27.魂
ゆるやかな風が滞留する、曇り空の昼だった。
陽光は重く白い雲の向こう側で、空全体はぼんやりとした白だった。いつか見た時のような白で、また見るような白であった。
ちらちら、ちらちら。
粉雪が音もなく舞っている。
音無霧夜は、境内の真ん中、石畳の参道の真ん中に立っていた。似合いすぎる色紋付羽織袴姿、それに黒いマフラーであって、脇に一枚の大きな油紙に包んだキャンバスを抱えていた。
参道の両脇で、篝火が焚かれている。火花の散る音だけがする世界だった。
鳥居の両脇には、高く掲げられた一対の幟。三郷神社御祭礼と大書されたその幟は―――多分最後の出番になるのであろうと知れた。
あれを掲げたのが、つい先ほどのことである。その幟が雪の風に翻るが、音はない。
雪が落ちるのに、白い息は上に昇ろうとする。
脇に抱えた油紙の中身を見やった。一枚の油絵が入っている。
―――完成したのは、ほんの昨日の深夜のことだった。
魂を入れていた。
絵は己の心象を映すもの。己の心の扉。対象を描くだけじゃない。そこに映る己の心を描けと、師は言った。
もうそれを意識するまでもなかった。ただ疾走するように絵筆を走らせ続けた。この郷の最後の風景を―――俺の瞳に映る最後の風景を、描き残すために。
ひたすらに描いていた。ぶっ続けで描いていた。晴れの日はここで、雪の日は部屋でただ絵に向き合った。絵と言う名の、己の心に向き合った。
最後の街の風景―――それは暖かに見えた。俺の心にはそう映る。故にそう描く。
否―――それは気のせいではなく、確かにそうだったのかも知れない。
舞雪はそう願っていた。
ならば街もそう願うのかも知れない。
彼女が土地の代行者であるのなら。その意志は、幸せな眠りを選び取るために、ただ最後に残る者に祝福を与えようとする。
そのように見えたのなら―――それを映し出すだけだった。躊躇う時間もなかった。
ただ絵筆を走らせ続けた。
その中で、時折頭にちらつく顔があった。
彼女は祝福を与えられなかったけれども―――いや、だからだと思う。その悔いを血のように滲ませて、土地は皆を祝福するのだ。
この土地が彼女を愛していなかったと言われれば、それは否―――届かない願いにひび割れながら、それでも最期を果たそうとする。
その無念までをも写し取るようにして。それがなければ、きっとそれは嘘になる。
だって、俺の心の中には、彼女がいるのだから。それはそう、映るのだ。―――だからこそ、画に対して、嘘はつけなかった。
それまで受け入れてこその、三郷温泉の最期だと思っていた。
魂を入れるように、絵筆を走らせて。
やっと昨日、完成したのだった。
もっと上手く描けなかったという悔恨がないのかと言われれば嘘になる。
もっと上手く己の心を映しだせたんじゃないのかと言われればそれも嘘になる。
しかし、―――俺の今持てる技量の精一杯を、ただ持ってきたキャンバスにぶつけた。それだけだった。それだけが、俺の残し得るたった一つだった。
だから今日、持ってきた。
―――最期の日に。
「…描きあがったんだね、霧夜」
声がした。おめかしをした、白いドレス姿の朱鞠内緋那がいた。日傘を差して、どこか切なさそうな顔をしていた。微笑み。霧夜は黙ってうなずいていた。
「心配したよ、手伝い以外しばらく出てこなかったからさ…ちょっとやつれてる?まともにご飯食べてるの?…でもまあ、いい眼だわ」
医者らしい心配だった。その心配さえも心に染みわたるほどに心が弱くなったのかと霧夜は思う。医者としての心配か、友としての心配か―――両方か。どっちにしても、久しい心配のされ方だった。俺には無縁だと思っていたものの、一つだった。
だからこそ、―――この思い出は掛け替えがないのだと思う。多分こいつとの交わりは、続くのだろうと思うから、それは尚更に。
「もう心配は要らない」
「今日に間に合わせた訳か」
「どこぞのポンコツな神様が今日を指定されたもんだからな」
「ホントにね」
緋那は空を見上げる。白い重い空だった。
「―――馬鹿ね、あの子も。私達だけを呼び出してお祭りするなんてさ」
「舞雪らしいと思うがな」
「それも、そうね」
朱鞠内緋那はふっと笑う。
「気を遣わせたくなかったんでしょ、あの子。オジサマ達の中にあってもさ、まあ全然悪いオジサマオバサマ達ではないけれど、気遣っちゃうから」
「そのためだけに、神託まで使って」
「ホントね」
緋那は微笑んだ。
―――そう、遷座祭は、退院した宮司がやることになっていたのだが―――その宮司の夢に、繰り返しの夢告があったのだという。
『宮司の祭祀は祠にて行うこと。それとは別に真冬主宰による祭祀を行うこと』
そして期日の指定まで入った。宮司も流石に心配になり娘に連絡し―――こうして真冬主宰の祭りが行われることになったのだが、真冬は無論気づいている。
霧夜は思い返す。真冬が困り果てた顔で、
『雪御前様が、私の主宰で遷座祭を執り行えと―――』
そう言うや神本人が、
『かくいう訳じゃ、やってくれぬかの真冬』
というので、神本人の堂々たる神託による遷座祭が、本祭前に行われることになったのだが―――二人とも流石に察している。
真冬も察しているだろう。
今日が最後である。
もう舞雪に残された力も時間も僅かである。いざ山の上の―――霧夜は見ていないが、祠に遷されてしまえば、その祭祀は実質的に途絶える見込みだろう。そうなれば最早消え去る運命だ。あの藤乃姫のように余程の縁があれば別かもしれないが、―――あの藤乃にしろ、滅多に此方に来れるような口ぶりではなかった。もう逢えないということになるだろう。
今日で、最期である。
静寂の中に篝火の爆ぜる音。それさえも異世界の出来事のように遠かった。
拝殿を振り仰げば、そこは粉雪の中にあって、提灯が輝き照らす、静謐の満ちた空間であった。
鳥居の向こうで、石段を踏む音。
境内に現れたのは、振袖姿の白神柚希だった。
「あ、緋那ちゃん先生来てたんだ」
「あらま、美人さんだわ」
「ありがと!この振袖、お母さんの借りて来たの!流石に私のはまだ買ってないから」
けらけらと柚希は笑う。いつもながらに屈託のない笑いだが―――その笑顔の一枚下の感情は二人には透けて見えた。その悲哀の感情を二人は否定しない。
「真冬からおめかしして来いって指定あったから気合入れておめかししてきたよ」
「いいと思うぞ」
「良く似合ってるわ。そういうのはやっぱり華のある子が似合うわね」
霧夜の静かな肯定に、緋那の女性っぽい微笑み。柚希は複雑な顔だった。
「でも緋那ちゃん先生めっちゃレディだし霧夜めっちゃ大人の男」
「あらそうありがと。霧夜のそれも似合いすぎてるけどね。刀なんか差したら特に」
「そうか」
それは本気の賛辞であると霧夜は気づいているが、苦笑するに留めた。剣客然としが雰囲気が似合う―――というのは決して間違っていないし、実際立派なサマになっているのだが、霧夜としては望まぬことでもあった未来で、少しばかり複雑である。
霧夜は緑の色紋付羽織袴だったが、柚希は「あれ、」と声を上げた。
「家紋ここのと同じじゃない霧夜?」
「うちの家紋は奇縁あってそうだ」
「揚羽蝶?いいじゃない、縁あって」
緋那は笑う。そう、音無家―――なんてものはない、中静家の紋は揚羽蝶である。平家に昔縁があったのかも知れないと考えると、己の血筋もまたどこかで、このお姫様と関わりがあったのかも知れない。それも遠い遠い、はるかな昔のことであるだろうが―――それでも縁がないより、あったと思う方が、今の霧夜には嬉しかった。
「あと霧夜、絵描けたんだ?ごはん食べない日もあったから心配したよ」
「お陰様で形にはなった―――ギリギリだったがな」
「お母さんも心配してたけど、なら良かった。絵も描けたなら、何よりだね」
微笑む柚希は、―――霧夜が何のために本来ここに来たか知らない。だが、絵を描くために来たと聞いてそれを信じているからこその笑顔だった。だがそれを、霧夜は是とした。それで、良かった。
「―――皆さん、冷えてしまいますから、中へどうぞ」
真冬の声だった。社務所から顔を出す真冬だけはいつもの巫女服姿のようで、少し違う。袴は紅だが、長着はどっしりとした緑の絹地の、地紋も精緻な巫女服らしいものだった。儀礼用の衣装であるらしい。
社務所での真冬は透明な表情だった。だがそれが、感情を抑えているものだと、三人は瞬時に看破した。
「…皆さま、拝殿の方へ。お席は、用意してありますので」
「そういえば舞雪ちゃんは?」
「じきに来る」
柚希の無邪気な質問。間髪入れずの霧夜の回答。緋那の頷き。何もかもを分かっている。柚希だけは疑問符を浮かべた顔のまま、大人二人の後に続いた。
拝殿はいつも通り静謐な畳敷き。用意された神饌。霧夜は当然のように用意されていた床几に腰を下ろした。緋那も続き、柚希だけが疑問符を浮かべたままだった。
余り間も置かず、金襴の冠をかぶった真冬が姿を見せた。
柚希が再び口を開こうとするが、それを遮るようにして、真冬は手にした撥で、太鼓を思い切り叩いた。
どん、と、拝殿が震えた。
それだけで柚希は黙らざるを得なくなってしまう。どん、どん、どん、と何度も太鼓は打ち鳴らされ、それは小さくなって、已み。
そして真冬が幣束を以て、神鏡の前に進み出た。
風が吹いたのは、その時だった。
ごう、と風が吹いた。霊気を伴った突風のような風だった。それらは拝殿の中を駆け抜ける。それは拝殿の入り口からではない。ましてや側面でもなく―――真正面、本殿方向から吹き付けてくる。柚希が思わず目を覆うが、それらの風は床几も祭壇も一切倒さず、四人の身体を優しく触れるように駆け抜けていくだけだった。荒れ狂うようで、全くそうでない、優しく冷たい雪の風。
―――真冬が、深々と礼をした。二人も礼をして、柚希だけが絶句する。
―――神鏡の前に、舞雪姫が、いたのだった。




