第二話 エレノアの「弟子入り」と恋の火種
朝の「猛獣鎮圧」が一段落したサロンへ、もう一人の嵐が、香水の匂いを翻して飛び込んできた。
「紬様! 聞いてくださいませ! 教えていただいた『朝の白湯美容法』、たった一晩で肌のツヤが違いますわ! 今朝の化粧ノリ、まるで真珠のようですの。わたくし、感動いたしました!」
縦ロールの金髪を弾ませて現れたのは、エレノア令嬢である。彼女は紬を「アルベルトをたぶらかす泥棒猫」として排除するのを物理的に諦めたらしい。今の彼女にとって紬は、最前線の「美容と安眠の師匠」として崇拝の対象に切り替わっていた。
エレノアはキラキラとした目で、侍女に持たせたバスケットいっぱいの高級な薬草(の束)を差し出した。
「見てくださいませ、この最高級のセージ! わたくしの領地で特別に育てさせたものですの。これでアルベルト様の寝室を清めれば、死神の呪いも消えて完璧ですわよね?」
「エレノア、気持ちはわかるけどセージは浄化にはいいけど、寝る直前は神経を覚醒させる作用があるわ。……それより、あんた。アルベルト様のこと、本当に好きなの?」
紬の不意打ちの問いに、エレノアは一瞬鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしたが、すぐに頬を林檎のように染め、ふんっと胸を張った。
「当然ですわ! アルベルト様は、わたくしのような高貴で、美しく、家格も釣り合う女性にこそふさわしい……っ。……でも、認めざるを得ませんわ。最近の彼は、わたくしが十年来見てきた中でも一度も見たことがないような、毒気の抜けた『穏やかな顔』をしていますもの。……それを引き出したのが、あなただってことは、このエレノア認めますわ!」
潔く、そして真っ直ぐなエレノアの言葉。 だが、その言葉を聞いた瞬間、紬の胸の奥が、小さな針で突かれたようにちくりと痛んだ。前世で、どれほど完璧なプレゼンを終えても感じることのなかった、胸が締め付けられるような違和感。
(穏やかな顔……。私、彼にとって、ただの『便利な快眠道具』になってないかな? それとも、ただの仕事上の付き合いとしての信頼……?)
アルベルトの深い孤独を癒やしたいと思う気持ちが、いつの間にか「プロのセラピストとしての使命感」の境界線を越え、コントロールの効かない熱を持ち始めていることに、紬自身も気づき始めていた。かつて睡眠を削ってまで守り抜いた「納期」よりも、ずっと重く、避けがたい熱。
「……紬? 急に黙って、どうしたんだ。手が止まっているぞ」
施術台でうつ伏せになっていたアルベルトが、紬の気配の変化を敏感に察知して、不安そうに顔を上げた。 振り返ったその銀色の瞳には、かつて世界を拒絶していた冷徹さは微塵もない。そこにあるのは、ただ一人の女性の反応に一喜一憂する、一人の男の切実な光だった。
「……いえ、なんでもありません。考え事をしていただけです」
紬は自分の動揺を隠すように、努めて事務的なトーンで告げた。
「さあ、仕上げに『頭皮の揉みほぐし』をしますね。シリル様も、アルベルト様も、エレノア様が見てますよ。……今日だけは、子供みたいな喧嘩はなしです」
「エレノアの前で無様な真似はせん。……頼む、紬」
「僕もいい子にしてるよ。だから、たっぷり時間をかけて、僕をトロトロにしてね?」
紬の柔らかい指先が、二人の頭を包み込むように捉える。 エレノアが隣で見守る中、サロンには束の間の、そして言葉にできないほど甘く、重たい熱を持った沈黙が流れた。
紬は、自分の指先から伝わってくる彼らの拍動を感じながら、願わずにはいられなかった。
(……この静寂が、いつか「仕事」じゃなくなっても、私はここにいていいのかな)
安眠を司る聖女の心は、今や誰よりも激しく、寝付けないほどの恋の予感に揺さぶられていた。




