扉の外へ
しばらく不定期更新で進みます。
監視札が外れたのは夜明け直後だった。
シリルが来た。外套の肩にわずかな水気があった。今朝も早くから動いていた証拠だった。
「外します」
手首を差し出した。シリルの指が当たった。低く短い言葉を言った。白い帯がゆっくりと光を失い、するりと落ちた。床の石に音もなく触れた。
手首を裏返して確かめた。薄い白い跡が一周残っていた。
「数日で消えます」
「わかりました」
扉が開いていた。廊下が見えた。石の廊下だった。窓もなく、どこにでもある廊下だった。これまでも見えていた。だが今日は、踏み出せる廊下だった。
一歩出た。廊下の空気が入ってきた。冷えた石の匂いがした。遠くで使用人が話す声があった。屋敷の普通の朝だった。
窓のある廊下に出た。庭の緑が朝の光を受けていた。外の空気が窓の隙間から入ってきた。数日ぶりだった。
肺に入ると、何かが変わった。何かが、少しだけ戻ってきた気がした。
食堂でシリルと向かい合った。
「正式な協力者として局が認定します」とシリルが言った。「条件があります」
「聞きます」
「捜査官の指示に従うこと。証拠の単独持ち出しは禁止。危険な接触は必ず報告すること」
「守ります」
「もう一つ」
少し間があった。
「局の名前を使って独自に動かないこと。あなたが掴んだ何かが、局の調査方向と矛盾する可能性があります。そのとき、先に私に言ってください」
「了解しました」
シリルがカップを持ったまま、少し傾けた。飲まなかった。
「管財人の上にいる者について、今日何がわかっていますか」
「台帳の印章は、現在の王立組織のどの印章とも一致しません」とシリルが言った。「意図的に除外されているか、公式に存在しない組織の印章か。どちらかです」
「印章を特定するには同じ印章を持つ別の文書が必要です。あるいは印章の登録簿。非公式なら登録簿は存在しない」
「その通りです」
「文書なら、場所があります」
シリルが一瞬だけ動きを止めた。
「評議会の非公式書架のことです。十歳のころ、父に連れられて評議会棟に入ったとき——父の友人が話していました。話すつもりではなかったらしく、私に気づいてから口を閉じました。だから覚えています」
この記憶は確かだった。令嬢の身体の中でも、輪郭がはっきりしている記憶があった。これはそのひとつだった。
シリルが指を機の上で組んだ。
「評議会の非公式書架については局も把握しています。ただし内部に何が保管されているかは把握できていない。踏み込むには評議会の承認が必要です」
「私なら入れます。父の議席を使えば」
「父君との関係は」
「よくありません」シリルの顔を見た。「三年以上、この屋敷を訪ねていません。それが答えになると思います」
シリルが少し目を落とした。
「書架への入室には、議席保有者本人の同行か、委任状が必要です」
「父に直接頼みに行きます」
「今日でも」
「今日の午後にでも。問題がありますか」
シリルが少し息を整えた。意外そうではなかった。何かを決めるような間だった。
「移動の手配は私がします。同行します」
午前中、グレゴールを呼んだ。
証言を終えた老執事の背筋は昨日より少し伸びていた。疲れは残っていたが、動ける疲れだった。
「管財人がこの屋敷に来る前の履歴を調べていただけますか。入ってくる前の仕事。人脈。誰が推薦したのかも含めて」
グレゴールが少し考えた。指が前で重なった。
「推薦者については当時の書類があるはずです。ただし書庫の管理が管財人の手に渡ってから、書類の配置が変わっています」
「どこにあるか心当たりは」
「もともとは第二書庫の東棚にありました。今もそこにあるかどうか」
「確認をお願いします。書類が消えていれば、それも教えてください」
グレゴールが頷いた。迷いはなかった。
「もう一つ——管財人が定期的に接触していた外部の人物はいますか」
老執事の目が少し遠くなった。記憶を辿る目だった。
「月に一度、馬車を呼んでいました。南区の方面だと御者が言っていました」
「御者はまだ屋敷に」
「います」
「昼食後に話を聞かせてください」
御者のヴィルが来たのは昼前だった。
四十代の半ば。日焼けして、目の細い男だった。手に皮の跡があった。長く馬を扱ってきた手だった。座ることを遠慮して、立ったまま話した。
「南区の医療街の近くです。書家が多い一帯で、写し屋の並びがある。その中の一軒に、たびたびお届けに」
「何を届けに」
「書類を持って行くことが多かったです。管財人様が自分で持ち込むこともありましたが、急ぎの時は私が預かりました」
「封はしてあったか」
「してありました」
「表書きは」
ヴィルが少し考えた。
「宛名はありませんでした。記号のようなものが一行だけ書かれていました」
「記号」
「横棒と縦棒を組み合わせたようなもので。数字とも文字とも違いました」
「書いてもらえますか」
紙とペンを差し出した。ヴィルが少し迷って、書いた。
横棒と縦棒が斜めに交差する図形だった。角度が急で、交差点から右下に向かって短い横線が添えられていた。算用数字ではなかった。
「これで全部ですか」
「これだけです」
「ありがとうございました」
ヴィルが出て行ってから、紙を手に取った。
台帳の印章と同系統かもしれなかった。わからなかった。だがわからないことは調べられる。
紙を折りたたんで、上着の内側に入れた。
午後、シリルが馬車を用意した。
「父君との会話が終わったら、すぐに知らせてください。委任状だけが目的です」とシリルが言った。
「わかっています」
馬車が動き出した。石畳が揺れを伝えた。街が窓から流れた。
頭の中を整理した。
父は感情より利益で動く。——これは令嬢の記憶から引き出した判断だった。記憶の端に、父の声がいくつか残っていた。感情を表に出さない声だった。怒鳴ることも褒めることも、なかった。要求が届き、承諾か拒否かだけが返ってくる声だった。
台帳に評議会の議員名が含まれているとすれば——父の関係者かもしれない。あるいは父自身が台帳と無関係だという保証もない。どちらでもあり得た。だから測りながら話すしかなかった。
「一つ確認してよいですか」と馬車の揺れの中でシリルが言った。
「何を」
「父君は台帳と無関係だと判断していますか」
窓の外を見た。
「判断していません。会って話す理由の一つはそれです」
シリルが何も言わなかった。
門柱に家紋が彫られていた。
令嬢の身体の中に、この紋章を見た記憶があった。だが記憶の中の紋章と、今目の前にある石の紋章は、違う重さを持っていた。記憶は薄かった。石は今日の光の中にあった。
門番がレティシアの顔を見て、少し止まった。通した。
石畳を踏んだ。シリルが数歩後ろで立ち止まった。
「中で待ちます」
一人で玄関へ向かった。扉が開いた。執事が顔を出した。驚いた顔をして、すぐに顔を整えた。
「お嬢様」
「父はいますか」
「書斎に。ご連絡がなかったので、お待ちではありませんが」
「少しだけ時間をいただきたいと伝えてください」
執事が引っ込んだ。廊下に立ったまま待った。天井が高かった。令嬢の記憶にある廊下と、目の前の廊下が重なった。重なりはしたが、一致しなかった。記憶は断片的だった。自分が今立っている廊下の方が、より鮮明だった。
書斎の扉を開けた。
父が機の前に座っていた。五十代の半ば。白髪が増えていたが、姿勢は変わっていなかった。書類に目を落としていて、入ってきたレティシアをすぐには見なかった。
「座りなさい」
椅子を引いて座った。
父が書類を閉じた。顔を上げた。目が少し動いた。令嬢の記憶の中の目と同じだった。何かを測る目だった。
「久しぶりだ」
「はい」
「昨日まで監視下にあったと聞いた」
「今朝、外れました」
「捜査局がここに来た。君に関する確認があると言って」
「局はどんなことを聞いていきましたか」
父が少し止まった。
「娘が何か問題を起こしたか、という確認だった」
「問題は起こしていません。解いていました」
また間があった。
父の顔を見た。驚きではなかった。反論でもなかった。何かを聞こうとしている顔だった。
「用件を言いなさい」と父が言った。
「評議会の書架への入室許可が必要です。委任状を出していただけますか」
父が少し眉を動かした。
「何のために」
「調査のためです。捜査局が踏み込めない場所に、証拠があるかもしれません」
「私の議席を使って、捜査局の仕事を代わりにする、と」
「そういう形です」
父がしばらく動かなかった。機の上に手が置かれていた。
「書架に何があると思っている」
「非公式な取引の記録です。台帳と同じ印章を持つ文書があれば、組織の正体が見えてきます」
「台帳」
父の声が少し変わった。音程が変わったわけではなかった。早くなったわけでもなかった。ただ空気が変わった。
知っている。台帳のことを、知っている。
「台帳に、お父様の名前は出ていますか」
父が少し止まった。長い間だった。
「出ていない」
「しかし台帳の存在は知っていた」
また間があった。さらに長かった。
「三年前に、誰かから名前が使われる可能性があると聞いた。断った。それだけだ」
「誰から聞きましたか」
父が目を細めた。
「今日ここに来た目的は、委任状だけか」
「委任状と——あなたが知っていることを教えていただくこと、です」
書斎が静かになった。窓の外で風が木を揺らした。揺れが収まった。
父が書類を引き出しに入れた。ゆっくりとした動作だった。考えている動作だった。
「委任状は出す」と父が言った。「条件として、今日ここで私が話すことは、局の正式な書類には残さないこと」
「それは約束できません。捜査に関係する情報は、担当官に報告する義務があります」
「なら、話すことは何もない」
「ただし——」
少し間を置いた。
「今日の話を、私が理解した文脈として解釈し、担当官に渡すことはできます。出所が誰であるかを特定せずに」
父が少し目を細めた。
「それで構わない」
「では聞きます。三年前、誰から台帳の話を聞きましたか」
父が答えた。
答えた名前は、レティシアが今日まで一度も聞いたことのない名前だった。令嬢の記憶にも、なかった。
父の屋敷を出て、馬車に戻った。
シリルが中で待っていた。レティシアが座ると、少し身を前に傾けた。
「委任状は」
「もらえます。明日には届けてもらえると」
「それ以外に何か」
「一つ、名前を聞きました」
シリルが静かに待った。
「その名前をあなたに渡します。ただし出所は言えません」
「わかりました」
紙に名前を書いた。折りたたんでシリルに渡した。
シリルが開いた。名前を見た。
一瞬、目が止まった。一瞬だけ。すぐに表情が戻った。戻り方が、少し速かった。
「知っている名前ですか」とレティシアは聞いた。
「調べます」
「知っている名前です」
シリルが答えなかった。答えないことが答えだった。
馬車が動き出した。窓の外に街が流れた。父の屋敷が遠ざかった。
台帳の印章から、御者の証言、記号、父の過去の接触、そして今シリルが知っている名前。一日で、線が伸びた。
まだ霧の中だった。だがその霧に、今日初めて輪郭が見えた。
夜、自室の機に戻った。
紙を広げた。書いた。
*台帳の印章=非公式組織の印章(可能性高)*
*南区の写し屋=定期的な書類の受け渡し先*
*御者が目にした記号=印章と同系統の可能性*
*評議会の非公式書架=委任状取得済み・明日以降アクセス可能*
*新たな名前=シリルが知っている、台帳の中心に繋がる可能性*
五行だった。朝の三行より二行増えていた。
ペンを置いた。
窓の外が暗くなっていた。遠くで風の音がした。
今日一日で、扉が二枚開いた。監視の部屋を出た扉と、父の書斎の扉。どちらも、開く前は閉じていた。開けたのは自分だった。
明日、書架に入る。
線の先が、また少し見えた。
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