第五話 カイルの決意: 紬の過去を守るために
サロンの外、月明かりさえ届かない深い木陰。そこに、背景と同化したかのように佇むカイルの姿があった。 かつては「隈男」と蔑まれ、死の淵を彷徨っていた彼の瞳には今、かつてないほど鋭く、氷のように冷酷な光が宿っている。
彼は、ゼノスの持ち込んだ情報よりも早く、自分の足で「異変」を察知していた。この数日、辺境伯領の境界付近で、王都騎士団特有の「重い鉄の匂い」をさせた偵察兵が、幾度となく影を走っていたからだ。エドワード王子の私兵――不眠不休の狂気に染まった「不眠軍隊」の尖兵たちが、すでに紬の居場所を特定し、包囲網を狭めつつある。かつて前世で、退職を決めたエース社員に対し、あらゆるコネを使って嫌がらせを仕掛けようとした執念深い部長の影を思い出し、紬を守るための殺気がカイルの全身から溢れ出した。
「……あの男は、最初から彼女を人間として見ていない」
カイルは、低く地を這うような声で独りごちた。 エドワード殿下が、かつて追放した紬を呼び戻そうとしている理由。それは改心でも、彼女の能力への正当な評価でもない。
「『不夜の鐘』の副作用で、精神が摩耗し、ボロ雑巾のように壊れ始めた国民……。それらを、彼女の安眠波動で『死なない程度に補修し、再び地獄の労働に駆り立てる』ための……使い捨ての予備部品として求めているんだ」
カイルは、そっと自分の指先を見つめた。 あの日、街道の泥の中で死にかけていた自分に、彼女は迷わず手を差し伸べた。その指先が触れた瞬間、体の芯から強張りが解け、凍りついていた魂に灯がともった。あの温もり、あの柔らかな安らぎを知ってしまった今の自分にとって、彼女を再びあのような冷徹な歯車の一枚に戻すことなど、万死に値する。彼女の尊い休息を奪い、死ぬまで働かせるためのメンテナンス要員に据えようとする王宮のやり方は、カイルにとって逆鱗に触れる最大の禁忌だった。
「……彼女の指は、人を救うためにある。誰かの野望の道具にされるためにあるんじゃない」
カイルの手が、腰の双剣の柄にゆっくりと掛かる。 アルベルトは公爵として、表の軍勢を率いて彼女の安眠を守るだろう。シリルは王族として、政治の表舞台で彼女を庇うだろう。だが、王都の地下に流れる汚泥のような陰謀や、夜の闇に紛れて迫る刺客を掃除するには、彼らの力はあまりに眩しすぎる。
「影の仕事が増えそうだ。……アルベルト様が表から王都の歪みを叩き潰すというのなら、僕は裏から、その『鐘』を鳴らそうとする汚れた指を、一本残らず切り落とす」
カイルは、かつて自分が捨てた「感情を持たない暗殺者」という面を、再び呼び覚ました。 だが、今の彼を突き動かしているのは、主君への忠誠心などという生温いものではない。それは、自分を泥の中から掬い上げてくれた聖女への、信仰に近い純度を持った執着。
「紬さん。……あなたの眠りを邪魔するものは、神だろうと王だろうと、僕がすべて闇に葬ります」
カイルの姿が、揺らめく影に溶けるようにして音もなく消えた。 後には、夜風に揺れる木の葉の音だけが残された。




