第一部 第二十章 槍に刺された男
第二十章 槍に刺された男
斡旋者は——三日で片付いた。
ベアトリーチェの神官から伝えられた居場所は、聖都から南に半日の村落だった。表向きは薬草商。裏では——アサラム系の術者をセラフィルの国内に送り込む仲介役。
タロンが一人で行き、一人で帰ってきた。
「終わった」
「……血がついていないな」
アルヴィナが言った。
「血は出なかった。——触れただけだ」
それ以上は聞かなかった。アルヴィナもヴェスカも。
ベアトリーチェとの約束は果たした。情報は得た。
元老院の議長がアサラムの影響下にある——その一点だけが、セラフィルで得た最大の収穫だった。
聖都を出た。
東へ。ヴァルグラムへ。ガロウの待つ城へ。
馬を飛ばした。三人とも、急いでいた。
道中で聞いた噂——ヴァルグラムとノヴァ・カルディナの小規模衝突——が、胸の奥で刺のように引っかかっていた。
*
八日目の朝。
ヴァルグラムの領域に入り、首都ヴァルグの城壁が見えてきた時——タロンは、空気の異変に気づいた。
(……静かすぎる)
前回来た時は、城壁の周辺に商人や旅人の姿があった。闘技場の歓声が風に乗って聞こえてきた。
今は——何もない。
城門の前に人影がない。門は開いているが、衛兵の姿もない。
「……おかしい」
アルヴィナが手綱を引いた。
「門が開いたまま放置されている。衛兵がいない。——何かあった」
三人は馬を降り、徒歩で城門をくぐった。
街の中は——荒れていた。
露店が倒されている。商品が散乱している。窓が割れた建物がいくつかある。
だが戦闘の痕跡——焼け跡や血痕——は見当たらない。
人はいた。だが——全員が、家の中に閉じこもっている。通りを歩く者は一人もいない。
「何があったんだ……」
ヴェスカが呟いた。
闘技場の前を通りかかった時——壁にもたれた老人が、虚ろな目でこちらを見た。
「あんたたち……外から来たのかい」
「ああ。何があった」
「ガロウ様が……」
老人の声が——震えた。
「ガロウ様が、殺された」
*
ガロウの城に向かって走った。
アルヴィナが先頭だった。馬を置いて走っている。全力で。タロンとヴェスカがその後を追う。
城の正門が——開いていた。
門を守る兵士は一人もいない。城の中も——空だった。
使用人がいない。衛兵がいない。
逃げたのか。殺されたのか。追い払われたのか。
城の大広間を抜け、中庭に出た。
そこで——アルヴィナが、止まった。
タロンが追いついた。アルヴィナの横に立った。
見た。
中庭の中央に——槍が一本、地面に突き立てられていた。
長い槍。黒い鉄。その先端に——
ガロウの体が刺し貫かれていた。
胸から背中を貫通した槍が、老人の体を地面から持ち上げている。両腕は力なく垂れ下がり、白髪が風に揺れている。あの灰色の瞳は——開いたまま、空を見ていた。
空を。
灰色の空を。
タロンは——動けなかった。
(……ガロウ)
あの剣の音が——頭の中で響いた。
老いた腕から放たれた、微かだが確かな魔力の共鳴音。
「この音を覚えておけ、小僧」と言った枯れた声。
あの声が——もう、聞こえない。
隣で——音がした。
膝が地面を叩く音。
アルヴィナが——崩れ落ちていた。
膝をつき、両手を地面について、うつむいている。肩が震えている。
声は出ていなかった。
泣き声ではない。悲鳴でもない。
ただ——震えている。全身が。
ヴェスカが後ろから追いついた。中庭に入り——槍を見て、足が止まった。
「あ——」
ヴェスカの口から——小さな声が漏れた。
「ガロウの……おじさん……?」
ヴェスカの声が——裏返っていた。
三人が——中庭に立ち尽くしていた。
槍に刺された老人と、三人の人間。
風が吹いた。
ガロウの白髪が揺れた。あの剣を帯びた腰は——空だった。剣は——ない。奪われたか、折られたか。
アルヴィナが——顔を上げた。
目が——虚ろだった。
炎も怒りもない。何も映していない目。壊れかけている目。
「……ガロウ、様——」
声が——裂けた。
アルヴィナが——叫んだ。
言葉ではなかった。意味のない、喉の底から絞り出された音。
獣の声。人間の声。その間にある、壊れた魂の悲鳴。
膝から崩れた。地面に両手をついて、四つん這いになって、嘔吐した。何も出てこなかった。だが体が——拒絶している。この光景を。この現実を。
シェイラが殺された。
ドラグが去った。
オルネスが去った。
ジェーンが去った。
そして——ガロウが。
最後の支柱が——折れた。
「なんで——なんでなんでなんで——」
アルヴィナの声が——壊れていた。
指揮官の声でも、没落貴族の声でも、戦士の声でもない。
十七歳で全てを失った少女の——剥き出しの声。
「もう——誰もいない——誰も——」
ヴェスカが泣きながらアルヴィナの背中に縋りついていた。だがアルヴィナには——何も届いていなかった。
タロンは——立ち尽くしていた。
この光景を——知っている。
五百年前。ヴォルクハイムで。父の遺体の前で。母の亡骸の前で。兄の血の海の中で。
あの時の自分も——こうだった。
声にならない声で叫び、地面を掻きむしり、何もかもが壊れていくのを止められなかった。
(……同じだ)
タロンは——動いた。
アルヴィナの前に膝をつき——腕を回した。
抱きしめた。
小さな体で。子供の腕で。だが——その腕の中にある力は、五十人の精鋭を葬った力だ。
今はその力を使わない。ただ——腕を回す。
アルヴィナの体が——硬直した。
「……離せ」
掠れた声。
「離せ……お前に……何がわかる……お前に……」
「…………」
「お前にはわかるはずもない……! 私は——全部失ったんだ! 全部……シェイラも……ドラグも……ジェーンも……ガロウ様も……全部——!」
アルヴィナの拳が——タロンの胸を叩いた。
弱い拳。あの検問でグルダを一発で沈めた拳が、今は子供に叩きつけられてすら——力がない。
「お前に……こんな痛み……わかるわけが——」
「僕も——家族がいない」
タロンの声は——静かだった。
「全員殺された」
拳が——止まった。
「……父も。母も。兄も。姉も。一晩で。——信頼していた者に裏切られて。全員」
アルヴィナの体から——力が抜けた。
抵抗が消えた。
タロンの腕の中で——崩れ落ちた。
コーカサス家。
アルヴィナは歴史を知っている。ガロウの城でタロンが名乗った時、その名前の重さを理解した。五百年前に滅んだ上位家系。北方の守護者。一夜にして壊滅した一族。
その末子が——今、自分を抱きしめている。
全てを失った者が——全てを失った者を、抱きしめている。
「…………ぁ……」
アルヴィナの目から——ようやく、涙が溢れた。
今まで一度も流れなかった涙。シェイラの時も。ドラグの時も。ジェーンの時も。
ずっと——堪えていた。強くあろうとしていた。指揮官であろうとしていた。
もう——無理だった。
声を上げて泣いた。
子供のように。十七歳でアルディナを失った時と——同じように。
タロンは——黙って、抱きしめ続けた。
腕の中の女が泣いている。
温かい。人間の体温。涙の湿度。
リーシャの手の温もりとは——違う。もっと重い。もっと深い。
(僕には——この人の涙を止める力がない。だが——隣にいることはできる)
ヴェスカが——二人の少し離れた場所で座り込んでいた。
泣きながら——でも、邪魔をしなかった。
今だけは——二人にしてあげるべきだと、この子は知っていた。
*
どれだけの時間が経ったのか——わからなかった。
アルヴィナの涙が——止まった。
タロンの腕の中で、荒い呼吸が少しずつ落ち着いていく。
「……離してくれ。もう——大丈夫だ」
タロンは腕を離した。
アルヴィナが——目を拭い、立ち上がった。足はまだ震えていたが——立った。
「……体を降ろす。手伝え」
三人でガロウの体を槍から降ろした。
ヴェスカが城の中から白い敷布を持ってきた。ガロウの体を包んだ。
タロンが穴を掘った。中庭の片隅。素手で。
ガロウの体を横たえた。
剣がない。墓標にする儀式用の剣がない。ガロウの剣は奪われていた。
タロンは右手から黒い靄を凝固させた。剣の形。細く、真っ直ぐ。飾りはない。漆黒の物質でできた剣。
土に突き立てた。
黒い剣が——灰色の空に向かって、真っ直ぐに立っている。
三人が剣の前に立った。
祈りの言葉はない。ただ、立つ。
風が吹いた。
黒い剣が——微かに鳴った。タロンの魔力が漆黒の物質を共振させている。
ガロウの剣の音とは違う。もっと低く、もっと暗い。
だが——鳴っている。剣が。
ヴェスカが声もなく泣いていた。
アルヴィナは——泣き終わっていた。目は赤いが、もう涙は出ない。全部出し切った。
長い沈黙の後——アルヴィナが口を開いた。
「タロン」
「何だ」
「……お前は、何がしたいんだ」
「…………」
「最初に会った時——お前はカルディナ方面に用があると言った。ガロウ様に会ってからは、ベアトリーチェに会いたいと言った。その都度——目的地が変わっている。でも……お前が本当に追いかけているものが何なのか——私は、まだ聞いていない」
黒い剣の前。
ガロウが眠る場所。
タロンは——その剣を見つめたまま、口を開いた。
「……復讐」
「復讐?」
「コーカサス家を滅ぼしたタリンの名を——全て消すこと。それだけが、この空っぽの器に残った方角だった」
「……だった、か。今は違うのか」
「…………」
タロンは——少し、黙った。
復讐。
リーシャの前で名乗った言葉。「我が名はタロン・コーカサス。復讐者だ」——あの夜、それだけが自分を定義していた。
「……北方でタリンの末裔を名乗る者どもを殺した。街を灰にした。だが——渇きは癒えなかった」
「…………」
「人を殺しても、何も満たされない。怒りが消えるわけでもない。ただ——灰が増えるだけだ。タリンの末裔を全て殺したところで、残った果てが今のこの世になるだけだ。五百年かけて出来上がった、この世だ。何も変わらない」
タロンの声には——怒りがなかった。
代わりにあるのは——迷い。
「だが——不愉快だ」
「…………」
「この世界は不愉快だ。コーカサスの名は忘れられ、タリンの名はまだ利用され、父が守ろうとしたものは全て失われた。そして——その構造の裏で、アサラムの影がちらついている。復讐の相手が正しいのかすら、わからなくなってきた」
風が吹いた。
黒い剣が——揺れた。
「僕は——まだ迷っている。何がしたいのか。何を壊して、何を残すべきなのか。——答えが出ない」
アルヴィナは——しばらく黙って、黒い剣を見つめていた。
やがて——口を開いた。
「……私も、同じだ」
「…………」
「ガロウ様の仇は討ちたい。それは変わらない。だが——仇を討った後に何が残るのか。空っぽだ。お前の言う通り——灰が増えるだけかもしれない」
「…………」
「それでも——行く。行って、自分の目で見て、判断する。迷ったまま立ち止まるよりは——迷ったまま歩いたほうがいい」
アルヴィナが——タロンを見た。
「お前と一緒に行く。利害の一致、じゃなくて」
「…………」
「友として」
その言葉が——中庭の空気に、染み込んだ。
タロンは——答えなかった。
答えられなかった。
「友」という言葉を——受け取る器が、自分の中にあるのかどうか。
だが——拒まなかった。
タロンは——黒い剣に、手を伸ばした。
柄に触れた。
瞬間——指先から、何かが流れ込んできた。
鼓動。
黒い剣を通じて伝わる、微かな脈動。タロン自身の魔力が剣の中を循環し、共振し——その共振の奥に、もう一つの鼓動が重なっている。
(……これは——)
ベアトリーチェの間で感じたものと——同じだ。
あの白い部屋で、二つの力が反発し、拒絶し、結合した時の——あの脈動。超越者同士が互いを認識した時に響く、根源的な鼓動。
だが今——タロンの手の中で鳴っているのは、ベアトリーチェのものではない。
もっと遠い。もっと微かな。
だが——確かに、ある。
(この世界のどこかに——もう一人、いる。僕やベアトリーチェと同じ根を持つ者が)
それが何者なのかは——わからない。
だがこの鼓動が指し示す方角は——
タロンは手を離し、東を見た。
その時——風に乗って、何かが飛んできた。
布切れ。
焼け焦げた、汚れた布。城壁の外から吹き込んできたのだ。
アルヴィナがそれを拾い上げた。
広げた瞬間——二人の目が見開かれた。
旗だった。
破られ、焼かれ、泥にまみれた——軍旗。
白地に幾何学模様の紋章。
ノヴァ・カルディナの軍旗だ。
戦火の痕跡。
この旗は——ヴァルグラムとノヴァ・カルディナの衝突の現場から、風に乗って飛ばされてきた。
タロンは——旗を見つめた。
あの鼓動が指し示した方角と——この旗が来た方角が、一致していた。
東。
ノヴァ・カルディナ。
(全てが——あの方角に、集まっている)
「……出発は明朝だ」
アルヴィナが言った。声は——もう震えていなかった。
「ノヴァ・カルディナへ行く。正面からは行けない。潜入する」
ヴェスカが——二人の間に割り込んだ。
「あたしも行くよ。——ガロウのおじさんの仇は、あたしだって討ちたい」
琥珀色の瞳が——涙で濡れていたが、光は消えていなかった。
「三人、か」
アルヴィナが呟いた。
「七人の時より少ない。——だが」
言葉を探している。「強い」とは言えなかった。もう強がりは要らない。
「……だが、嘘がない。今のこの三人には」
タロンは頷いた。ヴェスカも頷いた。
*
城に残っていた書記官を見つけた。地下の貯蔵庫に隠れていた中年の男。
「何があった」
「五日前の夜です。ノヴァ・カルディナの小部隊が城に入りました。十人ほど。先頭に立っていたのは大柄な黒髪の男で、鎧も着ていなかった」
「ガロウ様はどうなった」
「剣を抜いて応戦されました。ですが——あの男は、ガロウ様の技を見た瞬間に真似たのです。同じ構え。同じ太刀筋。同じ剣の鳴り。——ガロウ様は、ご自分の技で斬られました」
アルヴィナの拳が白くなった。
「最後まで立っておられました。膝をつかなかった。——ですが、あの男の槍が……」
書記官の声が途切れた。
「その男は何者だ」
「名乗りませんでした。ですが——小部隊の指揮官が言っていました。『ノヴァ・カルディナの元老院の命だ』と」
ノヴァ・カルディナの元老院。
ベアトリーチェの言葉が重なった。
全てが——東を指している。
中庭に——黒い剣だけが残された。
灰色の空に向かって——真っ直ぐに立っている。
ガロウの剣は奪われた。
だがこの黒い剣は——誰にも奪えない。
タロンの魔力で作られた、永遠の墓標。
あの老いた狼が眠る場所の目印。
その剣の中で——まだ、鼓動が脈打っている。
タロンにだけ聞こえる、遠い、遠い脈動。
東から。
ノヴァ・カルディナの方角から。




