第四話 暴走する独占欲
足湯とマッサージが終わり、サロンにはカモミールの香りと、施術後の心地よい脱力感が漂っていた。シリルが
「ふぅ、僕はこのままここで溶けてしまいたいよ」
と椅子に深く沈み込んでいる隙に、アルベルトが動いた。
彼は帰路につく素振りを見せながら、さりげなく紬の手首を掴むと、シリルの耳に届かないテラスの陰へと彼女を連れ出した。
「紬。……少し、いいだろうか」
「公爵様? どうしたんですか、忘れ物?」
紬が不思議そうに首を傾げると、アルベルトの視線が泳いだ。戦場では数万の敵を前にしても眉一つ動かさない男が、今はまるで初めての告白を控えた少年のように、喉を何度も上下させている。その必死な様子は、前世で重要なプレゼンの直前に緊張で震えていた新人研修生を思い出させたが、彼の手から伝わる熱は、それよりもずっと重く、深いものだった。
「……明日の夜、私の屋敷に来てくれないか。……泊まりがけで」
「え? でも、明日もここで夜まで営業の予約が入ってますけど……。出張施術ですか?」
「……違う。客としてではなく、その……。新しい寝具を導入したんだ。最高級の羊毛と、魔力を相殺する特殊な鉱石を織り込んだ布を使った、究極の……マットレスだ」
アルベルトは顔を背け、赤くなった首筋を晒しながら、必死に言葉を絞り出した。
「君に、一番に……試してほしい。プロである君の意見が必要なんだ。……他意はない。ただ、君に最高の環境で眠ってほしいだけだ」
それは、あまりにも不器用で、透けて見えるような「お泊まり」への誘いだった。 「他意はない」と言いつつ、アルベルトの銀色の瞳は、紬の反応を待って期待と不安で激しく揺れている。かつて死神と呼ばれた男の、あまりにも必死な独占欲の表れだった。スペックを羅列して必死に成約を狙う営業マンのようだが、その声の震えが、紬の胸の奥をざわつかせる。
だが、その甘い空気は、背後から響く鋭い声によって切り裂かれた。
「何をコソコソ話しているんだい? 卑怯だよ、アルベルト! 僕という目の上のたんこぶがいなくなった隙に、紬を自分の城へ連れ込もうなんて!」
シリルが、いつの間にかテラスの入り口で、美しい顔を般若のように歪めて叫んでいる。
「紬! 騙されちゃいけない。公爵邸のマットレスなんて硬くて寝心地が悪いだけさ。僕のヴィラなら、魔法で室温も湿度も君の好みに完全同期させてみせるよ。だから、明日は僕のところへ――」
「……検討しておきます。二人とも」
紬は、自分の左右で火花を散らす二人の男を交互に見て、ぴしゃりと言い放った。
「アルベルト様。まずはしっかり仕事をして、今日教えた寝る前のストレッチを三セットこなすこと。それができなければ、新しいマットレスだろうが何だろうが、あなたの不眠は改善しません。いいですね?」
「……ああ。約束する。必ず、こなしてみせる」
アルベルトは、紬に刺されたことすら嬉しいのか、口元をわずかに綻ばせた。彼は去り際、名残惜しそうに紬の指先にそっと触れた。その指先から伝わってくるのは、アルベルトの体温以上に熱い、切実な情熱だった。
彼が去った後、紬は自分の指先に残るその熱をじっと見つめていた。 夜風が吹いているはずなのに、顔が火照って、心臓の音が耳元までうるさく響いている。
(……おかしいわね。心拍数を下げて副交感神経を優位にしなきゃいけない時間なのに。どうしてこんなに、心臓が休まらないのかしら)
有給休暇を謳歌するために来た北の地。 静寂を愛する聖女の心は、二人の猛獣が放つ「熱」によって、かつてないほど激しい不眠の予感にさらされていた。




