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ホワイトスカイ  作者: 笹霜
序章
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2.邂逅

駅から下る道は、鬱蒼とした森の中であった。寒とした空気が、山に満ちている。


そこを、九十九折りの歩道が、下へ下へと伸びている。人一人分の踏み跡のついた、辛うじて除雪のされている道だった。


青年、音無霧夜(おとなしきりや)の歩調は軽やかであった。


大きなトランクを片手に下げ、背にはリュックを背負っていた。


しかしワークブーツの運びは軽い。地を踏みしめて間違うことなく、十分程も下ったところで、霧夜は沢の音を木立の中に聞いた。


森の中から出てきた道はアスファルトの舗装路と合流し、真っ赤な欄干の橋の下に、漆黒の渓流が渦巻いて流れを作っていた。


どんよりとした空の下だった。橋の向こうに建物が見えた。霧夜の足取りに迷いはない。


色褪せた観光看板が道のたもとに傾いていた。



『三郷温泉郷へようこそ』



―――音無霧夜はここに投宿して、少しの間逗留することになっている。


そう、宿にも連絡はついている。


霧夜は歩く。


温泉郷の町並みはうら寂しい。


空き家と見える家々の屋根に、高く積もった雪。


下ろされた看板。蜘蛛の巣の張った居酒屋の表札。廃墟と見える旅館ホテル。


それでも道の両脇に雪は寄せられて、側溝からは温泉らしい雪煙が上がっている景色。


それは最後の意地のようにも見えた。


そんな温泉街の中に、灯りの灯る旅館が一つ。


旅館『白神荘』は、平凡な二階建ての、決して大きくない旅館であったが、老舗らしく、立派な軒を張り出して、提灯を掲げて客を待っていた。


これからご厄介になる、旅館であった。


カウンターで呼び鈴を鳴らす。


転げ出てきたのは、仲居姿の少女が一人。『音無様ですね!』と向日葵のような笑顔だったので、霧夜は思わず内心で面食らった。


「御部屋にご案内致しますね!お荷物お持ちしましょうか?」


「いや、大丈夫です」


そう言おうと思ったが、少女はもう台車を押していたので霧夜は早々に諦めていた。


少女は地毛らしい赤茶けた髪をポニーテールでまとめていて、作業用らしい薄紅色の鮫小紋に腰巻といった姿である。


霧夜はその少女が荷物満載の台車を押して廊下を進むのを、後ろから見つめていた。



―――たぶん、俺は、この少女を目当てにきたのだが、確信がなかった。



確信を得るまでは、霧夜は何も言うことは出来なかった。


旅館の廊下は冷え冷えとしている。


空調の利きが悪いせいか、人がいないせいか、古いせいか、その全てか。


ただ霧夜は白くなりそうな息を小さくして、少女のポニーテールを後ろから見つめているだけだった。


エレベーターに乗り込んで、霧夜の部屋は二階の隅だった。


少女は鍵を回す。今時珍しい大仰なアクリルキーホルダーのついた鍵である。霧夜はそれをただ無為に眺めていた。


部屋は平凡な八畳間で、少し古い以外は霧夜にとって何ら不満のある設備ではなかった。障子窓を開けると、先ほど歩いてきた温泉宿の通りにすぐに面した景色だったが、眺望が良いかというと、そうでもない。


「お部屋の説明をさせて頂きますね!」と言って正座する少女に、霧夜は黒い瞳を向けた。


少女は色白で勝気な表情であった。立て板に水のような館内説明。霧夜は半分それを聞き流していた。


自分の接客に自信があるのか、それとも自らの勤め先に誇りを持っているのか―――少女の説明は軽やかでご機嫌であるようにも見えた。


「―――以上で設備の説明は終わりなのですが、御朝食の時間は何時からになさいますか?」


「とりあえず、7時30分で」


「かしこまりましたー♪あと、当館の温泉大浴場は少し手早くて22時には仕舞ってしまいますので、お早目のご入浴をお願い頂ければと思います」


最後に付け加えられた言葉。少女の瞳が少し陰ったように見えた。それは気のせいだったのだろうかと思う。


「それではごゆっくりお過ごしください」と口上を終わる少女を、霧夜は最後に引き留めた。


首を傾げた少女に、霧夜は問いかける。


「お名前だけお伺いしても?」


「白神―――白神柚希(しらかみゆずき)と申します♪ここの女将の娘であります、お困りの時はお声かけください♪内線は1ですので!」



―――やはりそうだったか。



貴女に逢いに来たのだ、という言葉を霧夜は胸の奥底に飲み込んで―――だが数秒の空白は、少女、柚希が腰を上げて立ち去るのには十分な時間だった。


空疎な空白と古びた空調の音だけが部屋に残った。乾燥した暖気に耐え兼ねて、部屋の窓を少しだけ開けた。


凍てつく外気と部屋の暖気が混ざり合う中で、霧夜はコートから浴衣に着替えつつ、持ってきた大荷物を見つめた。自分でも不思議な気分であった。


何故こんな大荷物を持ってきてしまったのだろう。


―――本来は必要のない荷物なのに。


何でそんな、俺らしい―――いや、俺らしからぬことを。心の中で、あの少女のあの向日葵のような笑顔がリフレインして、霧夜はどこか暗澹たる気分になった。


とりあえず風呂を浴びてさっぱりしようと、それだけを決して、霧夜は浴衣に角帯を巻いた。手ぬぐいを角帯に挟んで、立ちあがって部屋から出た。


赤いくすんだカーペットの床を、衣擦れと共に歩く。冷え冷えとした空気が、袖から腕を舐めていくのを、どこか心地よく感じていた。


霧夜は階段の手前で、立ち止まった。


人の気配―――いや、そうではないものの気配。


音無霧夜は知っている。


これは、人の気配ではない。となると、それ以外―――。人外魔性のものに触れ過ぎた霧夜の直感が、自らに鋭い警告を発していた。


殺気でこそないが―――。


一階へ続く階段。身体を半分乗り出すようにして下を伺う。


踊り場に少女が一人居た。


視線が交差した。


―――向こうもこちらを分かっていて、ずっと機を伺っていたのだろうと瞬時に知れた。


霧夜は、口の中でうめき声を漏らした。それは伝わったのか伝わっていないのか。踊り場の少女の白い着物の裾が、風もないのに翻る。その清冽な碧の瞳が霧夜を捉えて笑った。



「おや、お客人のようじゃの。―――もうこの宿に、泊まる客などいるとは思えなんだが」



鈴の鳴るような声だった。階段に神気が満ちていた。稲妻のような緊張の迸り。白皙の肌、白銀の髪、碧の瞳。その神気に着物を翻す少女。どう足掻いても只者ではなかった。


何者か。


誰何(すいか)する義理はないが、しかし、―――知っておかなければ、ゆくゆくの、俺の『計』に障りが出そうなことも、明白―――


だからこその呻きであった。


少女は笑っていた。


息苦しくも神々しい、白い気配が詰め込まれた、沈黙の階段室であった。


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