26.日常
音無霧夜は、境内にイーゼルを架けて、キャンバスを据えた。
白妙真冬は、それをじっと見つめていた。
「描かれるのですね」
「ああ」
会話はそれきりだった。除雪の仕上げにかかるのだろう。真冬は足音を残して消える。霧夜は真っ白なキャンバスと、その先にある世界を見た。
―――世界を見ているようで、見ていないのだと霧夜は思う。
絵具や画材のことを考えたら、境内でやる必要もない。が―――霧夜はこうしたかった。白いキャンバスに浮き上がる自らの幻想。それに向き合った。
スキーを経ての、ここ数日のことを思い出す。
平和で何もない日々だった。何もない、というには違う。色々なことがあった。些細なことだ。
皆で除雪をしたり、真冬の写真アルバムを整理したり。白神荘でも最後の片づけが始まった。それの手伝いもしているのだ。最早使わない部屋の備品などを全て運び出してトラックに積んだ。
日常―――しかし、終わりの近い日常だった。
だが、それは違いなく日常だった。
もう既に皆で食卓を囲むのも当たり前になっていた。昨日の夜は鍋だったし、今日は緋那主催のお茶会だというので、柚希や真冬が楽しみにしているのだ。
そして、そこに、俺はいた。
―――当然のように呼ばれていた。
目を閉じれば、聞こえてくるようである。
『女子で楽しめばいいんじゃないか?』
『何故霧夜が除外なのじゃ』
憤然とした舞雪の言葉。何度繰り返したかも分からないやりとりだったが、ごく当たり前に呼ばれ、ごく当たり前に加わり、ごく当たり前に過ごしていた。
こうやって絵を描いているのもいいが、最初は「霧夜どこにいるの?」と呼んでくる柚希がいたりした。
そして、誰もが「ゆかりと小紫がいたらいいのにね」と口にした。
―――最後の冬を過ごしていた。
―――今日も明日もそうだろう。多分明後日もその次も、一週間後くらいまでは、ずっと。
だが終わりは近いことに霧夜は気づいている。
明日、神社に荷物が届くことになっている。篝火に使う薪が届くはずだった。それを担ぎ上げる仕事がある。それは真冬や舞雪との約束だったが、それは何のために使うかというと、遷座祭のためである。
―――遷座祭。
神たる舞雪を、ダム湖に沈まぬ、山の上にある祠に遷す――――その祭であるという。
霧夜は出るつもりはなかった。宮司や氏子中でやることであろう。いくら神様がそう望んでも、霧夜は自分がしゃしゃり出ることではないと思っていた。
「…心外なことを考えておるの?」
「俺の考えていることを読んだのか」
「まあ、そんなところじゃ、許せ。しかし心外じゃな」
神様が拝殿の中から声をかけてきた。振り返ると、縁の上に立つ白い着物姿。碧の瞳がこちらを見据えている。
「霧夜は出るのじゃ。まあ、もっとも、出ざるを得ない流れにしようと考えておるがの」
「出ざるを得ない?」
「わらわは神じゃ、ここの主じゃ、ここの主の意志を、最優先にして貰う」
舞雪は不敵にそう言って再び拝殿に引っ込んでいった。何を考えているのか分からないが―――神様にとって、俺はここの氏子であることは疑いないらしい。
思い出す。
ここに来てから、色々なことがあったのだ。
スキー、鍋、雪下ろし―――日常の一コマ。ゆかりとの思い出もある。あの廃屋同然のあばら家での一時。そしてあの笑顔。―――最期のやりとりに至るまで。
それらは、全て、此処にある。
そして、これから、ほんの僅かだけれど、続く。
『おかえりなさい』
そう囁かれた言葉。―――霧夜は天を仰いだ。
ここには掛け替えのない思い出があって―――妹がいた。
そして友が居て、帰る場所がある。おかえりなさいと、そう迎えてくれる神様がいる。交錯した色んな人の横顔が見えて、そして当たり前のような挨拶があった。
思えば最初から、気づいていた。
どうしてこうなってしまったのだと思っていたのだ。日常を過ごして―――そしてそれは、当たり前の風景となった。行きかう誰もの顔も分かり、当たり前のように旅人ではありえないことをして、そして日々を送っている。
苦しみ故にそれは愛と説いた仏が居た。
―――愛があって、日常があって、おかえりなさいと言ってくれる人がいて―――
気づいていたけれど、気づかないフリをしていた。そっぽを向いていたが、もうどうやらダメであるらしい。心の中の妹も、相変わらずに微笑んでいる。
―――俺が願って已まないものに、俺が恋焦がれて届かないと思っていたものに、どうやら俺は届いてしまっているらしい。
―――それは何が故に届いたのか。奇跡のためなのか。何がそうさせたかは分からない。強いて言うならば―――ここの神様が、そうしたのかも知れない。だが俺は間違いなく、―――この数日、柚希を見て、何も思わなかった。それは、多分、俺自身が、きっと。
あの神様がああやって優しく、夢を溶かしてくれただけではないと思う。その他にも、―――色々がそうさせた。
『そうなるべきものが、そうなるだけ』
そんな風に、心の中の誰かがそう囁いた。涙が零れ落ちるのを自覚しながら、白い空に手を伸ばした。
―――もう、終わりが近い、この状況を、恨めしく思いながら、全力で見送ろうと決意した。思いは最早、それだけだった。
―――絵筆をとった。それだけだった。
拝殿の中から、泣く声が微かに聞こえて来た。




