3.神様
―――世の中には人外魔性の世界がある。
一般人として過ごしている人物の大部分が知らないが、この世の中にはそういう世界がある。
霧夜はこの世界に身を浸して長いが、知らない方がいい世界であると疑わない。法なんてものはおよそ通用しないし、弱肉強食が基本である。
その中でサバイバルしていくのは、並大概のことではない。
だから霧夜は先ほどの白い少女を見て、人外であると見抜いたし―――ただの人外や妖怪、異能者ではなく、神の類であると察しもついた。
神。
当然のようにこの世界にいるし、霧夜もそういう類と触れ合ったことも一度ではない。神も色々だ。疫病神もいるし、土地神もいる。
あれはおよそ土地神であろうと、霧夜は察しがついている。
土地神。
大抵は、その土地の神社の神である。
その土地の信仰や地に根差す霊脈、それ自体を力の源泉として力を振るう神。その土地の統括者、監視者たる者と言っていい。
―――あれを敵に回したら、この俺、音無霧夜の計画もほぼ御破算だ。
霧夜は岩作りの露天風呂に身を浸しながら空を仰いだ。不機嫌な空から、ちらちらと雪の欠片が舞い降りてくる。それをまんじりともせずに眺めていた。
―――湯の流れる音、ボイラーと換気扇の僅かな音。
それ以外は無音である。深淵のような山の中にあって、湯気の満ちるだけの心地よい無音であった。心に秘めたる一物さえなければ、何と安楽な温泉旅行だったかと霧夜は一人思わなくもない。ただその黒い瞳に湯の水面を映して、顔を洗ってみれば、微かにしょっぱい湯の味がした。
―――自分以外誰もいるとは思わなかったのに。
だからこそ、今を狙ってきたというのに―――。
だが、ここで自らの計画を御破算にする積りもなく、ただ霧夜は湯に沈んで考えを巡らす。いかにあの白い少女の目を出し抜くか―――とにもかくにも機を伺うしかないと決するのに時間は要しなかった。
あれは、考えたって仕方がない類だ。
むしろお近づきになって、油断したところに―――それが出来るほど自分が器用な人間だろうか。否、やるしかない―――この好機なのだ。
自らの頬を一発叩いて風呂を後にした。
浴衣を纏って鍵を袖口に放り込み、廊下を歩いて自らの部屋のドアノブに手をかけようと思ったところで、しかしそこで霧夜は立ち止まった。
―――誰かいると悟ったからだった。
―――柚希か、さもなくば、あの白い少女か。
それは分からなかった。
しかし、誰かいる。それを霧夜は悟った。
悟った上で、しかし霧夜は、堂々と扉を開けた。
鍵はかかっていた。それを開けて入った。部屋の障子扉を開けた先に、白い少女が正座していた。自分を待っていたのだと知るのに時間を要しなかった。
彼女と向かうように、一つの座布団。
「驚かせてすまなんだの。それに無礼の極みとも承知しておる。しかし、おぬしとはどうしても話しておきたくての」
少女は口を開いた。古風な口調であった。その白い指が座布団を指さした。座れとの指示である。霧夜は何も言わずに従った。
少女は小柄であった。150cmもないだろう。しかしこういう人物は、見かけだけでは測れない―――その髪色や気配からも分かる通りに、およそは見せかけのシロモノである。
霧夜は正座であったが、それを認めてか、白い少女は笑った。
しかし、それは寂しそうなそれであった。
「わらわがどういう者か、大方は分かっているのであろ?」
「…土地神様でしょう」
「左様」
少女は首肯した。冷涼な気配が一段と強くなったように思えた。
「許せ、音無霧夜。―――おぬしの名は柚希と女将に聞いておる。無論、異能者であることも分かっておるが―――さしあたり名で呼ばせて貰うぞ?」
「御随意に…」
「わらわの名は舞雪。もっとも、この里人は、雪御前、とわらわを呼ぶことが多いがの」
謡うように少女、舞雪はそう言った。
―――その名は、ここに来る前に、霧夜も把握していたことであった。
三郷温泉神社。それがここの鎮守であることも分かっている。
「三郷温泉神社の鎮守様でございますか」
「左様。この少し行った先の山の手から登ってゆけるでな」
舞雪はそう答えたが、それから霧夜は口を開かなかった。ただ瞳だけが若干険しかった。
舞雪の考えていることが分からなかったからだった。
それを察してか、舞雪は再び困ったような、寂しそうな顔だった。
「霧夜。何を思うて、霧夜がこの温泉宿、それもかのような機で投宿したかは分からぬ。恐らく何かの目的があろうとは思うておるが」
「土地神様ならば、俺の口を割る程度容易いことでしょう」
「そのような悪辣な趣味はしておらぬわ。それとも割られたいのか、おぬしは?」
苦笑。だが舞雪は相変わらずの寂しげな表情であった。
「だが、わらわは一言告げておきたくての。霧夜、おぬしが何者であろうと言っておかねばならぬことがある。特にわらわの素性を把握しているようであれば、尚更に」
「…何でありましょうか」
一拍の間があった。
静かな間であった。
薄く可憐な唇が開いた。微かに震えを帯びた、祈るような声であった。
「わらわは、おぬしのこの逗留が、本当に良いものになるよう願っておる…。そのためには、―――本来このようなことは御法度なのは承知の上で、神たるわらわが力を尽くすことも、やぶさかではないほどにな。だからこそ、わらわも、こうやって客として逗留の算段を取った…」
「何の義理で…?」
霧夜はそこで口を開いた。正直予想外の言葉であったからであった。―――この神様は、正確なことは知らぬにせよ、俺が剣呑なことを考えていることくらい、恐らく悟っているだろう。
それにも関わらずこの言葉。
舞雪は微笑んだ。
泣きそうな微笑みが、―――こんな状況なのに、何よりも美しいと、音無霧夜は思ってしまった。
その時の彼女の表情が、―――ずっと忘れられないものになるなんて、霧夜は思ってもいなかった。
「…霧夜。おぬしが、この三郷温泉郷、最後の客であるからに、他ならないからであろう…?」
美しい絶句を部屋に満たして、神様は微笑んでいた。




