第二話 公爵の「公務拒否」と引きこもり
騎士団が「健康第一」を掲げて定時退社を決め込む中、フェルゼン領の最高意思決定機関である公爵邸の執務室でも、また別の「機能不全」が起きていた。
「……閣下。隣領との通商条約、および街道の魔物討伐に関する最終決裁をお願いします」
カイルが恭しく差し出した書類の山に対し、豪華な椅子に深く沈み込んだアルベルトは、ピクリとも動かなかった。その瞳は、かつてのような狂気こそ宿っていないものの、どこか虚空を見つめるように虚ろである。
「……断る」
「……はい?」
「紬が……来ない。今日は、彼女が騎士団本部に出向する日だと言っていた。……なぜだ。なぜ私は、彼女の指先による『強制終了』なしに、この膨大な文字の羅列を処理せねばならんのだ」
アルベルトは、机の上に積み上げられた書類を、まるで「有害なゴミ」でも見るような目で睨みつけた。
「彼女の施術を受け、あの深い静寂を知る前の私は、どうやってこの激務をこなしていたのか……思い出せん。いや、思い出したくもない。彼女がいない空間での思考は、砂を噛むような苦行だ。……脳が、拒否している」
「閣下、それは単なる『甘え』……いえ、依存症の初期症状かと思われます」
カイルの冷静な指摘も、今のアルベルトには届かない。アルベルトは執務室の窓を閉め切り、カーテンをこれでもかと引き絞ると、紬に教わった「精神安定の呼吸法」を必死に繰り返し始めた。
「……今日はもう働かん。紬が私のために調合した、あの『サンダルウッドの残り香』が染み付いたこの椅子から動くつもりはない。……すべての会議をキャンセルしろ。理由は『脳のメンテナンス中』だ」
「公爵閣下が引きこもられたとあっては、領政が停滞します! 閣下、正気に戻ってください!」
「うるさい。……紬がいない世界は、私にとって『未修正のバグ』だらけの欠陥品だ」
カイルは深く溜息をつき、隠密のネットワークを稼働させた。 「緊急事態だ。……紬様に連絡を。閣下の脳が、彼女の指先を求めて『暴走』の再演を始めた、と」
その頃、当の紬は騎士団の仮眠室で、要望のあった「快眠ストレッチ」の指導を終え、ようやく自分の休憩時間を確保していた。
「(……ん、なんか遠くで公爵様の重苦しい魔力が渦巻いてる気がするわね。……まぁ、あの人も大人なんだし、一晩くらい自力で寝る努力くらいするでしょ。……さて、この特注アイマスクの遮光性を試すとしますか……)」
紬が「部下の自立」を願ってアイマスクを装着した瞬間、領主館の屋根の上からカイルが必死の形相で「紬様ぁぁぁ! 閣下が機能停止しましたぁぁぁ!」と叫びながら飛来する。
安眠を求めたはずの有給休暇は、主君の「重すぎる依存」によって、再び強制的な「メンタルケア・オーバータイム(残業)」へと引きずり戻されようとしていた。
カイルに担ぎ込まれるようにして公爵邸へ連行された紬は、執務室で「紬がいないと脳がバグる」と虚空を見つめていたアルベルトの背後に、無言で忍び寄った。
「……紬? ああ、やはり私の幻覚では……」
「幻覚見てる暇があったら、とっとと寝なさい。このデカい赤ちゃん!」
紬の鋭い一喝と共に、迷いのない指先がアルベルトの首筋——延髄付近の急所を的確に捉えた。 「が、は……っ」 数秒前まで「領政の停滞」という名のデスマーチを脳内で奏でていたアルベルトは、一瞬で電源を切られた魔導具のように、机の上に突っ伏して沈没した。
「ふぅ……。カイルくん、この人、起きたら『明日から一週間、毎日20分は日光を浴びて歩け』って伝えて。完全にセロトニン不足よ」
そう言い捨てて自宅の「安眠の城」に帰還した紬だったが、翌朝、彼女を待っていたのはさらなる「業務」の嵐だった。




