第五話 夢の中の安らぎ
真夜中。公爵邸の最上階は、かつてない静寂に包まれていた。 窓の外では冬の北風が唸りを上げているが、室内は魔法の火の余熱で心地よく保たれている。
しかし、その静寂を裂くように、紬の左隣から微かな、そして切実な呻き声が漏れ聞こえてきた。
「……っ……やめろ。……血が、止まらない……」
紬がまどろみの中で目を開けると、月光に照らされたアルベルトの横顔が、苦悶に歪んでいた。額には脂汗が浮かび、布団を掴む大きな手は、白くなるほど強く握り締められている。 かつて「死神」と呼ばれ、戦場で数多の命を奪い、呪いに蝕まれていた頃の記憶――彼の安眠を長年奪い続けてきた「悪夢」が、紬という平穏を手に入れた反動で、より深く彼を苛んでいるようだった。前世で、大きなプロジェクトを終えた直後に、終わったはずのミスを夢に見て飛び起きたあの「残感覚」に似ているが、彼の背負う影はそれよりも遥かに暗く、重い。
「(……まだ、こんなに苦しんでいたのね)」
紬は、抱き枕の「国境線」をそっと乗り越えた。 右隣ではエレノアがシリルの気配に当てられた疲れからか、静かな寝息を立てている。その奥でシリルも、いつもの不敵な笑みを消して穏やかに眠っていた。
紬は音を立てずにアルベルトの隣へ滑り込むと、彼の冷たくなった手を両手で包み込んだ。
「……アルベルト様。大丈夫、ここは戦場じゃないわ」
紬は彼の耳元で、以前教えた「ハミングによる呼吸調律」を静かに行った。さらに、無意識に力が入っている彼のこめかみと、首の付け根にある安眠の急所「安眠」を、指の腹で優しく、ゆっくりと円を描くように解していく。その指先には、聖女の魔力ではなく、ただ「この男を今度こそ救いきる」という、セラピストとしての意地と、それ以上の何かが宿っていた。
「……つむ、ぎ……?」
アルベルトの瞳が、焦点の合わないままわずかに開いた。 彼は夢と現実の狭間で、自分を繋ぎ止める唯一の錨を見つけたかのように、紬の体を力強く引き寄せた。
「行くな……。暗闇に、私を一人にしないでくれ……」
「行かないわよ。……私はただの有給休暇中の聖女。あんたがしっかり寝てくれないと、私の仕事が終わらないんだから」
紬は、自分の胸元に顔を埋めるようにしてもたれかかる大男の頭を、子供をあやすようにゆっくりと撫で続けた。 アルベルトの呼吸が次第に深く、規則的なものに変わっていく。鋼のように強張っていた彼の背中が、紬の温もりに溶かされるようにして、柔らかく解けていった。
やがて、アルベルトの寝顔から苦悶が消え、まるで幼子のような無防備な安らぎが訪れた。 紬は、彼が完全に深い眠り――レム睡眠ではなく、魂の休息であるノンレム睡眠の深層へと沈んだことを確認し、安堵の溜息をついた。
「(……全く。世界一の騎士様が、こんなに脆いなんて反則だわ)」
紬は彼に腕を掴まれたまま、自分も再び深い眠りへと誘われていった。 アルベルトの重厚な体温。右側から聞こえるシリルとエレノアの穏やかな呼吸音。
その夜、アルベルトが十数年ぶりに「一度も目覚めない安眠」を手に入れたことを、紬だけがその肌で知っていた。




