第一話 影からの帰還者
公爵邸での「川の字パジャマパーティー」という、神経を逆なでするようなカオスな一夜が明け、紬はようやく自分のサロンの、自分だけの寝室へと戻っていた。 アルベルトとシリルの熱気に当てられ、エレノアの乙女心に振り回され、さらには王都からの不穏な知らせ。心身ともに疲弊した紬は、プロの意地として「今日は絶対に10時間は寝る」と心に決めていた。
パジャマに着替え、夜風を入れ替えるために開けていた窓を閉めようとした、その時だった。
風もないのに、厚手の遮光カーテンが生き物のように不自然に波打った。
「……お久しぶりです、紬さん。あの時の、忘れがたい『残り香』を頼りに……ようやく、こうして邪魔者のいない二人きりで、会いに来れました」
影の中から溶け出すように現れたのは、かつて街道で死に体となっていた「隈男」――カイルだった。 だが、今の彼はあの時のボロ布のような格好ではない。体に合わせて新調された漆黒の隠密服は、闇そのものを裁断して縫い合わせたかのように深い黒。布越しにも分かるほど引き締まったしなやかな体躯は、かつての衰弱が嘘のような、野生の豹を思わせる鋭い美しさを放っていた。かつて前世で、どれほど完璧に仕事をこなしても、音もなく背後に立って「進捗は?」と囁いてくる神出鬼没なマネージャーを思い出し、紬の背中に冷たい汗が伝わった。
「カイルくん!? あんた、そんなに元気になっちゃって……。っていうか、不法侵入よ。隠密スキルを私生活のストーキングに使わないで」
紬は呆れながらも、彼のあまりの様変わりぶりに目を見張った。死にかけていたはずの男が、今や一国の安寧を左右する隠密集団の長として、圧倒的な存在感を放っている。
「はい。紬さんのマッサージと、あの日いただいた『風池』への適切な刺激、そして何よりあのアロマの香り……。おかげさまで、今は驚くほど体が軽く、視界もかつてないほどクリアです。……でも、そのせいで一つだけ、非常に深刻な『副作用』が発生してしまいまして」
カイルは音もなく紬の懐に踏み込むと、彼女の前に恭しく、しかし逃げ道を塞ぐように跪いた。 彼は紬の、ハーブの香りが染み付いた手をそっと掬い上げると、まるで壊れやすい宝物を検品するような手つきで、自分の冷たい頬に寄せた。
「あなたの指の感触が、脳の深部にまで刻まれないんです。……今や他の誰の手を借りても、私の神経は満足できない。……紬さん以外には、指一本触れられたくない、呪われた体になってしまったようです」
「……カイル、あんた……何を、恐ろしいこと言ってるのよ」
紬は手を引こうとしたが、カイルの指は蜘蛛の糸のようにしなやかに、そして確実に彼女の手首を捉えて離さない。 アルベルトのような圧倒的な重圧感でも、シリルのような華やかな情熱でもない。それは、湿り気を帯びた深い霧のように、じわじわと肌にまとわりつき、いつの間にか逃げ道を塞がれているような、粘着質な執着だった。
「カイル、あんた……。忘れたとは言わせないけど、アルベルト様の部下でしょ? 上司が心酔してる女に、影でこんな夜這い紛いのことして……。バレたら首が飛ぶわよ」
「ええ。閣下には命を救われた大恩があります。ですが……。あなたが誰か一人のものになり、二度と私に触れてくれなくなるというのなら、話は別です。恩義を捨ててでも、私は影としてあなたを追い続けるでしょう」
カイルは紬の手のひらに、自分の唇をそっと押し当てた。その瞳の奥には、忠誠心という名の皮を被った、昏い独占欲がゆらりと揺れている。
「閣下も殿下も、あなたの『安眠』を語りながら、結局は自分たちの欲望であなたを疲れさせているだけだ。……私なら、もっと静かに、深く、あなたを包み込める。……紬さん、私を、またあなたの『実験台』にしてくれませんか? 他の誰にも教えない、私とあなただけの、秘密の調律を……」
月光がカイルの端正な横顔を青白く照らし出し、彼の隈の消えた瞳には、獲物を決して逃さない執念が宿っていた。
紬は、自分が救ったはずの男が、一番「安眠」から遠い、業の深い執着の塊となって戻ってきたことに、心地よい戦慄と、どうしようもない「不眠」の予感を感じていた。




