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ホワイトスカイ  作者: 笹霜
序章
5/30

5.神社

三郷温泉神社は、この三郷温泉郷の鎮守であって、その歴史を象徴するような社である。


旅好きには名湯として知られる三郷温泉。かつて平家の落人の一派が見つけ住み着いたのがはじまりという。平家の落人の末裔を自称する温泉地は多いが、ここは数少ない、それを真とする土地であって、遺品の多くも数多く残っている―――という。


神社は温泉郷の端の山の手から登っていける、一段と高まったところである。


雪化粧を施した杉木立の手前に、真っ赤な明神鳥居が聳え立っていて、石段の位置を知らせていた。


霧夜は黒いコートにスケッチブックを抱えた軽装であった。足を包むワークブーツをお供に軽やかに石段を登ってゆくが、霧夜はその石段が綺麗に清掃されていることにも気づいていた。


雪かきもしっかりと行き届いている。


やはり瀕死とはいえ―――この温泉郷の最後の砦のような箇所でもあるのだろう。


この長い石段を除雪するのも億劫だろうにと思いつつ、杉木立の中を登ること十分ほど、一際高い高台に二の鳥居と、それの奥に神社があった。


数百坪はあるであろう、広壮な神社であった。


灰色の瓦葺の神社は奥にも横に広い。右の脇殿、左の神楽殿、そして奥にさらに上がったところに本殿の屋根もちらりと見えた。


拝殿の扉も開け放たれ、石畳の参道は人が二人くらい並んでもなお十分な広さを保っている。境内のあちこちに作られた雪山は、人一人の労働で出来る除雪量ではないだろう。


霧夜はふと来た時のことを思いだした。


駅から続いてきた山道のことである。


あそこも全く歩くのに支障がない除雪であった。それは果たして、誰のための除雪だったのだろうか。


ここの神社も。


もう、すぐに消えうせるであろうのに。


朝の青空に、鳥の囀りが木霊する。境内の参道で振り返ると、二の鳥居の先から、温泉郷の建物の屋根が微かに見えた。青空と、その下で白銀の尾根の山襞が重なり合って左右に広がっているのが見て取れた。


少し、足を止めて、時が過ぎたのだろうか。何分足を止めて、温泉郷を見下ろして、地平を覆う白銀の山を見つめていたのか―――それは霧夜自身にも分からなかった。ただ、色々とめぐる考えを全て忘れて、その景色だけを眺めて、少し時が過ぎたのだと思う。


不意の足音に振り向いた。


白い雪景色の中に、緋色の馬乗り袴も鮮やかな巫女さんが一人、スノーダンプを押して、少し驚いたような顔をしていたのであった。


霧夜が目を走らせれば境内には大きな社務所もあって―――ここの巫女さんであることは知れたことであった。


年の頃は調度柚希と同じくらいか。艶やかな黒髪の少女である。


「あ、おはようございます。―――もしかして…」


「おはようございます。…もしかして?」


少女が挨拶と共に言いさした言葉。少し可笑しかったが霧夜は真面目に挨拶を返した。雪交じりの朝の風に、霧夜のロングコートとマフラーが黒くはためいた。


「音無さんでいらっしゃいますか?」


「白神荘の方から?」


「はい、お伺いしております。あそこの柚希さんは、私の一個上で」


微笑んでくれる少女は、果たしてそんな塩梅であった。


巫女さんは慇懃にお辞儀をしてから名乗ってくれる。


「申し遅れました。白妙真冬(しろたえまふゆ)と申します」


「音無霧夜です。…少しの間、御厄介になると思いますが」


「はい。ゆっくりしていってください。―――余り、時間の残された場所ではありませんが」


冷静だが、情念の滲んだ言葉。その寂しげな微笑みが、舞雪のものと重なった。霧夜はただ、微かに瞑目して頷き、同意を示したつもりであった。


境内を真っすぐ歩いて、拝殿の前へ。灯篭の灯、提灯の灯―――そのいずれもが点灯しているのは、恐らく、ここが最後だからだろう。霧夜は何となくそれを思う。


後ろから真冬の声がした。


「音無さんは、ここの温泉郷の事情を?」


「二か月の後には、全員退去だと」


「そうです。この冬が、最後です」


透明な口調であった。感情を殺しているのだろうとすぐに知れたが、微かにそこに震えがあった。霧夜は何も言わなかった。


拝殿の奥の薄闇に、覚えのある気配がある。―――昨日、階段室で感じたばかりの、濃密な神の気配。神気としか形容の出来ないその気配。


そこに舞雪がいることは、見えなくても知れていることであった。


「音無さんは、ジャーナリスト等の方ではなくて、ですか…?」


「ジャーナリスト?どうして?」


「…そういう取材をされる方が、一時期…最近まで多くいらっしゃいましたから」


他、エッセイストや、政治家崩れなどもいたという。


霧夜は思う。


ダムの沈む温泉郷―――そこに纏わる諸々があったのだろう。だが真冬の顔はどこか物憂げだ。―――余りそういう話題を好んでいる気配とは見えなかった。


だから霧夜は、逆に巫女に問いかけた。


「…白妙さんは、ダムに沈むのに賛成という訳ではないのでしょう?」


「無論それはそうなのですが…」


「―――故郷を喪う悲劇のヒロイン扱いされるのも、また心外といったところであろ?」


不意の声がした。霧夜も真冬も瞳を向ける。賽銭箱の前に一つの見知った姿があって、どこか悪戯っぽい表情を二人に向けていたのであった。


白い紬に空色の帯。清冽な碧の瞳の少女である。


いつの間に現れたのか―――霧夜には最初から居たことが分かっているが、真冬はちょっとばかり驚いたような表情であった。


「散々うんざりといった顔じゃな?真冬」


だがそう話しかけられて、真冬の方も同意の頷き。小さな溜息。


「舞雪さんは御存じだったんですね」


「柚希に、ああいう会社が出した雑誌とかを差し入れられたものでな。目を通したが、まあ、言いたいようやりたいようにやられておるのう」


舞雪は複雑な表情であった。


「こういう土地柄じゃ。やりたいよう外には色々やられたり、言いふらされたりでの」


「…ここが、静かなまま、ずっと残っていて欲しかったのです」


「分かっておるよ」


舞雪は頷いた。その返事が二重の意味であることを悟ったのは霧夜だけであった。


舞雪は日光下駄も軽やかな足取りで、どこか踊るようにステップを踏んだ。その袖が境内に翻る。


「しかしかのような者達もいなくなった。―――霧夜もただ絵を描きにきただけじゃ」


「絵を?」


真冬の言葉。だがその視線がすぐ霧夜が小脇にしたスケッチブックに移って、表情が納得のものになった。霧夜としては、方便にせよ―――舞雪自身には信じられていないにせよ、助かる言い訳であった。


「画家さんなんですか?」


「…アマチュアもいいところですがね」


「もしも、この景色を描かれましたら―――きっと、雪御前様も、お喜びになると思います」


その言葉。霧夜は舞雪を見た。舞雪は苦笑していた。雪御前―――そう自分で名乗った神が、今そこにいる。


だが舞雪は答えず、悪戯っぽい瞳で、


「雪御前の名くらい霧夜に教えてはどうなのかや?真冬?」


「あ!失礼しました…」


「ここの神様の名だと」


「そうです、その通りです」


真冬は頷いた。胸に手を当てて、説明を始めてくれる。


「雪御前様は、ここの神様です。―――この三郷温泉が、平家の落人により開湯され始められたのは、音無さんは御存じでしょうか?」


「一応は」


「雪御前様は、壇之浦で敗れて落ち延びてきた平家の御姫様だったと伝えられております」



―――武勇に優れていた姫だったという。



「若くしてお亡くなりになられましたが、里人や武者を励まして、山奥であるここを切り拓かれ、郷をお作りになられました。そのご遺徳を偲んで、その魂をお祀りするために、ここが創建され、八百年以上になるのです」


「…」


霧夜はただ黙って再び舞雪を見たが、舞雪はそっぽを向いて涼しげな顔であった。口笛でも吹きだしそうである。


が、その少女っぽい顔とは裏腹に―――先日のあの切なそうな表情を見ると、やはりその威徳も本当なのかもしれないと、そう思うには十分であった。


真冬は拝殿の奥を見つめた。


「雪御前様は、長らくここを見守ってくれています。特に、お亡くなりになられる時は、奇跡を起こされたとか」


「奇跡?」


「今年の冬はそれほどでもありませんが、ここは山奥ですから、雪も多く積もります」


しかし、亡くなる時に―――



「わらわの荼毘(だび)の煙と共に、今在る雪の(ことごと)くが消えよう」



そう言い残し、実際荼毘の煙が天空に昇ると共に、多くの雪が光り輝き、まるで蛍火のように、天に昇るようにして消えてしまったという。


雪かきに追われ、それに苦しむ里人達は、それ以来その奇跡に心打たれ、姫の威徳を慕い、社を作った―――


そのような顛末があったと、いう。


「逆さ雪と呼ばれておりますが、―――武道の姫と同時に、雪かきの守護の神でもあると」


「なるほど…」


「でも、先日、父が雪下ろしの時、屋根から転落してしまったんですけどね」


そこで真冬は複雑な表情である。霧夜が「大丈夫だったんですか」と問えば、真冬は頷いて、


「あと一か月は療養だそうで、少し遠くの病院です。母も付き添いでそちらに行ってしまって…。それからは、村の人の助けもあって、まだ何とか雪かきは出来ているんですけど―――」


だいぶ苦しくはなってきました、と真冬。白い息が漏れて空に消える。


「―――お手伝いしましょうか」


「え?でも、音無さん?お客さんに雪かきなんてさせる訳には」


「これでも、雪国出身なので」


―――実はこれは真実であって、霧夜は雪かきには慣れていた。要領も分かる。何故義理もないのにそんなことを言いだしてしまったのかは霧夜は自分自身でも分からなかった。単なる多分お節介というか―――所詮は感傷なのだろうと思いつつ、それでもこの切なさそうな雰囲気を、どうにも放っておけなかった―――お人よしでバカな部分があるのだと思う。


こんなことをするために、ここに来た訳じゃないのに。


何をしているのだと、心の中で何かが叫ぶ。


「…ありがとうございます。少し人手が減ってきて、正直ピンチのところでした」


「雪が降ったら、お伺いすればよろしいのですね」


「はい、その時は、御手隙でしたら」


「(すまぬの、迷惑をかける)」


最後のその少女の言葉は、霧夜以外に届かぬ念話(テレパシー)であった。祈るような言葉であった。陰った舞雪の碧の瞳が、物憂げであって、しかしどこか嬉しそうにも見えて、霧夜の心の中のどこかを刺激した。


どこかいたたまれなくなって、「今からでも除雪しましょうか」と言い出したのは霧夜だった。真冬が「助かります」と言ってくれたものだから、早速社務所の屋根の雪下ろしとなる。


スケッチブックだけを拝殿の軒先に置いて、霧夜は社務所の屋根に上がる。


一段と景色が美しくなり、青い空が広くなった。鳥居と肩を並べるような視点から、温泉郷を包み込むような山並みを眺め、そこからの白銀の風を吸い込んで、霧夜はスコップを投げ捨てた。


まともに除雪をする気はなかった。霧夜がいつの間にか手に握っていたのは刀である。黒漆の輝きも鮮やかなその鞘から、霧夜は刃を抜きはらった。


朝風を浴びて、小さな旋風が刀に纏わりついた。音無霧夜の霊気。異能者としての力であった。


刀の先端を積もった雪に突き刺した。丹田に溜め込んだ霊気―――それを刀を媒介として、雪に一気に流し込む。瞬間、屋根一面を覆っていた雪の全てにひび割れが入り、音も立てずに雪が弾け飛んだ。


鮮やかな白い爆発であった。雪塵がダイヤモンドダストのように屋根から空に舞い上がり、普通なら粉雪となって落下するところ、無数の氷晶となって空中に消えうせていったのである。


美しい景色であったが、霧夜にとっては造作もない除雪であった。


この程度のことであれば―――この音無霧夜にとっては、造作もない。


「ほう」と感嘆の声が聞こえた。すぐ背後の、剥き出しになった瓦屋根の上に、白い姿が現れていた。


「霧夜、やはり只者ではないの」


「土地神様であれば、この程度易いでしょう」


「たわけ。自らの社の除雪をする神がどこにいるか。―――それは神と呼ばれる者ではないぞ」


霧夜の答えを微妙にはぐらかして神様は笑った。ちなみに神の力を振るえば除雪程度、訳はない―――しかし、それをすることは一切ない。自らが働くことはない。人が奉仕する者、それが神であると舞雪は言っているまでであった。


しかし、その碧の瞳が向く先は、霧夜の手に持つ刀の輝きであった。


「しかしそれは、良い刀じゃな?」


「俺の刀ですよ」


「いや…気になることがあっての」


「気になること?」


舞雪はまじまじと霧夜の刀を見つめた。午前の光を浴びて、煌めきも鮮やかな、愚直な一本の日本刀である。それを上から下まで眺め渡し、


「…」


舞雪もいつの間にか、右手に一本の刀を持っていた。こちらは赤い鞘であったが、それが抜かれるに及び、霧夜は少し驚いた。


―――驚くほど、自らの愛刀に似ていたからである。


その刀特有の霊気も、纏う雰囲気も、無論形状も、その刃紋まで含めて全て似ていた―――瓜二つといってよかった。


舞雪が目を光らせた。


「おぬしの刀、『音無』じゃな?」


「御存じなのですか?」


「わらわの師匠が打ち鍛えた刀、その最高傑作のうちの一本じゃ」


舞雪は目を輝かせていた。


「わらわの刀『寂静』とは兄弟刀になる。同じ時に作られたものは三本あるが、うち二本がここで再会するとは、奇縁とはあるものよ…冬桜(ふゆざくら)にあると思うておったが」


だがそこに唐突に、自らの生まれ故郷の名が出たので、霧夜は驚きを呑み込んだ。


冬桜とは、この音無霧夜の生まれ育ちの地の名前であり、そして―――


「なるほど、生まれ育ちが雪国と先ほど聞いたが、冬桜から来たとなれば納得じゃな?」


「…」


「ま、ようよう口を割らせることはせぬよ、不快であろうしな」


舞雪は詮索しすぎたと思ったらしい。少し気まずげな笑いだった。霧夜は答えなかった。余り過去を詮索されるのは―――正直好きではなかった。


だが―――と霧夜は自分の刀を見つめて思う。



『音無』。



素性を偽る時、この刀があったからこそ、この自分の苗字もそうした。先祖累代我が家に伝わってきた稀代の名刀である―――というのは父の触れ込みであったが、それは確かにそうであって、いくら何をも斬ろうとも、刃こぼれ一つしたことはなかった。―――この自分に酷使されて尚、錆び一つ浮かせず、刃こぼれ一つせずに、ずっと自らの手の中にあって、使われ続けてきた。霧夜にとって最早腕の一本といっていい程の刀だった。


それの兄弟が、こんなところにあるなんて。


そして、それを鍛えた人物を、舞雪は知っているという。


それが気にならないといえば、それは嘘になったが―――今ではない気がした。


舞雪は刀を丁寧に鞘に納めると、それからスケッチブックを渡してきた。


「ほれ。…こちらは見せて貰うたぞ?どれも良い絵ではないかや」


「勝手に見ないでくださいよ」


「おぬし自身が社の軒先に置いたのじゃ、神たるわらわが見る権利はあろう」


しかしこちらに関しては舞雪は譲る気はないらしい。悪戯っぽい笑みであるし、実際霧夜がそれほど嫌そうな雰囲気でもないのでからかう素振りであった。


だがその顔は真顔になる。


「真冬の言うたこと、間違いではないぞ」


「真冬が言ったこと?」


「あの子は言うたではないか。―――絵の一つでも奉納されれば、ここの神は喜ぶとな」


間があった。霧夜はマフラーの中で静かに目を瞬かせた。舞雪の碧の視線と、その静かな静寂が絡み合って、祈るような間がそこに在った。


「ま、おぬしがそうしたければ、そうすれば良い。歓迎するぞ」


「その時が来れば、その時は」


「うむ」


舞雪はそれから上機嫌な風であった。霧夜は少し気になっていたことを聞くことにした。


「そういえば、舞雪様は、俺より少し前からここに逗留ということになっているのですか」


「様付けはせんでよい」


だがそこで区切るような言葉の一言は、存外に強い口調で、かつ寂しそうであった。雪の嶺の彼方、青空を見つめたままの神様の表情は、寂寥感に満ちていた。


「敬語でなくても良い。霧夜は、わらわの最後の主賓じゃ。堂々として居て欲しいのじゃ」


「―――俺が剣呑なことを考えていたとしてもですか」


「無論じゃ」


振り返る神様の口調は、思っていたより強かった。


「それでも、霧夜には、良い思い出を―――この地で得て欲しいのじゃよ」


「…」


「そうと、逗留の件じゃったな」


霧夜の沈黙の抵抗をかわして、舞雪はそこで話題を戻した。笑顔だった。


「霧夜の言うことで正解じゃ。霧夜より数日前から白神荘に逗留するということになっていての、平舞雪(たいらのまゆき)名義での」


「平舞雪」


「わらわの紋は揚羽蝶、紛れもなく平家の姫じゃよ」


白銀の髪を靡かせて、唇に指をあてて笑う。それは真実なのだろう。あの真冬の言葉―――この神の社に祀られる、この里を開闢した張本人の魂だ。


「数日前からここに逗留することになっておる。親戚の退去の手伝いという名目でな」


「実際そういう親戚がいなければ、バレるもんじゃないですか」


「そこは幾らでも誤魔化しが利くであろ?変なとこで鈍い男じゃな」


舞雪は呆れ顔だった。―――確かにそういった簡易催眠とか咄嗟の誤魔化しをする術は裏世界に幾らでもあるが、神様も例外ではないらしい。


「そこで真冬や柚希とも交友を結んでおるぞ。まあ前々からよう知ってる子ばかりじゃがな、ここの里人は」


「―――全員舞雪様より年下でしょうからね」


「だから敬語は抜かんか。そんな様じゃ、あの子達にも怪しまれるぞ」


舞雪はジロリと睨んでくる。霧夜とにらみ合うような沈黙が降りたが―――白旗を挙げたのは霧夜だった。


「…舞雪より年下だろうからな」


「うむ、そういうことじゃ」


舞雪は傲然と胸を張ってそう答えた。


「皆、良う知っておる。それこそ産声しきりの時から―――ここの里人の最長老であろうと、ここで生まれた時より知っておるのじゃ。皆わらわから見れば赤子のようなもの」


「…」


「それだけに、このようなことになるのは、心苦しうての」


透き通るような舞雪の声。


「皆、よう愛してくれておるのにの。こうやって、最後まで真面目に雪かきをせなんでも良かろうに、どいつもこいつも馬鹿ばかりじゃ…」


「…」


「あれ?舞雪さん、音無さんも雪下ろし終わったんですかー!?」


下から不意の声。真冬の声だった。同時に鳥居のあたりにも気配があって、スコップを持ったダウンセーター姿が石段を駆けのぼってくる。


「あれ?雪下ろし終わってるの真冬ー?」


「…もしかして終わっちゃいました…?」


「お陰様で」


悠然と梯子を降りてくるのは霧夜である。息切れ一つもなく、顔色一つも変えず、涼しげな気配。舞雪も続いて降りてきては、じゃらりと玉砂利の上にステップを踏む。


柚希の唇が0の字になり、それから破顔一笑、


「わあ、流石男手!音無さん頼りになるぅ!!」


「それほどでも」


「お任せしてしまいましたが、御怪我などなくて良かったです」


ほっとした調子なのは真冬である。柚希が腰に手を当てて、


「おじさん達みんなここ数日でいなくなっちゃったから本当に心配してたんだけど、ギリギリ助かっちゃってるね」


「この調子ならいいんですけど…」


「大雪の時は真冬自身下に降りることを考えるのじゃぞ」


舞雪の真面目な言葉だったが、真冬は首を振った。


「神様を置いて自分自身降りるなど、それは出来ないことです」


「(馬鹿な子じゃ)」


心底に心苦しそうな舞雪の愛情を帯びた無念の感情は―――霧夜だけに聞こえた。霧夜は瞳を閉じただけで、何も返事はしなかった。


真冬が「お茶を淹れましたから」と言い、柚希にも背中を押されて、霧夜は社務所の中に入る空気となってしまう。


和室の客室でお茶菓子と共にもてなされて、霧夜はどこか居心地の悪さと、むず痒い雰囲気を感じていた。


こういう雰囲気は、ちょっと苦手なのである。


「音無さん、本当にありがとうございました。助かりました」


「いえ、慣れてますし…」


「音無さん、宿帳だと東京から来たことになってたけど、出身違うの?」


羊羹を切り分ける傍から呑気で人懐っこい柚希の言葉。真冬が渋い顔であった。


「敬語崩れてますよ柚希さん…」


「あ、ごめん音無さん」


「いえ、お構いなく…」


「霧夜も敬語くらい崩したらどうかの?大して年が違う訳でもあるまいに」


舞雪がニヤニヤしながら羊羹をつまんで口に放り込んでいる。そりゃあ貴女から見れば皆同じ年でしょう、という禁句は心の中で呑み込んだ。


柚希が、


「でも大学生?くらい?」


「一応稼ぎはある」


「まあそうだよね、そうじゃなくちゃ長期宿泊なんか出来ないよね」


納得したような柚希の言葉。もう敬語は完全に崩れているし、最早霧夜も割り切っている節があった。舞雪に崩していて柚希にも崩さないのも、少し違う気がしたのも、事実だった。


「一応今の仮住まいは、東京の外れだ」


「私も来年から大学生だからそっちだよ、まだ物件決めてないからそろそろなんだけどッ」


「柚希さんはもう推薦で大学が決まってるそうです」


真冬がすぐさま補足してくれる。聞けば柚希は高校3年、真冬は2年で―――それにしてはしっかりしている娘さんばかりなのは、この閉じた温泉郷故なのかも知れない。


過疎化の町だ。


幼い頃から人手として大人に混じって色々やっていたのかも知れない―――そう思うには十分だった。


「今は冬休みで?」


「私はそう。真冬は違うんだけど、ちょっと家が大変だからお休み貰ってる状態かな」


「本当は学校通うべきなんでしょうけど…」


それを押しても、神社が好きなのである―――ここを守るという義務感が強いというのは、言葉にする必要すらない。霧夜は肯定も否定もしない。学校にろくに行っていない自分が、市井の少女に何かを言える資格などはなくて、ただ玉露を口にした。鮮やかな苦みが喉を駆け下り、胃を潤して温めていくのが良く分かった。


舞雪も何も言わない。ただ優しく微笑んだまま、そのやりとりを見つめているのは、それが神様の故だからなのかも知れない。


そこで柚希が手を叩いた。


「あ、ところで」


「何があったのかや?」


「お母さん、音無さんと舞雪ちゃん以外にも泊まる人いるのすっかり忘れてたらしくて朝から大慌てだよ」


その言葉に舞雪が目を丸くする。霧夜も目を丸くした。


―――この三郷温泉郷、最後の宿の、最後の宿泊客―――そうなるように、霧夜も舞雪もそう狙って投宿したというのに、まだいるというのか。


女将の手落ちだったらしいが、それにしても、と霧夜は思う。―――自分の『計』が成るのも、本当にいつになるのであろうか。


真冬が、


「どんなお客様なのですか?」


「尼さんが、月白(つきしろ)のお寺を整理しに来るんだって。でも月白のお寺はちょっと泊まれる状態じゃないからって」


月白寺(つきしろでら)か」


舞雪の言葉。霧夜は尋ねる。


「月白寺?」


「霧夜もちらっと見たかも知れぬが、この神社の一の鳥居の道の向いに寺があっての、月白寺という」


「長いお寺なのか?」


「相当長いぞ、歴史だけならこの神社とほぼ同じじゃ」


「舞雪さんはこの三郷に本当にお詳しいんですよ」


嬉しそうなのは真冬である。自分も相当詳しそうなのだが―――恐らくそういう歴史が好きなのだろう。だからこそ神社の巫女は天職であったし、しかしそういうことを語れる知人友人は多くない中で―――舞雪が『良き友』として認知されたのは自然な流れであるように見えた。


真冬が、


「でも月白のお寺は長いこと無住でした。三郷の人達のお墓や位牌もそこにあるのですが、最近はお葬式も隣町のお寺でやってるような有様で」


「だが流石に真冬らが手を出す訳にもいかぬから、色々と手が回ったのじゃろうな」


「でしょうね。でも初耳でした」


柚希も「私も初耳だったけど、あのお寺整理してくれるならそれでいっか」と呑気である。真冬が


「柚希さんのところのお墓もあそこにあるのではないですか?」


「あったけど、うちは早いうちにお骨皆うちに引き取って、小さくまとめちゃったんだ。私が東京行ったらお母さんも来てちょっと向こうあたりで色々探そうかなって」


「なるほど…」


「真冬の家は奥津城(おくつき)じゃしな」


舞雪の言葉に、真冬は「その通りです」と首肯。霧夜の視線だけの問いかけに真冬はつらつらと答えてくれる。


「神道のお墓です。この裏山の奥にあります。…この神社はギリギリ水が浸かるか浸からないかなので、(うつ)らないとならないんですけど、うちのお墓は大丈夫なんです」


「…ギリギリだが、この三郷神社は引き払うことになるのか」


「その通りです」


真冬は頷いた。白い壁を仰ぐ。視線はその向こうに、あるはずの山を見ていた。


「山のどこかを平らにして、新しい神社を建てようという計画自体は、父が中心にしてやっているのですが、規模は…」


「…それに、誰が管理するのかという問題と、ここから離散した人が再び集えるのかという問題とがある訳か」


「その通りです」


真冬は肯定。柚希も複雑な顔だった。


「隣町に移転地は準備されてるんだけどさ…。都市部に出たいって人もいるし、うちも廃業だし、私も大学行かなきゃだし、本当は介護施設にいなきゃならないレベルのおじいちゃんも相当無理してここに留まってるから、もうなんか色々限界だよね、正直」


―――広壮な神社であるが、維持管理はもう余程無理をしているのだろう。そうと知れた。


霧夜は舞雪を伺う。悲しそうな微笑みだけがあった。


柚希も、


「だから色々とさ…。舞雪ちゃんが整理のために此処に来たのもそうだけど、お寺も整理のために人が来てくれたのは、…悲しいけど、悪いことじゃないよね」


「ただでさえ整理が行き届いていないんだろう?」


「結構ボロボロのお寺だからさ、うちに泊まるってのも無理ないよ。水道電気通ってないもんね、多分」


それは無理だ。


だから今更『忘れてました』なんてことは言えないし、感謝すべき人物であることは確かであろうと見えた。舞雪は悪戯っぽく、


「挨拶しておかねばなるまいな、特に真冬なんかは」


「そうですね。私も、何かお手伝いできることがあるかも知れませんし…それに、明治時代までは、一体だったような神社とお寺ですから」


長らくこの里を見守ってきた二つの神社と寺だ。神仏混淆、そのような時代もあったのだろう。


寺は荒れたとはいえ、それでも祭祀を司る身として、巫女たる真冬は看過できないものがあるのだろう。霧夜は何も言わなかった。ただ、柚希も、真冬も、―――その暖かい義務感の中で動いているのが、羨ましく、そして恨めしかった。


怨念に似た吐息。表情は変えない。ただ舞雪だけが察したらしい。「霧夜?」と問う声に対して、霧夜は感情を胸の奥に引っ込めた。


―――今出てきてはいけない感情だった。


この感情を吐き出すのは、この場所で、一度だけで良いはずだ。


「ごめんくださーい」と呼ぶ声がしたのは突如であった。「あッ」と声を上げて真冬が立ち上がる。


「すっかり忘れてました、すみません先生!!」


バタバタと外に駆けだしていく真冬。柚希もご機嫌そうに立ち上がった。


「あ、緋那(ひな)ちゃん先生の声じゃん」


「緋那か」


「あれ、舞雪ちゃん、緋那ちゃん先生知ってるの?」


「色々あって仲良うなったのじゃ、向こうから押しかけてきて大変だったぞ」


ニヤニヤ笑っている。柚希は「あー、緋那ちゃん先生ならやりそう」なんて笑顔である。一方で霧夜は透明な表情だった。


―――人ならざる霊気の気配を感じていたからだった。


柚希と舞雪が外に出ていったので、霧夜も自然とその後を追う。境内の白い雪景色の中に、季節外れの日傘を差して、一人の白衣の女性が傲然と笑っていた。


女医さんであるらしかった。


「ごめんよ真冬ちゃん、お父さんのお薬すっかり忘れてたわ」


「すみません、父が向こうに入院してるのに、退院した後のお薬までお気遣いして貰って」


「いいってことよ、これが仕事だからね」


手渡されるお薬は、どうやらここの宮司のものであるらしい。


緋那、と呼ばれた女医さんは―――一見して本当に少女であるが、俺より多分年上だろうと霧夜は思う。色素の薄い髪、煌めく紅眼、そしてその身体から漂わせる人外の霊気―――明らかに只者ではないと知れた。


だが霧夜だからそう判断したのであって、そうでなければ、制服を着てしまえばJKにしか見えないだろう、そんなナリである。が、白衣を翻して不敵に笑えば、それは女医さん以外の何者でもない。そう人に納得させる、不思議な雰囲気を漂わせていた。


その瞳が出てきた少女二人に向く。


「あれ、舞雪がいると思えば柚希ちゃんまで」


「やっほー緋那ちゃん先生!今日配達?」


「配達がてらここのお父さんの病状報告」


「大丈夫なんですか?」


真冬の顔。緋那と呼ばれた女医はぶんぶん顔を振って、「違うって急変とかじゃないから」と笑顔だった。


「ちょっと用事あって白妙のお父さんに会いに行ってきたの。病状は何も変わらないよ、まあ頑張って一か月療養して貰ってだね。めっちゃ本人やる気MAXだけどありゃこの石段無理だ。車も運転できないからね」


「そうですか…」


「お父さんの持病とかも向こうのお医者に引き継いでるからそこは心配せずとも大丈夫。向こうのあのお医者もヤブじゃあないから」


緋那はウインク。そしてその視線が、舞雪と柚希の背後に立つ一人の黒コートの男に向き、その視線が絡んで、そして緋那は真顔になった。


向こうも、気づいたか―――と霧夜は思う。


いくら俺が普段からこの異能者としての霊気、気配を押し殺していたとしても、ある程度の上級者や、それこそ神ともなれば隠しおおすことは難しい。そしてこの女医も、それに漏れないということだ。

だからその紅の視線が舞雪に向き、


「そちらの奥の方は舞雪の友達?」


そう聞いたのは牽制であろう。―――神様が友達といえばそれは加護対象だ。だがもしも違うなら警戒する―――そういう姿勢に他ならない。


舞雪は微笑んだ。


「ここの最後の客人じゃよ」


「最後の客?」


「白神荘の、ね」


付け足したのは柚希。「へえ」と緋那の唇が面白そうな形を作った。雪に溶けそうな白い日傘を翻し、緋那はその紅眼で霧夜を見据えた。


「三郷国保診療所所長、朱鞠内緋那(しゅまりないひな)よ。要するに僻地医療のお医者さん。急患の時は呼んでねお客さん。お名前お伺いしても?」


「音無霧夜と申します」


その言葉に、緋那の瞳が見開かれ、そして緊張と膠着があった。霧夜も初めてその時はじめて目の前の人物の素性を理解した。


朱鞠内―――その苗字には十分聞き覚えがあった。


そして向こうも、俺の名を、恐らく知っている。


こんなところで、知人ではないが、俺の名を知っている人物に出逢ってしまうとは―――いよいよ『計』も難しいが、しかし退く気も、また無かった。


緋那は笑みを作った。不敵千万である。


「ただの湯治って訳でもなさそうだけど、―――音無さん」


「絵を描きにきただけです」


「そう。よろしくね」


しかしそれ以上緋那は長居をする気はないようだった。くるりと白衣を翻し、「舞雪!」と神の名を呼んで手招きをした。


霧夜はただ腕組みをしてそれを見送っただけだった。


緋那は一の鳥居を潜り抜け、石段を降りながら、隣の友に顔を向けた。


「―――随分とヤバい客を抱えたわね、舞雪」


「緋那は知っておるのかや?」


「こんな山奥に縁があるとは知らなかったし、私も初めて知り合ったけれど、そこそこ有名な異能者よ―――」


音無霧夜。


その名を、緋那は知っている。


その紅の眼が射抜くのは、杉木立のさらに奥の虚空だった。


「舞雪は知らないかもだけど、腕の立つ有名な、裏世界の剣客よ。敵と見做した者は、異能者であろうが、妖怪であろうが、情け容赦なく斬り伏せる―――。そんな人物よ。ただ無意味に、絵を描くためだけにこの里に現れたようには見えないわ」


「…それは悟っておる」


「理由は分からないの?」


「分からぬ、されど」


舞雪の瞳と表情は、相変わらず切なそうであった。


「…それでも、この里の最後の客じゃ。彼に笑顔で帰って貰うのじゃ。それは譲れぬよ―――」


「―――そっか」


緋那もふっと笑った。友の言葉を緋那は邪険にはしない。その意志の到達点が、難しいものであったとしても。


―――この自分のような妖怪にも、親しくしてくれて、友になってくれる、そんな優しいこの温泉郷と、―――この神様が、緋那も大好きだった。


「舞雪には、かなわないわね」


「緋那に言われとうないわ」


「柚希ちゃんと真冬ちゃんともあんなにすぐに仲良くなっちゃって。あんたその姿現して何日よ。全く早いわね」


「まあ、わらわの家みたいな土地じゃ。易いことよ。それだけに―――」



最後の思い出まで、綺麗に残したいものじゃ。



その言葉に、ただ、緋那は頷いた。

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