第五話 シリル王子の決意と、紬への約束
叙勲式が終わり、喧騒の去った王宮。夕暮れに染まる広大なテラスに、シリルは一人佇んでいた。眼下に広がるのは、数週間ぶりに「穏やかな夕食の煙」が立ち上る王都の街並みだ。
背後で紬の足音が聞こえると、シリルはいつもの軽薄な笑みではなく、どこか寂しげで、けれど凛とした横顔で振り返った。
「……本当に行ってしまうんだね。君がいれば、僕のこれからの仕事も、この国の未来も、もっと楽に塗り替えられると思っていたんだけど」
シリルは苦笑しながら、紬の前に歩み寄った。かつては冷徹な計算と皮肉しか宿っていなかった彼の瞳には、今、一人の女性に対する真っ直ぐな敬愛と、抑えきれない独占欲が静かに火花を散らしている。前世で、最も困難なプロジェクトを共に乗り越えた後、別の部署へと異動していく「絶対に手放したくない最高のアシスタント」を見送るような、そんな焦燥と惜別の色が彼の瞳を縁取っていた。
「兄上――エドワードがしでかした『負の遺産』は、想像以上に根深いよ。狂った法整備の撤回、不眠で理性を失った官僚たちの再教育、さらに何より、傷ついた父上(国王)の代理としての執務……。やれやれ、これじゃあ当分、僕に『有給』なんて言葉は縁がなさそうだ」
シリルはそう言って肩をすくめたが、その背中には、かつてのように責任を回避する弱さはなかった。彼は紬が守ったこの「静寂」を維持するために、泥を被り、国を背負う覚悟を決めたのだ。
「シリル様なら大丈夫。あんた、口は悪いけど根は真面目だし、誰よりもこの国の歪みに気づいていたじゃない。たまにはちゃんと寝て、ちゃんと温かいスープを飲んで……自分を労ってあげてね。セラピストとして、それだけは約束して」
紬の労わりの言葉。それは、かつて「駒」としてしか扱われなかったシリルにとって、どんな王冠よりも重く、温かいものだった。シリルは一瞬、泣き出しそうな子供のような顔をしたが、すぐに愛しげな眼差しで紬を見つめ直した。
「……紬。僕がこの国を整えて、君が北の地で心ゆくまで微睡めるような、平和な世界を維持できたら……その時は、一番に君のサロンへ予約を入れるよ。もちろん、公務としてじゃなく、一人の男としての、プライベートな予約だ」
シリルは、紬が驚く隙も与えず、その細い手を優しく、しかし逃がさないように強く取った。そして、まるで最上級の宝石を扱うかのような手つきで、その指先に、騎士のような情熱を込めて深くキスを落とした。
「その時まで、僕の席を空けておいてくれるかな? ……アルベルトには、絶対に内緒でね。あいつ、嫉妬深いから」
シリルの唇が指先に触れた瞬間、微かな魔力が通ったような熱が走る。それは権力闘争の道具としての誘いではなく、荒廃した国を立て直すという過酷な道を選んだ彼にとっての、唯一の「自分へのご褒美」となる約束だった。
「……ふふ、検討しておきます。予約表、真っ白にして待ってるわ。でも、隈を作って来たら、おしおきマッサージなんだからね」
シリルは最後に一度だけ、紬の姿をその目に焼き付けるように見つめると、毅然とした足取りで、執務室という名の戦場へ、そして王座の待つ未来へと戻っていった。




