第一話 「主治医」の奪い合い
シリル王子のヴィラがサロンの隣に建ち、さらにエレノアまでもが弟子入りしてからというもの、紬の隠居生活はもはや「静養地」とは呼べない賑やかさになっていた。
ある日の午後。増築されたばかりのサロンには、またしても爆発寸前の「殺気」と「甘い誘惑」が入り混じっていた。
「紬、今日は僕の肩がひどく凝っているんだ。王都から持ってきた政務も手につかないほどでね。……君のその魔法のような指で、僕の心も体も優しく解してくれないかな?」
シリルが、まるで絵画から抜け出してきたような完璧なポージングで紬に歩み寄り、その手を取ろうと身を乗り出す。 しかし、その指先が紬に触れる直前、大きな鉄の手――アルベルトの拳が、音もなくシリルの襟首を掴んで、そのまま雑巾のように引き剥がした。
「……殿下。紬の指は、私の魔力暴走を抑え、領内の安寧を保つための聖域だ。貴様のような、単なる『夜更かしが原因の遊び人』が、好奇心で触れていいものではない」
「ひどい言い草だね、公爵。僕は遊び人じゃない。君という想定外の強敵を前にして、一睡もできないほど恋に悩んでいる繊細な男なんだよ」
シリルは襟首を掴まれたまま、不敵な笑みを浮かべて紬を見つめる。
「……紬、彼のような無骨な男を放っておいて、僕のヴィラへ行こう。君の肌に最も馴染むよう、白鳳鳥の産毛だけを厳選した『究極の羽毛布団』を用意させたんだ。あそこでなら、誰にも邪魔されずに僕と――」
「シリル様、それは誘い方が直球すぎてセクハラ……いえ、完全にアウトです。それからアルベルト様も。第二王子の襟首を野犬の首輪みたいに扱うのはやめてください。外交問題になったら、私の睡眠時間がさらに削られるでしょうが」
紬は手に持っていたハーブ仕分け用のトレイを机に叩きつけ、深く、重たい溜息をついた。 目の前の二人は、国を背負う立場でありながら、紬の前では驚くほど子供じみた独占欲を剥き出しにする。前世で「他部署の重要案件」を押し付け合う、責任感のない重役たちを思い出して紬は眉間を揉んだ。
「あんたたちの『肩こり』が本当か嘘か、私の指が一番よく知ってるわよ。……はい、二人とも並んで」
紬は事務的に、しかし容赦のない速さで二人の背後に回った。
「え、あ、紬……?」
「紬、何を――」
言葉が終わる前に、紬の両手の親指が、二人の首の付け根にある自律神経の急所――「風池」と「天柱」を同時に捉えた。かつて締め切り直前の殺気立った編集部で、暴走する上司を無力化してきた「伝説の指圧」が、異世界の英雄たちに炸裂する。
「制裁の特別メニュー。奥義、『強制鎮静・一点集中』!」
「ああっ……!?」
「ひ、ぎっ……! おぉ……っ!」
紬が絶妙な角度で体重を乗せると、二人は同時に、なんとも言えない艶めかしくも悲痛な声を漏らし、そのまま糸が切れたように膝をついた。最強の騎士の魔力も、王子の甘いオーラも、紬の「物理指圧」の前では無力化される。その一撃は、魔力を遮断するのではなく、あまりの「快感と弛緩」によって戦意を根こそぎ奪い去るという、ある意味で呪いよりも恐ろしいものだった。
「……少しは落ち着きました? 二人とも、脳に血が上りすぎなのよ。これじゃ眠れるはずがないわ」
紬は膝をついて荒い呼吸を繰り返す二人を冷めた目で見下ろし、エプロンのポケットから温度計を取り出した。
「今日のメニューは『足湯』よ。殺気を放って熱くなった頭を冷やすには、足を温めて血液を下に降ろすのが一番なの。……いいから、大人しく並んで座りなさい。拒否権はないから」
サロンの奥から運ばれてきたのは、木の香りが清々しい二つの桶。 紬は、悶絶しながらも「……紬に触られた……」とどこか嬉しそうな顔をしている二人の猛獣を椅子に押し付け、その足を強引に温かな湯の中へと沈めた。
静かなサロンに、バシャリ、というお湯の音だけが響く。 こうして、安らぎの聖女を巡る「大人げない争奪戦」の第一ラウンドは、強制的な足湯タイムによって一時休戦となったのであった。




