第一話 安眠庭園の開拓
先日、エドワードの召喚に応じて神殿に乗り込み、あの傲慢な第一王子をよだれを垂らして爆睡させてからというもの、フェルゼン領の領民たちからの熱烈な視線は以前にも増していた。今や彼女は、公爵の呪いを鎮めただけでなく、王家の横暴すら黙らせた『安眠の聖女』。もはや隠居どころか、街を歩けばモーセのように道が開く始末だ。
「……やりづらい。視線が刺さって交感神経が休まらないわ」
紬は、サロンの裏手に広がる荒れ果てた北向きの斜面を見つめ、土を蹴った。 王都の神殿から帰還した際に請求した、エドワードからの「利子」代わりの迷惑料。そして公爵や騎士団、果てはエレノアの実家であるロザリオ家からも、感謝(という名の口止め料に近い寄付)が届いている。 資金は潤沢にある。彼女が決意したのは、安眠のための自給自足システム――**安眠庭園**の構築だった。
「いい、みんな。安眠は一日にして成らずよ。質の良い眠りには、新鮮なハーブを育てるための『適度な肉体労働』と、土に触れることで負のエネルギーを逃がす『アーシング』が必要なの。要するに、全員で開墾するわよ」
紬の召集命令に、最強の面々が揃った。 アルベルトは無言で上着を脱ぎ捨て、騎士服の袖をまくり上げた。その腕に浮かび上がる筋肉の筋を見たエレノアが
「あぁ、公爵様の野性味あふれるお姿……っ!」
と卒倒しかけているが、紬は構わず巨大な鍬をアルベルトに手渡した。
「アルベルト様、その余ってる大胸筋を開墾という名のデトックスに使いなさい。この斜面は石が多いから、まずはその怪力で全部掘り起こして。シリル様は、王都のセンスでゾーニングを担当して。ただの畑じゃなくて、歩くだけで視覚的に癒やされる『ヒーリング・ガーデン』にするのがノルマよ」
「僕に任せて。紬が裸足で歩いても痛くないような、完璧な小径を作ってみせるよ。……ねえ、できたらご褒美に膝枕してくれる?」
「完成度次第ね。はい、やって」
事務的にあしらわれたシリルが、高級な香水を撒き散らしながら設計図を引き始め、アルベルトは無言で大地を穿ち始めた。ドォン、ドォンと大地を揺らすその振動は、もはや農作業というより土木工事だ。公爵がその比類なき膂力で岩石を粉砕するたび、紬は「あぁ、これで地盤の排水性が高まるわ」と冷徹な現場監督の視線で頷いた。
紬自身は、現代の農業知識をフル活用していた。
「この世界の薬草学は、魔力に頼りすぎて土壌の栄養を軽視してるのよね。……カイル、悪いけど近隣の農家から『完熟させた堆肥』と『苦土石灰(に近い鉱石)』をありったけ集めてきて」
「……御意。王国の隠密騎士が、肥溜めの管理まで任されるとは。歴史の裏側も泥にまみれていますね」
天井から降り立ったカイルが苦笑しながら消えていく。 数時間後、三人の努力(と筋肉)によって、荒地は劇的な変化を遂げた。アルベルトが掘り起こした土に、カイルが運んできた肥料が混ぜ込まれ、シリルが計算し尽くした曲線美を持つ小道が形作られていく。
「エレノア、最後はあんたの番よ。この苗を植えなさい。指先の繊細なタッチで、根を傷つけないように。……お嬢様育ちのあんたが土を愛せれば、その心のトゲも取れて、もっと深く眠れるようになるわ」
「紬様……! わたくし、やりますわ! 爪が折れても、泥が縦ロールに跳ねても、安眠のため、そして美肌のために!」
エレノアは涙ぐみながら、一心不乱にラベンダーやカモミールの苗を土に下ろしていく。土に触れる感覚は、かつて彼女を縛っていた「淑女の規範」という名の窮屈な鎧を少しずつ脱ぎ捨てさせていった。
夕暮れ時。 かつての荒地は、ふかふかの土が香る、生命力に満ちたテラス状の庭園へと姿を変えていた。 作業を終えた一同は、泥だらけの姿で斜面に腰を下ろした。 アルベルトは心地よい疲労感に肩の力を抜き、シリルは自分の傑作である庭を眺めて満足げに微笑み、エレノアは泥だらけの手を見つめて達成感に浸っている。
「……ふぅ。これで数ヶ月後には、市販の乾燥ハーブとは比較にならない『鮮度100%の休息』が手に入るわ」
紬は、自分の頬に飛んだ泥をアルベルトが指でそっと拭うのを、拒まずに受け入れた。 土を耕し、汗を流す。そんな原始的な営みが、これほどまでに心を穏やかにするとは。かつてキーボードを叩き続け、数字だけを追いかけていた頃には想像もできなかった充実感が、今の彼女にはあった。
(……賑やかすぎて、当初の『隠居』とは程遠いけど。……まぁ、こういう『疲れ』なら、悪くないわね)
安眠聖女の庭が、彼女自身の心とともに、北の冷たい大地にしっかりと根を張り始めていた。




