25.銀嶺
雪は已んでいた。快晴の朝であった。
音無霧夜は、朝、白神荘を出るや、雪かきに出かけた。それが真冬との約束であったし、昼食の契約でもあった。
三郷神社へ続く石段は結構な雪の積もりようで、風呂を浴びた直後にはケータイへは悲鳴じみた連絡があって、「腹ごしらえをしたら行く」と返事をしたのだった。
霧夜は横着である。
長い長い石段をまともに雪かきする気などは到底せず、一の鳥居の前で、刀を抜きはらい、霊力を乗せて振りかぶった。旋風が参道を駆け抜けて、雪が根こそぎ持ち上げられ、氷晶の欠片となって霧消する。
それを五度ほども繰り返せば、参道の雪かき完了で、安いものである。
しかし参道の途中で、雪を根こそぎ舞い上げたところ、声がした。
「おはよう。いい腕前ね?」
「…葵さんでしたか」
いつの間にか、鷺山葵が後ろにいて、俺の雪かきを見ていたらしい。昨日と同じ着物姿に、紺青の羽織をかけて、大人の微笑みを浮かべていた。
彼女のその息は白くならないのが、妖怪たる所以であろう。
葵は霧夜を見た。蒼い深淵の瞳が、どこか満足げな微笑みである。
「険が取れたわね、霧ちゃん」
「…何か変わりましたか」
「舞雪ちゃんがそこそこにはうまくやったようね」
昨日から一貫してそうなのだが、彼女は全てをお見通しらしい。扇子を閉じたまま優麗に顎に当てて、妖しげで胡散臭い微笑みである。
だが、口調は優しかった。
「霧ちゃんは、柚希ちゃんを殺すつもりはある?」
「…ありません」
「そう」
葵は満足げに頷いた。分かり切っていた問いなのだと思う。だがそれを改めて聞いたのは、俺のためなのかも知れないと霧夜は思う。
葵はニヤリと笑って、宙に声をかけた。
「舞雪ちゃん、いるかしら」
「呼んだかや、お師匠様?」
と、瞬間、その場に舞雪の白い着物姿が出現する。朝以来である。余り会話も交わさなかったが、舞雪の顔は少し落ち着かないようだった。何がどう落ち着かないのか、霧夜には少し判然としなかった。
葵はニヤリと笑い、
「舞雪ちゃん、まあ別に今日はいいにせよ、ここ数日色々ありすぎてるわ。霧ちゃんにちょっとサービスしてあげなさい」
「サービス…?何をすれば良いのかの…?」
「それくらい考えなさい、自分で」
葵は呆れ顔だった。
「小紫も言っていたでしょう?貴女は色々霧ちゃんに甘えすぎているわ。挙句昨日も私が発破かけてやっとのこの有様、本当にダメ神ね」
「…面目ない」
「よくやっていると思いますが…」
霧夜の声に葵は首を振った。
「甘やかしちゃ駄目よ霧ちゃん。もっといい女にしていかないと。思えばそうね…」
葵は唇を吊り上げて、蛇のような視線で霧夜を見た。霧夜の背中に悪寒が走るのに十分な迫力だった。
「そう。思えば、この男よ。ようやくこの三郷でこんな風になったけれど、いつこうなってもおかしくはないわ。いい男だもの。いい女が引っかかるのは時間の問題だったわ。ここで良い女が現れたらコロリよ、分かってる舞雪ちゃん?」
「…コロリすれば良いではないか…」
「物干し竿に吊られたいのかしら舞雪ちゃん?」
舞雪の自信なさげな表情。そして葵は凄まじい暗黒オーラだった。葵の青筋に浮かんだその迫力に舞雪が思わず直立不動。
「この男の心の中に住みたいのなら、己が良い思い出になりたいのなら」
「…」
「きちんと尽くしなさい。それだけよ」
葵はそれだけを言い残して、ふわりと消えた。「何が言いたかったのかや、お師匠様」と顔を赤くして言う舞雪を他所に、霧夜は再びの抜刀で、雪かきに戻るのであった。
境内に入るとスノーダンプを押して励む真冬の姿で、霧夜が声をかけて除雪が始まる。
スコップを手にするが、真冬の目を盗みながら抜刀して雪を巻き上げての除雪である。
境内の一角の雪を根こそぎ薙ぎ払って、霧夜はスコップを雪に突き刺した。
三郷温泉の風景が、見下ろせた。
雪をかぶった温泉郷が、今日も息をしている。白神荘もまたそうだった。時折通る車。辛うじて除雪は完了している国道。雪下ろしに動いている人影。
雪の峰々が青天の陽光の下で輝いている。その鈍い、淡い雪の輝きが、―――夢の中の光の輝きと重なって見えた。
真冬が「大丈夫ですか、休憩しましょうか?」と声をかけてくる。黒い艶やかな長い髪。霧夜は頷く。確かに疲労感がないといえば嘘になった。
真冬は平常にしていたようだったが、どこか物憂げな顔だった。
社務所の客間は、いつものように―――そう、もう霧夜にとっては日常となったような空間であった。古いファンヒーターが音を立て、そして隙間風が入り、古い木の匂いが満ちている空間であった。
真冬はお茶を差し出しながら、やはり雰囲気はどこか変だと霧夜は思う。それを悟ったのか、真冬は「ごめんなさい」と言った後、一枚の写真を手渡してきた。
霧夜はその写真を拾い上げるようにして手に取った。
―――俺と、ゆかりだった。
互いに微笑み合うようにして、夕暮れの神社の境内で視線を交している。その一瞬を切り取った写真だった。見事だと思った。いつ撮られたのかも分からなかったが、あの鮮やかな夕方のことは、良く覚えていた。―――ここに問いを投げた夕。そしてゆかりが居た、最期の夕方。
真冬はどこか悲痛な表情だった。
「…ほんの、一瞬。霧夜さんと、ゆかりさんが、余りにも、優しい顔をしていたものですから…」
「…ありがとう」
「え?」
「これを撮っておいてくれて、ありがとう」
霧夜は言った。素直な、心からの賛辞であって、感謝だった。真冬は頷く。この表情は、何もかもをも分かっていそうだと霧夜は思った。それを思って再び茶を口に運んだ。
「複写してありますから、これは霧夜さんに」
「ありがとう、貰おう」
「―――もう撮れることはない、写真ですから」
「そうだな」
霧夜は全肯定。真冬は最早泣き出しそうな顔だった。その白い喉がしゃくりあげる。
「…私も、ゆかりさんとこうして写真を撮りたかった…。みんなと、一緒に、集合写真を…最後に…」
「…気づいてるんだな」
「…はい」
嗚咽になった。霧夜は何も言わない。茶だけを飲み干して除雪に戻った。白い境内を見つめて思う。
―――お前はここに居たんだな。
それだけを思いながら、刀を振るい、雪を巻き上げては消していく。
粗方消したところで、再びの声。
「…霧夜は、いつまで、ここにいるの?」
振り返った。陽光の輝く下に、白いパラソルを差した一人の女性。少女のように見えるが見せかけ―――。紅の眼をした、朱鞠内緋那が居た。
「…悪いわね。舞雪から、事情をあらかた聞いたわ。でも確かに霧夜、いい顔になったと思う」
「そうか。朱鞠内は診療は?」
「今日はお休み。今日は元々舞雪がみんなでスキーに行こうと調整してた日らしくてね。絶妙にこうなってしまったのだ」
緋那はどこか切なげな眼だった。
「だけど、ゆかりちゃんの件もあったから。―――それが良かったとは言わないけれど、でも、霧夜は、―――うん、良かったと思うわ」
緋那はそう言った。晴れやかでこそないけれど、それは前向きな顔だった。
「…ここに来た。これからどうするの?」
「見届けるつもりだ」
「そう。じゃあ、暫くよろしくね。三郷の同居人として」
―――そう、ここが俺の居場所としたなら、それでいいのだと、霧夜は思う。緋那は笑っていた。友と呼ぶに、自然な関係なのだろうかと、そう思う。
除雪を終えると、社務所には昼食が待っていて、そこで真冬と緋那と、いつの間にかいた舞雪を囲んで昼餉になる。
「ねえ舞雪に真冬ちゃん、今からでもスキー行く?」
「急ではないかや?それに今からかや…?」
「折角空いてるならさ。柚希ちゃんにも声かけて」
緋那の鶴の一声だった。元から調整日。あれよあれよという間だった。一時間後には、朱鞠内緋那の車に皆乗り合わせてスキー場に行くことになったのである。
柚希ときたら乗り込んだ車内からウキウキの顔で、運転席の緋那が苦笑いだった。
「柚希ちゃん、なしてそんなに嬉しそうなの…?」
「だって真冬とかゆかりとは一緒に散々滑ってるけど緋那ちゃん先生とか舞雪ちゃんお初だもん」
「…わらわは滑れるのだろうか…」
しかしそこでどこか青いのは舞雪で、緋那が「ハァ?!」と声を上げた。車が横滑りしかけて、緋那は慌ててハンドルを切ってサングラスを押し上げながら、
「舞雪アンタ滑れないの!?そんなアホな!?」
「初じゃ!?初めてじゃぞっわらわは!!!」
「わぁ舞雪ちゃんビギナー!大丈夫だよ真冬も私も教えるから」
柚希がワクワク顔である。一方で舞雪の正体に気づいている真冬もちょっと驚いた顔で、
「…滑れないのですか、雪御前様」
「これ真冬、呼び方に気をつけんか」
「失礼しました…」
柚希に対しては都合のよい認識改変が施されているらしいと霧夜は気づいている。それに柚希が口を挟むことはなかった。緋那もそれは承知のことであるらしい。
「しかしそれより、舞雪が滑れないことよ。何よあんた、いい加減雪慣れもいいとこじゃない」
「いや、だって、わらわ、ああいうことは苦手というか…」
「大丈夫!すぐ滑れるようになるって!!」
柚希の言葉。相変わらず舞雪は青い顔だった。「ご無理はなさらないでくださいね…」という真冬の言葉に、舞雪はこくこくと頷いていた。
到着した先―――三郷温泉スキー場も、終わりは間近である。
ゲレンデそのものが沈む訳ではないが、近づく道路が付け替えられてしまうので、閉業を余儀なくされたスキー場…かつて昭和の後ろから、平成の頭には大賑わいを見せたそのゲレンデも、最後はいかにも物寂しく、人の姿もまばらだった。
しかしそれはほぼ貸し切りということも意味する。
霧夜は手っ取り早くレンタルを済ませ、着替えまで済ませて外に出る。鮮やかな白いゲレンデが、あらん限りに陽光を反射して輝いていた。
声がする。
「霧夜は慣れてそうよね」
「滑れるぞ。朱鞠内は?」
「私はボーダー」
そう言ってスキーウェア姿の緋那は、紅白に鮮やかに塗り分けられたスノーボードを空中に舞い上げた。それを再びその細腕でキャッチしながら、
「ワンシーズン何度か滑りには来るよ。初心者だったのも過去の話」
「滑れなかったのか」
「ここに来て滑れないってのも悔しいじゃない。折角機会もあるのにさ。まあ慣れりゃなんてことはないわねえ」
吸血鬼、朱鞠内緋那は運動神経は常人の比ではないのは、一度の戦闘を見て十分に分かっている。すぐに慣れて楽しんでいるらしい。
「吸血鬼は日光の照り返しは大丈夫なのか?」
「それが割と大丈夫じゃないのよねえ」
緋那はそこでゴーグルをくいくいやりながら口をへの字に曲げる。
「このウェア、特製」
「…カネをかけているな」
「色々工夫したんだから、尚更楽しまなきゃ損でしょってヤツよ」
悪戯っぽい笑い。背後ではしゃぐ声。
「ほら舞雪ちゃん、行った行った!!」
「押すでない!分かっておるわ!!」
何もかも不慣れな様子の舞雪姫であった。緋那がニヤリと笑う。
「おや、滑れない方のご登場ですよ。私は教えられないから誰か他の子よろしくね?」
「わあ、緋那ちゃん先生のボードカッコいい!!」
「特製よ。社会人になってカネ稼げるとこういうことも出来る訳。頑張れ柚希ちゃん」
「がんばる!!」
柚希の向日葵のような顔。真冬も緋那の方は向かない。特製ボードまで誂える人間に今更何も言うことはないのは良く分かっていた。勝手に楽しめるのである。
霧夜は舞雪に目を向ける。舞雪は涙目だった。
「…ど、どうすれば良い…?」
「とりあえず全部私が教えたげる!!」
「た、頼む…」
やる気満々の柚希。とりあえず霧夜は緋那と連れ立ってゴンドラへ向かう。緋那は呆れ顔だった。
「スキー、自分から提案したのにね」
「運動神経が悪いようには見えないが」
「まあすぐ慣れる気もするけど、変に不器用だしねあの子。どうなのやら」
霧夜の長身と緋那の小柄な姿のアンバランスがゴンドラに揺れる。青天の下、木立を左右に見ながら上がっていく。
瞑目するような霧夜だったが、緋那が意味深な目を向けてくる。
「…霧夜はさ」
「何だ?」
「…ゆかりちゃんのこと、好きだったの?」
「…そうだったんだろうな、きっと」
兄妹愛なのか、異性愛なのか、かなり曖昧な部分はあると霧夜は自らの中で思っていた。しかし彼女を想っていたことは事実だった。
「…舞雪から色々聞いたわ。ごめんね、色々知らないうちに噂話してて」
「構わない。そういうものだろう。俺もゆかりとはお前の噂話をしていたりしていた」
「まあ、そういうもんか」
緋那の微笑み。
「…あの子も、霧夜のこと、本気で好きなのかもね」
「舞雪がか?」
「さっき、舞雪がちらちら霧夜のこと見てたわ」
緋那は言った。
「柚希ちゃんが押せ押せだったから言い出せなかったけど、きっと教えて貰いたかったんでしょ、霧夜にさ」
「…俺にか」
「そこらへんが、本当に不器用よね」
溜息。
「霧夜に甘えてばかり―――って、あの子言ってたけど、それにしたって甘える気満々なとこがさ。霧夜はそういう子が嫌いじゃないかも知れないけど」
「…かもな」
「ゆかりちゃんの世話焼きのお兄ちゃんだもんね」
悪戯っぽい笑い。ゴンドラから飛び降りる。何か言うまでもなく、紅の閃光のようになって、その姿がゲレンデを駆け下ってゆく。その姿に狙いを澄ますように、霧夜もストックを握った。
急斜面のゲレンデを流れ星のように滑り降りる。ターンを描くたびに雪を小さく跳ね上げながら降りる。今シーズンは初のスキーだったがすぐに身体は感覚を取り戻す。別に調子は何もかもが悪くない。
斜面が緩やかなところは直下降して、麓に戻ってみれば、そこでは舞雪が盛大にこけたところだった。
柚希が苦笑していた。
「舞雪ちゃん大丈夫…?」
「大丈夫じゃ…。わらわ身体だけは丈夫での…」
「苦戦してるようだな、代わるか」
霧夜の声かけ。先んじてその様子を見守っていたらしい緋那が目を丸くしたが、その後その唇が申し訳なさそうな笑みを作った。霧夜は小さく頷いただけだった。
「柚希も滑ってきたらどうだ」
「でも舞雪ちゃんが…」
「緋那ちゃん先生がお誘いだぞ」
「…うん、じゃあ、行ってくる。任せたっ!!」
柚希も滑りたくてたまらなかったらしい。緋那の掛け声に応えて軽快に滑っていくその顔は本当に楽しそうであった。舞雪は涙目である。
「本当に迷惑をかけてばかりじゃ…」
「だな」
「…すまぬ」
しょんぼりする小柄な神様である。足の開き方、バランスのとり方を教えながら、霧夜は舞雪に声をかけた。
「…本当に初心者だったとは」
「すまぬ…。皆が滑っているのを見て、羨ましいとは思っておったが、ついそういう機会もないままで…」
「足もうちょっとこうしろ」
「う、うむ」
後ろから体幹を支えながら指導する。朝と同じ少女のふんわりとした匂いがあった。それが霧夜には、どうにもやりづらかった。
「…すまぬ、何から何まで…おぬしに甘えてばかりで…。朝、あんなこと言うた矢先だというのに…また甘えておる…」
「…だから、お前は俺に色々してくれるんだろう?」
「…そのつもりじゃ…。だから霧夜にも精一杯楽しんで貰いたかったのに、この有様では…」
「…俺は楽しいぞ」
「霧夜?」
霧夜は答えなかった。舞雪はそれがどこか恥ずかしかった。―――見透かされているようで、しかしそれが本心でもあるような気がして、顔が紅潮するのを感じていた。
舞雪が滑れるようになるのに、そんなに時間はかからなかった。
元より運動神経が悪い性質ではない。滑走出来ればしめたもので、柚希がその手を握ってゴンドラに連れてゆく。霧夜も一人ゴンドラに乗って、ゲレンデ最上部を目指していた。
―――思う。
―――何度、こうやって、スキーに来れるのだろうか。これが、もしかしたら、最後なのかもしれない。
ゲレンデ最上部から見た雪峰は、やはり輝いて見えた。傾きかかった太陽に、全てが鮮やかに映し出された世界だった。
これが生きているということなのかも知れないと、音無霧夜は思いつつ、ゲレンデを一人下ってゆく。
―――これが日常だと、日常の欠片だと、それを握りしめるような、実感を、微かに抱きながら。




