一本の線
しばらく不定期更新で進みます。
夜明け前に目が覚めた。
窓の外はまだ暗かった。鳥の声もなかった。屋敷全体が息を潜めているような静けさだった。
レティシアは天井を見た。梁が影の中にあった。
昨夜届いた一行を、また頭の中で繰り返した。
――西塔に、もう一冊ある。
もう一冊。どういう意味での「もう」なのかが確定していなかった。焼かれた写しの他にという意味か。持ち去られた控えの他にという意味か。それとも、誰もが存在しないと思っていたものが実在するという意味か。
グレゴールは言った。焼いたのは写しだけだった。本物は行方がわからない、と。
そのとき老執事の目が一瞬だけ動いた。わずかだった。気がした程度だった。だが今、あの動きが引っかかった。
写しだけを焼いた、と言った。本物については語らなかった。焼けなかったのか。焼かなかったのか。できなかったのか。
あるいは——本物の場所を、知っていた。
夜明けが近かった。空の端が少しだけ明るみを帯び始めた。
グレゴールが来たのは昼前だった。
扉を叩く音が小さかった。老執事の叩き方だとすぐわかった。年月で磨かれた所作が音にも出ていた。
「少しよろしいでしょうか」
「構いません」
老執事が入ってきた。白い髪が揃っていた。服に皺はなかった。だが目の下の陰が昨日より深かった。夜中に何かがあった顔だった。
椅子に近づいたが、座らなかった。立ったまま部屋の角を一度見た。
「写しを焼いた、と申し上げました。それは事実です。ただ——本物の台帳の場所を、知っておりました」
「三年前からですか」
「ルーファス様がお持ちになりました。書庫から移してある、と。どこへ、とは聞きませんでした。聞かないことが安全だと判断しました」
聞かないことが安全。
「誰かが台帳を狙っていた」
「あの時分から、屋敷の中に——何かがあると感じておりました」
何か、という言い方をした。名前は出さなかった。
「今なら言えますか」
老執事が少し間を置いた。
「管財人が——あの時期から様子が変わっておりました。書架への同席を求めることがありました。書庫への出入りが増えました。申し上げる根拠を持てないまま、時間が過ぎました。ルーファス様にお伝えするつもりでおりましたが、踏み切れないでいる間に」
声が止まった。
老執事の手が、腿の前でかすかに動いた。
「捜査官に話しますか」
「本日中に。それを申し上げるためにまいりました」
扉の方へ向いた。歩みが少し遅かった。
レティシアは声をかけなかった。
扉が閉まった。廊下に足音が遠ざかった。
食事が届いた。昨日と同じ年配の使用人だった。余分なことを言わずに出た。
パンを一口食べた。冷えていた。噛みながら、管財人という言葉を頭の中で動かした。
名前ではなかった。まだ役職しかなかった。だが輪郭は出てきた。
三年前から屋敷の中にいた者。書架への接触があった者。台帳の存在を知り得た立場の者。
線の端が見えてきた。
シリルが来たのは昼を過ぎてからだった。
昨日より埃が少なかった。靴は拭いてあった。それでも目の下に薄い影があった。夜中も動いていた顔だった。
今日は椅子に座った。背を伸ばしたまま座り、卓に紙を一枚置いた。薄い紙だった。
「西塔に入りました」
「台帳は」
「ありました」
「本物ですか」
「筆跡と印章の照合中です。今日中に確認が取れます」
「老執事から何か」
シリルが少し止まった。
「本日の昼過ぎ、自発的に申し出てきました。管財人の行動について、三年前から気になっていた点があったと。根拠がないまま時間が過ぎたと証言しました」
「書架への同席、書庫への出入りの増加」
「それです。具体的な接触は確認できていませんが、台帳の存在を知り得た立場であるとは言えます」
「老執事は、管財人が何かに関わっていると感じながら、三年前から黙っていた」
「そうなります」
シリルが紙を手で示した。
「秘書の証言の抜粋です」
紙を取った。短い文章だった。整理された字だった。
三年前。名義貸し。署名。報酬は口頭のみ。証人なし。記録を残さないことが条件だった。
文字を読みながら、呼吸が少し変わるのがわかった。
「秘書はこれをルーファス様から聞いていた」
「そう証言しています。三年前の署名が誰かのためのものだったこと。署名者は現在の事件より前に死亡しています。死後もその名義で取引が続いた。取引の記録が黒檻台帳に収録された」
「収録したのは、記録として残したい者がいたからですか」
「隠したい者がいた一方、縛りとして使いたい者もいた。台帳に名前を入れることで互いを抑制しようとした可能性があります」
縛る。互いに。
「だから王立側の名前も含まれている」
「現時点の情報ではそう見えます」
紙の文字をもう一度なぞった。
三年前の署名。死亡した署名者。死後も続いた取引。台帳に収録された記録。
一本の線が見えた。
「ルーファス様は書庫でこれを見つけた」
「証拠は出ていません。ただ、西塔での台帳の保管状況から見て、本人が知っていた可能性は高い」
「保管場所は」
「鍵のかかった書架の最下段です。後から持ち込まれた独立した箱の中でした。西塔の正規の書架ではありません」
後から。
「ルーファス様自身が置いた」
「一つの可能性です。あるいは、台帳を守りたい者が安全な場所に移した可能性もあります」
「どちらにしても、誰かがその場所を知っていた」
「西塔への出入りを確認できれば、絞り込めます」
シリルが紙を回収した。卓の上が空になった。
「三年前の署名者は、どういう立場の者ですか」
「公爵家に連なる者です。傍系で、既に亡くなっています」
「その者が亡くなったとき、誰が跡を継ぎましたか」
シリルが少し間を置いた。
「調べます」とだけ言った。
夕方になった。
シリルが二度目に来たとき、外套に砂が戻っていた。靴の底が白かった。また動いていた。
扉の近くに立ったまま言った。
「跡を継いだ者の名前が出ました。現在の屋敷付き管財人です。署名者の遠縁にあたります。署名者が亡くなった翌年、この屋敷の管財職に就いています」
管財人。
「昨夜の廊下の足音との照合は」
「屋敷の内部構造を把握しています。秘書の部屋の場所も知っていた。行動確認を進めています」
「台帳に名前は」
「管財人の名前は台帳に出ていません。ただ、台帳に記録された取引相手と管財人の間に、三年前の時期に金銭の移動が確認されています」
「直接名前を出さなかった。代わりに金を動かした」
「そう読めます」
「だから台帳に名前がない。だから隠し続けられた」
「ルーファス・グレイはこの金銭の流れに気づいていた可能性があります。書庫から持ち出した書類がその証拠に関わるものだったとすれば——」
「殺す理由になります」
部屋が静かだった。
日が西に傾いていた。窓から差す光が赤みを帯びていた。床の影が長く伸びていた。
「明日、管財人への聴取を行います。任意です。拒否すれば令状を請求します」
「令状は出ますか」
「今日集まった根拠があれば出ます」
シリルが扉の方へ向いた。
「秘書の安全は確保しています。今夜は局の管理下に置きます」
「老執事は」
「本日の申し出があります。本人が話す準備ができれば、さらに詳しく当たれます」
扉が開く前に、レティシアは言った。
「老執事が守ろうとしているのは、言えなかった自分かもしれません。言えていれば止められた。言えなかった。その事実を、捜査の場で突けば、話が出るかもしれません」
シリルが少し静止した。
「参考にします」とだけ言った。
扉が閉まった。
夜が来た。
監視札が夜間確認を知らせた。白い光が走って消えた。
窓の外を見た。庭に明かりがなかった。星がいくつか出ていた。
管財人。
今日までは名前のない線だった。動機の輪郭だけがあった。それが今夜、形を持った。
三年前の取引。名義を貸した署名者。署名者の死。遺産のように跡を引き継いだ管財人。台帳に名前を残さなかった者。ルーファスが気づいた。ルーファスが西塔に証拠を残した。ルーファスが死んだ。秘書が追われた。控えが奪われた。
一本の線が引けた。
線の端に、明日の聴取がある。
まだ確証ではなかった。シリルが当たる。必要なら令状が出る。線の上に立っている者を、正面から問い質せる段階に来ていた。
レティシアは手首の監視札を見た。白い帯が暗がりに浮いていた。
動けない。この部屋を出られない。明日の聴取にも同席できない。
だが、名前はあった。追うべき方向が定まっていた。
今日まで、断片しかなかった。誰が何を隠していたのかが霧の中にあった。その霧が今夜、少し晴れた。
庭の闇が深かった。風の音がした。木が揺れた。揺れが収まってから、夜がまた静かになった。
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