第三話 噂を嗅ぎつけた訪問者:辺境の商人との契約
紬が開発した「脳を溶かす精油」の噂は、風に乗ってフェルゼン領の外へと漏れ出していた。 安眠を愛する紬としては、ただ静かに庭を愛でていたいだけだったのだが、世の中には「金の匂い」に対して犬より鋭い嗅覚を持つ人間がいる。
ある日の午後、サロンの前に、これまた不釣り合いなほど派手な商隊が止まった。 現れたのは、色とりどりの宝石を指に嵌め、油断のならない笑みを浮かべた男――辺境随一の豪商、マルコだった。
「おぉ、あなたが噂の『安眠の聖女』様ですな! いやはや、このあたりに漂う香りだけで、私の積年の不眠が治りそうだ!」
「……どちら様? 予約のない方の施術は、通常料金の五倍いただいてますけど」
紬はハーブの剪定バサミを片手に、事務的に応対した。 しかし、マルコは動じない。彼は紬が精製したオイルの瓶をうっとりと見つめ、商談を切り出した。その眼光は、前世で紬が何度も目にした「利益を最大化することしか頭にない、脂ぎった役員たち」のそれと酷似していた。
「聖女様、単刀直入に申し上げましょう。そのオイル、そして庭で採れるハーブの販売権を私に預けていただけませんか? 王都の貴族たちは今、快眠のためなら金貨を山のように積みますぞ。あなたが隠居しながらにして、王宮を丸ごと買い取れるほどの富を築ける……そんな夢のような契約を提案しに来たのです!」
「却下。……富なんていらないわ。私はただ、12時間誰にも邪魔されずに寝たいだけなの。有名になったら、また変な王子とか刺客が来るでしょ? 営業活動なんて、睡眠時間の削減でしかないわ」
紬の即答に、マルコが「もったいない!」と食い下がろうとしたその時。 サロンの奥から、抜き身の刀剣よりも鋭い「殺気」が飛んできた。
「おい、商人。……その汚い手で、彼女の『安らぎ』を計ろうとするな」
「そうだよ。紬の才能は、僕たちだけの特別なものなんだ。下俗な市場に流して、彼女の貴重な休息を奪うつもりかい?」
アルベルトとシリルが、左右からマルコを挟み込むように現れた。 一人は大陸最強の騎士、一人は王位継承権を持つ王子。マルコは冷や汗を流し、その場に平伏した。
「こ、これは失礼いたしました! 公爵閣下に、第二王子殿下……! ですが、聖女様の技術はもはや国宝級。正しく流通させなければ、偽物が出回り、かえって聖女様の名誉を傷つけることになりかねませんぞ!」
マルコの必死の弁明に、紬はふと手を止めた。 確かに、勝手に「安眠聖女のハーブ」と銘打ったバッタもんが出回るのは、プロとして許しがたい。粗悪な模倣品が流通し、人々の健康を損なうことは、セラピストとしてのプライドが許さなかった。
「……分かったわ。マルコ、条件があるわよ」
紬はハサミを置き、冷徹な取引モードに入った。かつて数々の難解な契約書を精査し、自社の利益(と有給休暇)を守り抜いてきた「鉄の事務能力」が、異世界の商人を圧倒する。
「販売は認める。ただし、完全受注生産。庭の生態系を壊さない範囲でのみ出荷するわ。それから、売上の半分は『フェルゼン領の安眠環境整備』、つまり静かな街作りのための基金に回すこと。そして一番大事なこと――私の名前を大々的に出すのは禁止。あくまで『北の地の匿名ブランド』として扱いなさい」
「……っ! さすがは聖女様、商売の肝を心得ていらっしゃる。その条件、呑もう!」
マルコは紬の「隠居を守りつつ利益を最大化する」という絶妙な契約に舌を巻き、契約書にサインを交わした。 アルベルトは不服そうだったが、紬が
「これで変な客が直接ここに来るのを防げるわよ」
と囁くと、
「……ならば、認めよう」
とあっさり引き下がった。
紬は、去っていく商隊を見送りながら、深く溜息をついた。
「(これでまた、隠居のための『防壁』が一段厚くなったわね……。……さて、仕事の後は、新種のハーブティーで昼寝に限るわ)」
紬は自らの「安眠」という城を守るために、ついに大陸の経済さえも影から動かし始めたのである。




