第三話 エレノアの「主治医」への視線と、小さな違和感
サロンの対角線上。湯気の向こう側で繰り広げられる大人げない「足湯合戦」を、エレノアは一人、優雅に(しかしどこか憮然とした表情で)眺めていた。 彼女の顔には、紬が庭のハーブを特殊配合して作った、一瓶で金貨数枚はする「最高級・夜用美容液」がたっぷりと塗り込まれている。
「……全く、男という生き物は単純ですわね。紬様の指一本、力加減一つに一喜一憂して。公爵様も、第二王子殿下も、国政を動かす時より真剣な顔をなさっていますわ」
ふん、と愛用の扇子を小気味よく鳴らすエレノア。しかし、その鋭い視線は、紬の膝に乗せられたシリルの「しなやかな足」に注がれていた。前世で「他人の成功」を妬むよりも、その裏にある「自分への無関心」に苛立っていた頃の同僚の顔が、紬の脳裏をかすめる。
「ねえ、シリル様。あなた、先ほどから紬様ばかり見ていらっしゃいますけど、わたくしのこの『シルクのようになめらかな肌』、そして今、紬様の教えを完璧に守って仕上げた『輝くようなデコルテ』にはお気づきにならないのかしら?」
エレノアが挑発的に首筋を晒し、扇子の隙間からシリルを射抜くように見つめる。 足湯の熱で少しだけ頭を蕩けさせていたシリルは、その言葉にようやく視線を上げ、いつもの余裕ある微笑を浮かべた。
「エレノア嬢。君の肌が、この領地に来た頃より格段に美しくなっているのは、誰の目にも明らかだよ。紬の指導のおかげだろう? 認めるよ、君は確かに美しい。……でも、僕の心は今、この『安眠の聖女』がくれる静寂と情熱に囚われているんだ。他の美しさを見ている余裕はないよ」
シリルが、いつもの「流し目」を封印した、驚くほど真っ直ぐで誠実なトーンで答える。 その瞬間だった。
いつもなら「当然ですわ! わたくしの美しさに跪きなさい!」と高笑いで返すはずのエレノアが、一瞬、呆気に取られたように言葉を失った。そして、ほんのわずかな間を置いて、彼女は不満げに頬を膨らませ、扇子でバサリとシリルを指差した。 「……なんですの、その言い草は! 紬様がくれる静寂は、男の独占欲なんかに汚されていいものではありませんわ! 紬様を『自分のもの』みたいに語るなんて、野蛮で浅ましいですわよ!」
(あれ……?)
二人のふくらはぎを揉みほぐしていた紬の手が、不自然に止まる。 紬のプロフェッショナルな直感が、部屋の空気に混ざった「違和感」を捉えていた。
(エレノア様、アルベルト様を巡る恋敵の私にムカついてるんじゃなくて、男たちが私に群がるのが気に入らないのね。すっかり『紬推し』の強火ファンじゃない……)
アルベルトの首筋は相変わらず真っ赤なままだが、彼はエレノアの変化には全く気づいていない。シリルも、自分の発言がエレノアの心にどう響いたかを深く考えていないようだった。
「……エレノア様。美容液が乾きすぎると逆効果ですよ。一度、奥で冷たい月見草のティーでも飲んできてください」
「……あ、あら。そうですわね。わたくしとしたことが、美容に集中しすぎて熱くなってしまいましたわ」
エレノアは慌てて立ち上がり、ドレスの裾を翻してサロンの奥へと去っていく。その背中には、いつもの高飛車な自信家としてのオーラが、ほんの少しだけ欠けていた。
(「経験は宝」って私の座右の銘だけど、恋愛経験不足の私でもわかるわよ。これ、四角関係の形が歪み始めてるわ……)
紬は、自分の手の中で再び「自分を揉め」と主張し始めたシリルのふくらはぎに、ため息混じりの強い圧を加えた。 安眠のために平穏を求めている紬の屋敷に、新たな「恋の不眠」の種が蒔かれた瞬間であった。




