4.白神荘
三郷温泉郷は、来春、ダムに沈む―――湛水試験は少し先らしいが、つまるところ、退去期限はそこなのだ。
三郷は過疎地ではあったが、人がいない、来ない訳ではなかった。
しかしそれにも関わらず死に体―――。道のことごとくの旅館がシャッターを下ろし、飲食店は畳んでしまい、人家からも灯りの消えたのは、それに他ならぬところであった。
旅館、白神荘も、じきに閉まる。
その情報を知って、霧夜は予約を入れた。最後になるように、女将に指定をしてまで、最後にして貰ったのだ。
人がいない方が、『計』には都合が良かったから。人目はない方が、都合が良かったし、だからこそ、それを狙った。
それにも関わらず―――どうして俺は画材なんぞを持ってきてしまったのかと霧夜は一人、思うのである。
「絵を描くのか、おぬしは」
「多少ですが」
朝食の席であった。
旅館、白神荘の朝は広間であるが―――当然のように霧夜と舞雪二人しかいない。二人で喋っていれば、女将も柚希も気を使って同じ席にしてくれたという訳であった。
良く色づいた沢庵を口の中に放り込みながら、浴衣姿の舞雪はどこか上機嫌そうである。
「眺望であれば、わらわの神社の景色が一番眺めが良いぞ。それか、神社のさらに裏山じゃな」
「覚えておきます。聞けて良かった」
「おぬし、絵を描きに来たという訳ではないのであろ?」
舞雪はふと箸を止めて霧夜に問いかける。一拍の間があった。
「…絵を描きにきました」
「よう嘘を言うわ」
「では何故俺は画材を持ってきているのでしょう」
「…それもそうさな」
舞雪は考える素振りであった。実際分からないらしい。当の霧夜自身だって分かっていないのだから、これは当然のことであった。
お茶の急須を持ってきた柚希が目を丸くする。
「あれ、音無さん、絵を描かれるんですか?」
「多少は」
「わあ!てっきり体育会系の方だと思ってました」
柚希の拍手。態度が図々しいようにも見えるのは何故か。最後の客だからという理由―――そのようにも見えた。思えば確かにそうだ、この音無霧夜にとっては盲点であったが―――向こうからすれば、舞雪にしろ、柚希にせよ、俺は最後の客。最後の客を見送れたら、きっと気持ちが良いというか、―――最後を汚点にしたくはないと思うし、願うだろう。
俺は、多分じゃなくても―――きっと、特別なお客様なのだ。
自分のことばかりで、他人からどう見えるかを、霧夜はここに来てもなお、昨日舞雪に言われるまで、全く自覚していなかったのである。
そしてそれは霧夜の見た目に対してもそうであった。
舞雪はニヤリと笑う。
「まあ霧夜は良く鍛えておるようじゃからの、体育会系に見えるのも無理はないの」
「そうですか?」
「少しくらい自分の見た目を自覚したらどうかの…?」
舞雪の呆れ顔。実際霧夜の浴衣から覗く二の腕は良く鍛えられて引き締まった男のそれである。180cmの長身で、その身体は太い、というのでもないが、その気配も剽悍なそれである。美大生や画家には見えないだろう。
柚希にとっても意外であったらしく、
「でも音無さん、何か部活とか運動とかやってらっしゃらないようには見えませんけど」
「剣道を多少は」
「剣道!」
「ほう、剣か」
柚希が納得すると同時に、舞雪の目が輝く。こちらは納得の他に好奇心が詰まっている。霧夜は涼しい顔でお茶を啜っていたが、舞雪は無論、霧夜がただの剣道趣味だとは思っていなかった。
「入り用なら、竹刀でもそれ以外でも貸すぞ霧夜?」
「足りてますので」
「また良い返事じゃ」
つれない返事であったが、舞雪は満足そうであった。ちなみにこれは柚希の目の前だからこその問いであって、ただの竹刀だけではなく、真剣であろうと鍛錬に必要であれば貸すぞと言っているのである。しかし霧夜は分かった上で『足りている』と返答をしたのであって、自らが剣を扱う異能者であるとこの時点で告白しているのであった。
柚希が首を傾げる。
「そういえば舞雪ちゃん竹刀なんて持ってるの?荷物にあるように見えなかったけど」
「別にここにあると限らぬであろうに…」
「それもそっか」
舞雪がどういう素性と偽って泊まっているか霧夜は知らないが柚希は納得したらしい。ちなみに柚希は最初から舞雪には敬語は使っておらず、それに関しては舞雪と柚希の間であらかじめどういう会話があったものか、霧夜は知る由もなかったが、少なくとも二人の間にあるのは宿泊客と従業員の空気ではなく、友人と言っていい砕けた雰囲気だった。
舞雪は満足げに煮えた湯豆腐を取り分けながら、
「わらわも運動は得意じゃぞ?」
「舞雪ちゃんも運動出来るんだ」
「わらわは弓が得手じゃの」
弓使いも裏世界にままいる。この雪御前は、神としてはともかく、武芸者としては弓が達者なのだろう。そう見えた。霧夜からしても、不得意そうにも見えぬ雰囲気である。舞雪は雅だとかそういう雰囲気とは少し異なる雰囲気の少女だった。
舞雪はのんびり箸を進めているが、霧夜は健啖家で、平らげるのも早い。「少しくらいゆっくり箸を進めたらどうか」と舞雪は言いかけて、しかしやめた。
―――まだ彼の中に壁があるのを感じていたから。
そういう干渉をするには、多分、きっとまだ早い。
それでも「御馳走様でした」の言葉をしっかり残して辞去する霧夜を、舞雪は引き留めない。「今日は何するつもりかの?」と問いかけたのみだった。
立ち上がった霧夜は、背中を止めた。
何も考えていなかったからだった。
―――本当に何も考えになかったのである。
空白が落ちた。霧夜は考えを巡らせ、―――巡らせてから、結局、
「天気が良ければ、絵を描きに行きます」
「今日は晴れるぞ」
「分かりました、伺います」
―――神社に伺いますと言っているのである。
舞雪は頷いた。それだけで良かった。霧夜は少しだけ振り返る。白銀の少女の、唇の端の、どことなく満足そうな、微かな微笑みだけが―――心の中の罪悪感を刺激するのを感じて、やはり心の中で、特大の溜息をついた。
朝が始まろうとしていた。




