第一話 専門的アプローチ:『感情的興奮による不眠』への処方
フェルゼン領の朝は、本来なら静謐な森の香りに包まれているはずだった。しかし、紬がリビングの扉を開けた瞬間、そこに漂っていたのは、剣を交える寸前のピリついた空気――火花散る「殺気」の臭いだった。
「紬、今日の朝食は僕が取り寄せた最高級の蜂蜜を――」
「シリル、下がれ。彼女の胃腸は今、私の領地で獲れた新鮮な果実を求めている」
ダイニングテーブルを挟んで、朝から睨み合う二人の美形。アルベルトは不眠が解消されたことでかえって威圧感が増し、シリルは持ち前の執着心に拍車がかかっている。 紬は無言でコーヒーを飲み干すと、事務的な手つきで二人の腕を掴んだ。
「はい、二人ともそこに並んで座って。……今日はお互いに殺気を放ちすぎて、部屋の湿度が上がってるわ。これじゃ安眠どころか、生活環境として最悪。特別に、二人まとめて『ペア・リラクゼーション』を施してあげるわ」
紬が施術台の横で用意したのは、爽やかな『グレープフルーツとペパーミントのブレンド精油』。鼻腔を抜ける鋭い清涼感が、部屋に充満していたドロドロとした独占欲の熱を、物理的に冷却していく。前世で、徹夜明けの会議室に立ち込めていた
「苛立ちと加齢臭の混じった不快な熱気」を思い出し、紬は迷いなく精油をディフューザーに滴らせた。
「シリル様は『高揚しすぎた神経』を鎮めて、脳内の妄想を一度リセットするために。アルベルト様は『凝り固まった執着……じゃなくて、思考の停滞』を解くために。今から首筋のリンパを流します。……いい? 舌を噛まないようにね」
紬の両手が、二人の首筋に同時に置かれた。 右手に感じるのは、騎士として鍛え上げられたアルベルトの逞しく熱い体温。左手に感じるのは、優雅な生活を送りながらも意外に芯の強いシリルの少し高い体温。
「っ……紬、君の手は……どうして、触れられるだけでこれほど心音が凪いでいくんだ……。まるで、荒れ狂う嵐の夜に、突然静かな港を見つけたような……」
「ああ……本当に、指先が魔法のようだ。……アルベルト、ずるいぞ。君は毎日こんな天国にいたのか。これは不公平を通り越して、もはや重大な王規違反だよ……」
「…………喋るな。集中させてくれ」
アルベルトは深く目を閉じ、紬の指の絶妙な圧に身を委ねようとするが、隣で幸せそうに身悶えしているシリルの存在が気になって仕方がない。彼の肩が微かに強張るのを感じ取り、紬はアルベルトの耳元へ顔を寄せ、吐息が届く距離でそっと囁いた。
「アルベルト様。力を抜いて。……大丈夫、私はどこにも行きませんから。まずは自分の呼吸だけを数えて」
「っ……!」
その瞬間、アルベルトの耳たぶが、精油の刺激ではなく羞恥と動揺で真っ赤に染まった。 それを見たシリルが、今にも身を乗り出しそうな勢いで
「僕には、僕には囁いてくれないのかい!?」
と捨てられた子犬のように甘えてくるが、紬はシリルの首の付け根にあるツボを、笑顔のまま「ぐいっ」と容赦なく強く押し込んだ。
「はい、王子様は静かにして。血管に血流が戻る音でも聞いてなさい」
「あがっ……!? 紬、扱いが、扱いが雑……でも、それも……いい……!」
「(……この王子、本当にチョロいわね)」
紬は呆れつつも、二人の首筋からリンパを鎖骨へと流していく。 火花を散らしていた二人の気配は、次第に穏やかな凪へと変わっていく。紬は、自分の両手に重なる二人の拍動が、一定のリズムで重なり合うのを確認した。
「よし、そのまま一分間キープ。……ふぅ、ようやく私の朝食がゆっくり食べられそうだわ」
安眠を司る聖女の朝は、こうして「猛獣たちの強制鎮圧」から始まるのが、今やこの屋敷の日常となっていた。




