第五話 カイルの『影の守護』:騎士団の秘密の訓練メニュー
サロンの増築が完了し、紬が「究極の沈黙」を手に入れた一方で、影の守護者であるカイルはかつてない緊張感の中にいた。 紬の「安眠ブランド」が大陸中に知れ渡ったことで、彼女を狙う不届きな輩――利権を狙う貴族の密偵や、彼女を連れ戻そうと目論む王都の残党が、フェルゼン領の境界線にチラつき始めていたからだ。
「……紬様の眠りを妨げる雑音は、届く前に消去せねばなりません」
カイルは、アルベルト公爵直属の騎士団の中から選りすぐりの精鋭を集め、サロンの裏山で「秘密の訓練」を開始した。 その名も、『安眠守護・特殊隠密訓練』。
「いいか。我々の任務は、紬様のサロンから半径500メートル以内における『一切の不快な音』を排除することだ。敵を倒すだけでは二流。一太刀も交えず、悲鳴一つ上げさせず、気配すら残さずに不審者を無力化せよ」
騎士たちは、重い鎧を脱ぎ捨て、音を立てない特殊な魔導具を足裏に装着させられた。 訓練内容は過酷を極めた。 枯れ葉の積もった地面を無音で走り抜け、茂みの中に潜むカイルを察知し、さらには「紬様が昼寝中である」という設定の下、大きな音を立てたら即座に失格、という精神修養に近いものだ。かつて前世で、紬が「集中しているから声をかけるな」というオーラを出している時に、空気を読まずにデスクを叩いて呼んできた上司――その再現不可能な「無神経な雑音」こそが、カイルが教え込む最大の仮想敵だった。
「カイルさん、これは暗殺術の訓練ですか?」
一人の若手騎士が尋ねると、カイルは冷徹な瞳で答えた。
「違う。これは『究極のホスピタリティ』だ。紬様が目覚めた時、世界に自分を害する者が一人もいないという錯覚を与える。それこそが我々の誇りだ」
一方で、カイル自身も紬の「安眠」を別の角度から守っていた。 彼は定期的にサロンの天井裏や床下を点検し、ネズミの鳴き声一つ見逃さない。紬が「……なんだか最近、虫の声も聞こえなくて静かすぎるわね」と呟けば、彼は「自然が紬様の眠りに敬意を払っているのでしょう」と真顔で答える。
実は、カイルが密かに配置した騎士たちが、サロン周辺の虫や小動物を「少し離れた場所」へ誘導する魔法を常時展開しているのだが、紬はそれを知らない。
ある晩、王都から送り込まれた凄腕の刺客がサロンに忍び寄った。 彼は音もなく窓をこじ開けようとしたが、次の瞬間、その意識は闇に落ちた。背後に立ったカイルが、相手が息を吸う音よりも速く急所を突いたからだ。
「不合格です。……あなたの侵入の足音は、15デシベルを超えていた。紬様の夢を乱すには十分すぎる騒音です」
カイルは刺客をゴミのように騎士団の地下牢へ送り、何事もなかったかのように紬の寝室の扉の前に戻った。
翌朝、紬が爽快な顔で目覚め、「今日も平和ね」と欠伸を漏らす。 その背後で、寝不足の隈を少しだけ濃くしたカイルが、静かに頭を下げる。
「はい、紬様。この地は、あなたの眠りのために最適化されておりますから」
紬の知らないところで、フェルゼン騎士団は世界一「静かな」最強の守護集団へと変貌を遂げていたのである。




