第三話 嵐のあとの、静かな(?)朝
王都を襲った「不眠の狂乱」を鎮め、エドワード王子の野望を打ち砕いてから数ヶ月。 北の地、フェルゼン領は例年よりも穏やかな冬を迎え、公爵邸にはようやく「平和な日常」が戻ってきた……はずだった。
「……ん、……ふ、わぁ。よく寝た……」
朝の陽光が、厚手のカーテンの隙間から差し込み、紬の長い睫毛を揺らす。紬は、最高級のシルクの寝具に包まれ、幸せな欠伸を漏らしながら大きく伸びをした。公爵夫人として迎えられた彼女の朝は、本来なら侍女たちが捧げる温かいハーブティーの香りで始まるはずである。前世で、鳴り止まないアラームと格闘しながら、這うようにして満員電車へ向かっていたあの地獄のような朝に比べれば、今の環境は天国そのものだ。
しかし、彼女が寝返りを打とうとした瞬間、柔らかなシーツの下で「何か」にぶつかった。 温かくて、異様に硬く、重厚な「壁」のような質感。
「……おはよう、紬。あと五分、いや……あと一時間だけ、このままにしてくれ」
隣で彼女の腰を、逃がさないと言わんばかりの剛腕でがっしりと抱き寄せているのは、この地の主であり、紬の夫となったアルベルトだ。彼はいつもの冷徹な「死神」の面影など微塵もなく、無防備に目を閉じたまま、紬の首筋に顔を埋めて深く息を吸い込んでいる。
「ちょっと、アルベルト様。重いわよ。それに、公爵様がいつまでも寝坊してていいの?」
「……いいんだ。領内の政務は昨日までにすべて終わらせた。今日は、君の香りを堪能する日だと決めている」
アルベルトの低い、朝特有の掠れた声が鼓膜を震わせる。彼にとって紬は、もはや単なる妻を超え、魂の安息所そのものだった。
だが、この部屋に潜んでいる「猛獣」は、彼一人ではなかった。
「……奥様。不都合はございませんか。寝具の乱れ、および室温の変化、すべて監視下にあります」
「ひゃっ!?」
紬が悲鳴を上げた。ベッドの足元、豪華なフットカバーの影から、音もなくカイルが這い出してきたのだ。彼は影の中に溶け込んでいたはずだが、紬が目覚めた瞬間に、その「護衛(執着)」としての本能が露呈したらしい。
「カイル! なんで寝室の中にいるのよ! 廊下で待機しててって言ったでしょ!」
「廊下では、奥様の寝息の周波数が正確に把握できませんので」
無表情のまま、至極真面目に答えるカイル。その隣では、ベッドの下から「ガタガタ」と不審な音が響き、隈を一層深くしたゼノスが、奇怪な計器を抱えて這い出してきた。
「……紬! 見てくれ! 君の睡眠中の脳波データから、新しい『幸福感増幅アロマ』の配合比率を割り出したぞ……! これで君は、寝ている間も僕の……僕たちの癒やしを……ひひっ」
「ゼノスまで……! あんたたち、新婚の寝室に不法侵入するんじゃないわよ!」
紬の絶叫が、静かなはずの公爵邸の朝を切り裂いた。 アルベルトは邪魔者たちに
「お前ら、今日こそは処刑してやる……」
と殺気混じりの低い唸り声を上げ、カイルは淡々と影に潜り、ゼノスはデータを抱えて逃げ惑う。
「(……ああ、もう。王都を救って平和になったと思ったのに、私の安眠は絶望的な状況だわ……)」
紬は天を仰ぎ、深いため息をついた。 公爵夫人になっても、彼女を巡る「過保護な男たち」の争奪戦は、終わるどころか激化の一途を辿っている。
「……でも、まあ。……これだけ騒がしいのは、みんなが健康に寝て起きてる証拠ね」
紬は呆れながらも、自分を抱きしめるアルベルトの腕に、そっと手を重ねた。 聖女の有給休暇は、どうやらこれからも、賑やかで眠れない朝と共に続いていくようだった。




