第五話 そして、本当の二度寝へ
目が覚めると、視界には柔らかな琥珀色の光が満ちていた。 それは「日差し」という名の暴力ではなく、エレノアが厳選した最高級の薄絹越しに届く、優しく加工された午後の光。そして、耳に届くのは、かつての「脳を削るような喧騒」ではなく、遠くで聞こえる規則正しい訓練の掛け声と、穏やかな風の音だけだった。
「……起きたか」
頭上から降ってきたのは、低く、しかし驚くほど角の取れたアルベルトの声だ。 紬が視線を上げると、そこには書類を片手に、紬の頭を自分の膝に乗せたまま静かに微笑む公爵の姿があった。
「アルベルト様。……あんた、また私の枕代わりになってる。仕事はどうしたのよ」
「安心しろ。騎士団は今や『効率的な休息』を最優先する組織に生まれ変わった。グスタフも今頃、部下と共に一時間の昼寝を貪っているだろう。……そして私も、本日の業務はすべて『定時』で終わらせた」
アルベルトは、紬の髪をそっと撫でた。かつて死神と恐れられた彼の魔力は、今や紬の家を温める穏やかな陽だまりのようだ。
外に出れば、そこには新しい日常があった。 エレノアは、紬から学んだ「メンタルケア」を社交界で広め、無理な虚飾を捨てた自然体の美しさで、令嬢たちの新たなカリスマとなっていた。カイルは、紬の安眠を守るための「消音結界」の技術を応用し、領内の病院や療養所に静寂を届ける聖騎士のような役割を担い始めている。
紬が求めた「安眠」は、知らず知らずのうちに、この呪われた北の地を「世界で最も健やかな領地」へと作り変えていたのだ。
「……ふぅ。みんな、ようやく私のマネジメントなしで回るようになったみたいね」
紬は、アルベルトの膝の上で大きく伸びをした。 前世では、自分が休めば世界が止まると信じていた。自分が倒れるまで働かなければ、誰にも認められないと思っていた。
だが、今は違う。 自分が健やかに眠ることで、救われる誰かがいる。自分が自分を大切にすることが、この重すぎる執着を持つ男にとっての、最大の報酬なのだ。
「アルベルト様。……今日の夕飯、あのカブのスープ、もう一度作ってくれる?」
「ああ。お前が望むなら、一生分でも作ろう」
「……一生分は、ちょっと納期が長すぎるわね。……とりあえず、今はこのまま、あと一時間だけ。……二度寝に付き合って」
「……御意」
紬は再び目を閉じ、アルベルトの腕の中に潜り込んだ。 そこにはもう、締切も、ノルマも、上司の怒鳴り声もない。あるのは、最高級の羽毛布団の感触と、自分を世界で一番大切に思う男の心音だけ。
安眠を求めて異世界にやってきた元社畜の「本当の有給休暇」は、まだ始まったばかりだ。




