディナの白が学問の潔癖さを表していたとすれば、サンクトゥスの金は信仰の絢爛だった。建物の屋根には金箔が貼られ、街路には磨かれた白石が敷かれ、至るところにベアトリーチェの石像と太陽と剣の紋章が掲げられている。
聖堂の門で推薦状を出し、二時間待たされた後——神官が戻ってきた。
「巫女様がお会いになる。ついてこい。——全員だ」
*
聖堂の内部は——外観以上に華麗だった。
天井画。壁面のモザイク。磨かれた大理石の床。ステンドグラスを通った光が、虹色の帯となって廊下に落ちている。
だがタロンの意識は、装飾にはなかった。
(……おかしい)
聖堂の奥に進むにつれて——魔力の密度が上がっていく。
一歩ごとに。確実に。
最初は微かだった。門を入った時点では、通常の聖堂と大差ない。
だが二つ目の廊下を曲がった頃から——空気が重くなった。三つ目の階段を降りた時には——呼吸が浅くなった。
(この感覚は——知っている)
ハイヴ。
あの地下構造体に潜っていく時と——同じだ。
地上から螺旋の通路を降りるごとに、魔力が濃くなっていく。人間が立ち入ってはいけない場所に近づいている——あの、肌が粟立つ感覚。
(聖堂の奥に——ハイヴと同じ密度の魔力が眠っている。いや、眠っているのではない。誰かが——放っている)
アルヴィナの顔色が悪くなっていた。額に汗が浮いている。
ヴェスカは——足が重そうだ。魔族であるヴェスカのほうが、通常なら魔力への耐性は高い。だがこの密度は——種族を問わず、圧し潰してくる。
廊下の突き当たりに——白い石の大扉があった。装飾は一切ない。
だが扉の表面から——魔力が染み出している。扉そのものが結界であり、その向こうにあるものを封じ込めている——あるいは、外の世界がその向こうにあるものに触れないように、守っている。
「ここから先は巫女様の間です。武器の持ち込みは——」
「持っていない」
神官が扉を開けた。
白い光が——溢れ出した。
*
一歩踏み入れた瞬間——タロンの体が、凍った。
足が止まった。意志で止めたのではない。体が——拒絶している。
あるいは体ではなく、体の中にあるものが。
タロンの内側で——何かが膨張し始めた。
黒い。
あの漆黒の湖を展開した時と同じ、底なしの圧力。
だが今度は——外に出ようとしているのではなく、内側で渦巻いている。
同時に——部屋の奥から、別の力が押し寄せてきた。
白い。
温かい。だが——温かさの中に、途方もない威圧がある。
太陽に近づきすぎた時の、あの灼けるような光。
黒と白が——ぶつかった。
反発。拒絶。排除。
二つの力が互いを異物として認識し、弾き合おうとしている。
空気が震えた。
床の大理石に亀裂が走った。天井画の金箔が剥がれ落ちた。
「な——何が——」
アルヴィナの声が遠い。
ヴェスカが膝をついていた。圧に——耐えられないのだ。
だが——数秒後。
反発が——収まった。
弾き合っていた二つの力が——ゆっくりと、噛み合い始めた。
歯車のように。磁石の極が反転して引き合うように。
拒絶が——結合に変わった。
タロンの中の黒い力と、部屋の奥の白い力が——共鳴している。
(……同じだ。この力と——僕の中にあるものは——同じ場所から来ている)
共鳴が安定した瞬間——空気が凪いだ。
部屋の奥から——声が響いた。
女の声。
若くも老いてもいない。時間の尺度を超えた声。澄んでいるが、深い。湖の底から響いてくるような。
「——連れの者を下がらせなさい」
タロンは振り返った。
アルヴィナが壁に手をついている。ヴェスカが床に座り込んでいる。
「……アルヴィナ。ヴェスカ。外で待っていてくれ」
「タロン——」
「大丈夫だ。——たぶん」
アルヴィナは——タロンの目を見つめ、頷いた。
「行くぞ、ヴェスカ」
「で、でも——」
「行くんだ」
二人が出ていった。扉が閉まった。
白い部屋に——タロンが一人、残された。
*
部屋の奥に——玉座があった。
白い石の玉座。装飾はない。だがその表面には——タロンの感覚だけが捉えられる魔力の紋様が刻まれている。ハイヴの最深部にあった陣と——構造が似ている。有機的で、生きているかのように脈動する紋様。
玉座に——人が座っていた。
白い法衣。金の縁飾り。フードが深く被さり、顔は見えない。
だが——その存在から放たれる気配は、もう隠されていなかった。
(この部屋の魔力は——全てこの女から出ている。聖堂の構造そのものが、この女の力を封じるための器だ。廊下を進むごとに魔力が濃くなったのは——この女に近づいていたからだ)
「近う寄りなさい」
タロンは歩いた。玉座の前まで。五歩の距離。
ここまで来ると——タロンの目には見えた。
フードの奥の影の中に——二つの瞳が光っている。薄紫。人間の瞳の色ではない。
そしてその瞳の奥に——何かが揺らいでいた。
狂気。
いや——狂気と呼ぶのは正確ではないかもしれない。
常軌を逸した年月を生き続けた者だけが到達する、人間の精神の限界点を遥かに超えた場所。正気と狂気の区別がもはや意味を持たない、その先にある——透明な何か。
聖女の微笑みと、深淵を覗き込む者の虚ろさが、同じ顔の上に同居していた。
「名を」
「タロン」
「姓は」
「……コーカサス」
沈黙が落ちた。
フードの奥の薄紫の瞳が——揺れた。
微かに。だが——確かに。
五百年。あるいはもっと長い時間、あの玉座に座り続けていた存在の目が——動いた。
「コーカサス……」
その名を口にした時——声の響きが変わった。
巫女の公式な声色ではなく、もっと個人的な。
「コーカサス家の者が——まだ、この世に」
ベアトリーチェの体が——僅かに前に傾いた。
何百年もあの石の背もたれに体を預けていた存在が——前に、身を乗り出した。
(……興奮している。この女は——興奮している)
タロンはそれを感じ取った。
共鳴した力が——ベアトリーチェの感情の波紋を伝えてくる。
孤独。
途方もない孤独の中に——突然灯った、熱。
何百年もまともに人と顔を合わせていない存在が、同じ高みに立つ者と出会った時の——抑えきれない昂揚。
「コーカサス家の何者です。……いえ、待ちなさい」
ベアトリーチェが——フードを外した。
銀に近い金の髪。若い顔——だが、若さの中に途方もない年月が凝縮されている。皺はない。肌は白磁のように滑らかだ。だが目の奥に——数百年分の記憶が沈んでいる。
美しかった。人間の美しさではない。
聖画に描かれる聖女のような——だが同時に、その聖女の瞳の奥に深淵が口を開けているような。神々しさと底知れなさが、矛盾なく共存している顔。
「その白い髪。その肌の色。——あなたは、末の子ですね」
タロンの心臓が跳ねた。
「末の子?」
「ヴォジャニグの末子。三男。——名は確か——」
ベアトリーチェが目を閉じた。記憶を辿っている。五百年前の記憶を。
「タロン。お母上の銀の髪を受け継いだ、一番小さな子。ハイヴの工廠に入り浸って、魔獣の素材ばかり弄んでいると——ヴォジャニグが苦笑しておりました」
タロンの全身が——震えた。
ハイヴの工廠。魔獣の素材。父の名。母の髪の色。
(襲名制じゃない。——この女は、あの時代を——本当に、生きていた)
「あなたは……本当に——」
「ええ」
薄紫の瞳が——真っ直ぐにタロンを見た。
「わたくしは、あなたが知っているベアトリーチェです。五百年前にあなたのお父上と言葉を交わした、同じベアトリーチェ。襲名ではありません。——わたくしは、ずっとここにおりました」
ベアトリーチェが——立ち上がった。
玉座から降りる。タロンの前まで歩いてくる。一歩ごとに——魔力の波が揺れる。
至近距離。手を伸ばせば触れられる距離。
ベアトリーチェの目が——タロンの顔を、貪るように見ていた。
飢えた目。
孤独に飢えた者の目。何百年も同じ高さで言葉を交わせる相手がいなかった者の、乾ききった魂が水を求めるような目。
「……あの王の子が。ヴォジャニグの血が——五百年を超えて、こうして目の前に」
ベアトリーチェの声が——揺れていた。
巫女の威厳が——剥がれかけている。その下にあるのは、途方もなく長い時間を一人で過ごしてきた者の、剥き出しの感情。
「失礼。取り乱しました」
一瞬で——巫女の仮面が戻った。
だがタロンには見えた。仮面の下にあったものが。
(この女は——孤独だ。僕と同じか、それ以上に。五百年間、誰とも対等に話せなかった。誰もこの女の本当の姿を知らない。知れない。人間には——この女が見ている景色が、見えないから)
「あなたも同じでしょう、タロン」
心を読んだかのように、ベアトリーチェが言った。
「わたくしの力と、あなたの力は——先ほど反発し、拒絶し、そして結びつきました。あれは同じ根を持つ力同士が、互いを認識した時に起きる現象です。——この世界の深い場所に、力の源泉があります。わたくしの力も、あなたの力も、そこから来ている」
「同じ根……」
「形は違う。わたくしのものは白く、温かく、維持するための力。あなたのものは黒く、冷たく、壊すための力。——だが根は同じです。わたくしたちは——超越者です」
超越者。
その言葉が、白い部屋の空気に染み込んだ。
「人間の枠を超え、源泉の力に直接繋がった存在。わたくしも。あなたも。——そしておそらく、この世界にはまだ他にもいる」
「なぜ——生きている。五百年も」
「死ねないのです。役割があるから。果たし終えるまで、この器は壊れないようにできている」
(役割。器。壊れないように——)
*
タロンは——一つ、問うた。
この聖堂に入ってから——ずっと気になっていたことを。
「一つ聞きたい」
「何なりと」
「この国は——人間だけで構成されている。魔族を排斥し、魔獣を穢れとして憎んでいる。門前の石碑にもそう彫ってあった」
「ええ」
「だがあなたは——人間ではない。あなたの力は、人間のものではない。この聖堂の奥に満ちている魔力は——ハイヴの底と変わらない濃度だ。魔獣の巣と同じだ」
ベアトリーチェの瞳が——微かに細まった。
「人間だけの国を統治する者が——人間ではない。それは矛盾ではないのか」
沈黙。
ベアトリーチェは——少しの間、黙っていた。
考えているのではない。どう言葉にするかを、選んでいる。
「……矛盾、ですか」
ベアトリーチェが——玉座には戻らず、部屋の壁際に歩いた。壁面のモザイク——太陽と剣と、その下に跪く人々の図——を、指先でなぞった。
「わたくしは人を愛してはおりません」
静かな声だった。
だが——その言葉の重さは、石のように落ちた。
「偶々——ここに人類がおっただけのこと」
「…………」
「この大地に最初に根を張ったのが獣であれば、わたくしは獣の国を作ったでしょう。魔族であれば魔族の。——わたくしがここにいるのは、この器がこの場所に置かれたからであって、人間を選んだわけではありません」
ベアトリーチェが振り返った。薄紫の瞳が——タロンを射抜く。
「ただし——一つだけ、信じていることがあります」
「何を」
「行き過ぎた混成は——命の本質から逸脱する」
「混成……」
「人間と魔族が溶け合い、境界が曖昧になった世界。ヴァルグラムやノヴァ・カルディナのように、種族が入り混じり、互いの力を取り込み合う世界。——あれは、一見すると調和に見えるかもしれません」
「違うのか」
「違います。——種は常に優位を求めるもの。森羅万象を操らんとするのが、生命の常。水が低きに流れるように、魔力もまた——より強い器へ、より深い場所へと流れていく。それが世の理です」
ベアトリーチェの声が——静かに、だが確かに熱を帯びた。
「混成は——器を変えることです。人間の器に魔族の力を注ぎ、魔族の器に人間の知恵を混ぜる。それは一時的には強くなるかもしれない。だが——器を変えれば、中身もまた変質する。元の形を失う」
「…………」
「わたくしは——器に注がれた水を磨くことこそが、この道の頂だと考えています。器を変えるのではなく。注がれた水——すなわち、その種が生まれ持った魔力の本質を、純粋に、深く、極限まで研ぎ澄ませること。それが——深淵の、否——頂点の在処です」
タロンは——黙って聞いていた。
(この女は——混血を否定しているのではない。種の純粋性を信仰しているのでもない。力の本質——魔力そのものの純度を追求している。器ではなく水を。形ではなく質を)
(だからこの国は人間だけで構成されている。魔族を排斥しているのは、人間を愛しているからではなく——混成によって力の本質が濁ることを嫌っているからだ。この女にとって、人間は実験の対象に等しい。純粋な器の中で、水がどこまで澄むかを——五百年かけて観察している)
恐ろしい女だ。
だが——筋は通っている。
「あなたの話を聞いていると——この国は国ではなく、実験場のように聞こえる」
「実験場。……鋭いですね。——否定はしません」
ベアトリーチェが微笑んだ。
聖女の微笑み。だがその奥に——深淵が覗いている。
*
「あなたのお父上のことを——少し、話しましょう」
ベアトリーチェが——タロンの前の床に、向かい合うようにして座った。巫女の威厳を——意図的に、下ろした。
「ヴォジャニグは——わたくしにとって、数少ない……そう、友人と呼べる存在の一人でした」
「父が——あなたの友人?」
「友人という言い方が正確かどうかはわかりません。年に一度か二度、使者を通じて言葉を交わす程度でしたから。ですが——あの方は、わたくしのことを恐れなかった。それだけで十分に珍しい」
「…………」
「北方の守護者。魔獣と共に生きる一族の長。あの方は——人間と獣の間に立って、どちらの世界も理解しようとしていた。それはわたくしの理念とは異なりますが——その孤独は、わたくしには理解できました」
タロンは黙って聞いていた。五百年ぶりに——父を知る者から、父の話を聞いている。
「コーカサス家が滅んだ時——わたくしはここにおりました。何もできなかった。知った時には全てが終わっていた」
「…………」
「タリン家の所業です。リューヤクという男が——人類王の名の下に、あなたの家を滅ぼした。わたくしはリューヤクを許していません。——だがタリン家もまた、すぐに内側から崩壊しました」
「歴史書には原因不明の内部崩壊、と」
「原因不明——そう書かれていますか。まあ、外から見ればそう見えたのでしょう」
ベアトリーチェの目が——一瞬だけ、何かを隠した。
だがすぐに元の透明さに戻った。
タロンはそれに気づいた。だが——追及しなかった。今はまだ。
「タロン。あなたがここに来た理由を聞かせてください。何を求めて?」
「アサラム家について知りたい。ガロウの師がアサラム系の流派を使っていた。その師はかつてこの国にいて——あなたに追放されたと聞いた」
「……ああ、あの剣士ですか。覚えています。優れた腕でした。——殺すのは惜しいと思ったので、ヴァルグラムに逃がしました」
「あの剣士がアサラムの流れを汲んでいたことを知った上で——逃がした」
「ええ。アサラム家そのものが敵なのではありません。問題は——アサラムの影響を受けた者たちが、この世界で何をしようとしているかです」
ベアトリーチェの目が——鋭くなった。
「ここから先は——取引です」
「取引」
「わたくしも困っていることがあるのです。この国の中に、アサラムの息がかかった斡旋者がいる。各地にアサラム系の術者を送り込む仲介役です。わたくしの目を盗んで動いている」
「その斡旋者を殺せ、と」
「話が早い」
「代わりに何をくれる」
「情報を。アサラムの影響が最も濃い場所——わたくしが怪しいと踏んでいる地域を教えます」
「……その地域とは」
「ノヴァ・カルディナです。正確には元老院の中枢。議長がアサラムの影響を受けていると、わたくしは見ています。確証はない。だがこの五百年、あの元老院の動きを見てきた。議長が代わるたびに——アサラムの匂いが濃くなっている」
「元老院の議長……」
「斡旋者を殺す。代わりにノヴァ・カルディナの情報をもらう。——それでいいか」
「結構です。斡旋者の居場所は、聖都を出る前にお教えします」
「…………」
「それと——タロン」
ベアトリーチェが——立ち上がった。
「一つだけ。あなたのお姉様——ミカエラ殿のことを」
タロンの心臓が——止まった。
「ミカエラを——知っているのか」
「存じています。賢い方でした。コーカサス家の中で最も——知性と魔力に秀でた方だった。あなたのお父上が『あの子は儂よりも遠くまで行くだろう』と言っておられたのを覚えています」
「ミカエラは——今——」
「死んだと認識しています。コーカサス家の滅亡と共に。——少なくとも、わたくしの元に生存の報告は届いておりません」
タロンの拳が——握りしめられた。
(この女は死んだと思っている。だが——タリン家の崩壊について、先ほど何かを隠した。知っているが言わなかった)
だが今は追及しない。この女との取引を壊すわけにはいかない。
「……わかった。斡旋者を殺す。情報をくれ」
「明朝、聖堂の門で待ちなさい。神官が居場所を伝えます」
ベアトリーチェがフードを被り直した。
薄紫の瞳が影に隠れていく。
だがフードを被る直前——ベアトリーチェの目が、最後にもう一度タロンを見た。
あの目。
孤独に飢えた者の目。
同胞を見つけた者の、抑えきれない——熱。
「タロン・コーカサス。——あなたに会えてよかった。ヴォジャニグの末子が生きていたことは……わたくしにとって、五百年で最も嬉しい知らせです」
その言葉が——嘘には聞こえなかった。
この女は国を実験場と見なし、人間を愛してはいない。深淵と頂点を同じ場所に見据え、器の中の水を磨き続けている。狂気と聖性が同居した、人間を超えた存在。
だが——孤独だけは、本物だった。
「お気をつけて。この先の道は——暗く、長い」
*
部屋を出ると、アルヴィナとヴェスカが廊下で待っていた。
ヴェスカが駆け寄ってきた。
「タロン君! 大丈夫? すっごい音がしたよ! 地震みたいな!」
「……大丈夫だ」
アルヴィナが——タロンの目を見た。
「何があった」
タロンは少し迷った。全てを話すべきか。
(全ては話せない。超越者のことも、力の根源のことも——今のアルヴィナとヴェスカに話しても混乱させるだけだ。必要な情報だけを伝える)
「元老院の議長が——アサラムの影響を受けている。ベアトリーチェがそう言った」
アルヴィナの目が鋭くなった。
「アサラム——ガロウ様の師が属していた流派の本家か」
「そうだ。その影響力がノヴァ・カルディナの中枢にまで及んでいる」
「……確かな情報か」
「五百年間、あの元老院の動きを見てきた者の直感だ。——軽くはない」
「五百年……」
アルヴィナが少し驚いた顔をした。
「ベアトリーチェは——襲名ではないのか」
「その話は後でする」
タロンの声が硬かった。今ここで話す内容ではない。
「斡旋者を一人始末する。ベアトリーチェとの取引だ。それが済んだら——ガロウの元に戻る」
「わかった」
「帰ろう、タロン君。ガロウのおじさんが待ってるよ」
ヴェスカが——いつもの笑顔で言った。
タロンは聖堂を出た。
サンクトゥスの金色の街並みが、午後の光に燃えている。
広場のベアトリーチェの石像が、剣を天に掲げている。
あの石像の中の女は——今もあの白い部屋で座っている。
五百年間。一人で。
器の中の水を磨きながら。
深淵と頂点の、同じ場所で。
タロンは振り返らなかった。
前を向いて歩き出した。
東へ。ガロウの待つ、ヴァルグラムへ。




