21.師
君たちは、自分自身の炎のなかで、自分を焼きつくそうと欲しなければならない。
もし君がまず灰になっていなかったら、どうして新しくなることができようか!
(ニーチェ『ツァラトゥストラはかく語りき』第一部)
雪の舞う拝殿の前で、音無霧夜は向かい合う。
―――霧夜は、一目見ただけで、彼女が尋常ではないと看破した。そして一瞬で、己など届かない存在とも理解した。
格が違う。
彼我の実力を正確に把握すること。それも裏世界を生き延びるコツの一つだった。―――霧夜は長らく斬った張ったを繰り返している。その自らの瞳は、そこそこ自信を持っていたが、それにしても、目の前の存在は余りにも規格外だった。底が知れなさ過ぎて、恐怖すらも置き去りにされるレベルだった。
だが、それは、永遠子という別の超次元の存在に比べると、それでも、余りにも真っ当だった。彼我の力の差が分かり、そして恐怖がある―――それが分かって、霧夜はかえって、安心したくらいであった。
雪の中、向かい合う美女は、淡い覗色の着物を着て、紺青の羽織を纏い、霊気の風にその黒髪を靡かせていた。
「はじめましてね、音無霧夜。一度、会ってみたいと思っていたわ。小紫ちゃんが、良い男だと言っていたようだけど、違わぬようね」
「―――」
「私の名前は、葵。葵の方とか、俗世では、鷺山葵とも名乗っていることも、珍しくないわね」
そして葵は、霧夜の長身を上から下まで眺めた。霧夜は思う―――身長は自分より少し低いくらい、変わらないが、やはりこれは見せかけだ。
目の前の彼女の存在感は、この地を震わせて雲を割る、その程度なら軽いと思わせるレベルのものがある。霧夜の感覚が鋭いからこそ、そう察せられるのかも知れないが―――一瞬で勝てないことは、重々理解していた。
そしてその名乗り口上を聞いて、霧夜はそこで初めて、自分と縁ある人物ということを理解したのだった。
「…お初にお目にかかります、葵の方…『日ノ本最強』…。舞雪の師匠であって、確か、小紫と、音無の」
「そうよ。御名答」
葵は鷹揚に答えた。上機嫌のようだった。
「私の鍛えた刀を、良くぞあそこまで使いこなしているわ。鍛造者として、褒めてつかわす、そんな気分ね」
「―――恐縮です」
答えに迷ったが、皮肉ではあるまい。霧夜はひとまず無難な答えに落ち着いた。それにそれは、別に満更ではない褒め言葉だった。
この人物が、俺の愛刀―――音無を鍛え上げた張本人。
幾千幾万と戦おうと、敵を斬ろうと、刃こぼれもせず。そしてあの秘剣を使おうと―――全く堪えもせぬ名剣。
「私の造った刃を二本惚れさすだなんて、私も初めて聞いたわ。たまに主べったりな剣や槍はいるのだけど、二本にも好かれるだなんて、長い間生きてきて、色んな品物を作ってきたけれど、初めて聞いたわ」
「…」
「私の刀や槍は、そう人に惚れないわ」
ニヤリと葵は笑う。
「大概は人を振り回す魔剣や妖刀。そこの舞雪ちゃんの持っている『寂静』も、舞雪ちゃんが神だから従っているだけよ。舞雪ちゃんが人間だったらとても扱えないであろうシロモノだし、神たるあの子だって十全には使いこなせていない」
それは一度、霧夜も舞雪から聞いていた内容だったが、改めてそれは、本人の口から語られる。
「人の身で、若い身空で、良くもそこまで鍛えました。褒めてあげるわ。そして精進なさい。私の刀は、霧ちゃんの成長にどこまでもついていくわ」
「ありがたいことです」
「とりあえず刀の話題はこんなものね。とりあえずはいいにしろ」
葵は扇子を弄びながら、どこか人を食ったような笑顔だった。
「霧ちゃん。私は愛弟子の、最後の時を見届けに来た…といっても信じるかしら?」
「…」
霧夜は黙っている。答え方が分からないからだった。あからさまな戸惑いだった。拝殿の中から、舞雪が心配そうにやりとりを見つめていた。
が、葵は鷹揚で、一向に気にした素振りもなかった。それはマイペースなのではない―――傲岸で傍若無人であるからである。
「舞雪ちゃん」
「!?」
「昼は私が作ったげるから食べなさい。あと霧ちゃんも」
「…どういう…」
「私がそういう気分だからよ。逆らったらブチ殺すわよ?」
どうしようもない断言であった。ああ、この人は本気なのだと、音無霧夜はその時思った。
雪が続いていた。
*
「…つくづく、ここまで、馬鹿な子だとは、思わなかったわ」
午後。
消沈する舞雪を置き去りにするように、葵は参道へ足を向ける。ドン底に沈みながらも、それでも希望に縋る神を残し、鷺山葵は参道を下る。
その長い髪を追うように、一人の黒いロングコートの姿があった。
葵の草履の歩みは軽快だが、多分軽快以外はないのだろうと霧夜は思う。葵は涼しげで、かつ妖しげで、そして傲岸で、大胆不敵だった。
―――それであってこそ、神の師が務まるであろうと、そう思わせるには、十分だった。
「…どうして、葵さんは、舞雪を教えることに…?」
「そうね。昔話になるわ」
霧夜の問いに葵は振り返らない。ただその歩みが遅くなった。頭に積もらないほどの小さな粉雪が乱舞する世界。薄暗いと思いきや白く輝くような参道。
その中で、鷺山葵は振り返る。切れ長で美しくて、バケモノのような瞳で、剣客を見た。
「私は、私が何者なのかも覚えてないわ。それでさえも、もうどうだっていいほどを長く生きた。あの子の数百年に比べても、多分はるかに長いでしょう」
「…」
「基本的に、全てがどうだっていい、そんなスタンスなのだけれど、まあ、一部例外もあって、それがあの子とかになるのかしらね」
葵は笑った。
「私は、鎌倉から室町の時くらいはね、日本アルプスに庵を構えて住んでいたの」
「深山ですか」
「そうね。そこに、およそ十月前後に、神が集まる機会があったわ。この国の神の一部が、出雲に集まる神無月―――それは霧ちゃんも知っているわね?」
神無月。それは、日本の国津神が、出雲に行き、会議を行うという―――その十月のことである。
「舞雪ちゃんも、一時期は出雲国まではるばる行って、その神々の会議に出席をしていたわ。その道中に、私の庵があったのよ」
「それで」
「一部の土地神が何故か私を慕ってね。何人かが庵に居候したりで、まあ、私はまともに教えたことはない―――盗めというスタンスでいたつもりだけれど、舞雪ちゃんも例外ではなかったわ。それはそうと、」
葵はそこで目を閉じた。パチンと扇子を閉じる音がした。どこか冷たく、ジロリと木立の上を見つめた。
「盗み聞きとはよろしくないわね?霧ちゃんはともあれ、私の目を誤魔化せると思って?」
「…うわぁ、お師匠様相変わらずだぁ…」
「降りてきなさい藤乃ちゃん。物干し竿に吊るされたくなくば」
「永遠子様が許さないよ!」
「永遠子はそういう俗なことには一切文句は言わないわ、貴女も分かり過ぎるほどに分かっているはずなのに私に口答えするなんて」
葵は不意に、くいと何もない空間をつまんだ。その瞬間、そこに耳を抓られて悶えている―――一人の少女の姿が出現する。
ロングコートのダブルボタンの制服に、制帽をかぶったツインテールの少女だった。
「あだだだだだだ!!!お師匠様容赦ない!!!てか私上で見てたつもりなのに!!!何でいつの間に!?!?」
「死神風情が、私に逆らえるとちょっとでも思って?」
「あだだだ、痛い痛いお師匠様!!ギブ!!ギブ!!」
「しょうがない子ね」
そう言って葵は少女の耳を放す。「いでで」と言う少女の耳が腫れあがっているが、すぐにそれはみるみる色を戻していく。やはり尋常の少女ではないようだった。
霧夜は彼女を見かけている。
あの白い駅のプラットフォームで―――舞雪と挨拶をかわし、そしてゆかりと一緒に行ったはずの少女だった。
その少女はツインテールを跳ね上げて、ニヤリと霧夜と葵を見た。
「やあやあゆかりちゃんのお兄ちゃん、そして愛しのお師匠様。色々面白いことを話してるようだから盗み聞きしてたんだけど流石はお師匠様だね」
「でもまあ、そこそこだったわ。今の舞雪ちゃんの状態じゃ貴女には気づけないでしょうし、霧ちゃんにも悟られないとは。腕を上げたわね、藤乃ちゃん」
「まあ、こうなって百年以上、私もそこそこには修練を積んだつもりですしおすし」
ツインテールを翻し、悪戯っぽく笑顔の小柄な少女。霧夜は小さく、声を上げた。
「ゆかりは、大丈夫なんですか」
その言葉に、葵と、少女―――藤乃はきょとんとして、一瞬の後に藤乃が吹きだした。霧夜は大真面目だったが、藤乃は大笑いだった。
「あっはははははははははは!!!大丈夫だよお兄さん!!!ゆかりちゃんを放っぽっておくわけないでしょ!?あの永遠子様だって私だって、あっちとこっちに分身…ってのもでもないけど、そんくらい訳ないし、第一この姿が仮初って分からないほどお兄さんノロマでもないでしょ!?あーおかしい…でも分かる」
その後、藤乃は白い手袋をかざして制帽をかぶり直し、八重歯を見せて
「だから、お兄さんは、ゆかりちゃんを救えた」
それだけを言った。葵は「その通り」と追って肯定した。藤乃は参道の奥を見つめた。霧夜と葵が降りて来た先。微かに見える大きな二の鳥居。
「あのお雪は、さっさとそれに、気づけばいいのに」
「―――あの子は、だから、誰も救えないのよ」
どこか嘆くような声でもあり、どこか試すような声でもあった。
「自分が可愛いのよ。あの子は」
「お雪は、まあ、お兄さんやゆかりちゃんを気遣っていない訳じゃない。気遣ってるのも、間違いないけれど、それはね、でも、自分のためなんだよ」
藤乃はそう言った。霧夜はただ黙って聞いている。藤乃―――舞雪の従姉妹と名乗っていたことも、今更だが、ほんのり思い出した霧夜だった。
藤乃も、この葵を、師と呼ぶ―――そういう関係なのだろう。生前の従姉妹でもあったが、神と成ってからも、交友があった。藤乃もまた、神だったのかも知れないと思う。
あんなところで、あんなことをやっているけれど―――死神だって、神といえば神な訳で。
藤乃は続ける。
「あの子は自分が可愛い。いや違う。自分の最後が可愛い、最優先。自分の最後を綺麗にしたいという願いが最優先にあって、だからこそ、捨て身になれない」
「捨て身?」
「霧ちゃんは捨て身でゆかりちゃんを愛した」
葵は言った。何もかもを見透かした瞳で。それは、愛情深い瞳だった。
「最初の晩からそうでしょう。あのサバイバルグッズだって、柚希ちゃんを斬り殺せば、自分が入用になるのかも知れないのに、躊躇いなくゆかりちゃんに渡した。最後の時も、見送る時も、己を殺して、彼女の為にと、それだけを思い、そしてさっきもそう」
「私の氏素性を聞くよりも、自己紹介よりも、ゆかりちゃんの安否を最優先にした」
「それが捨て身でなくて何なの。あの子に届かないところがそこなのよ」
葵は言った。厳しく優しく愛おしく、全てが詰め込まれた口調と断言。藤乃が笑う。
「だから―――お師匠様は、それに気づいて欲しいだけなんだ。人を本気で愛して欲しいだけなんだよね、きっと」
「パラドキシカルだけれど、あの子がこれ以上悲劇を増やさないためには、あの子は自分への未練を捨てなければならない。自分のためではなくて、他人のために、他人を愛すること」
葵はそう言った。その瞳は優しく剣客を見つめている。
「…霧ちゃん。貴方はまだ、柚希ちゃんを斬り殺すつもりはあるかしら?」
―――そんなことを何一つ言った覚えはないのに、最初から知っているようにこの葵は言った。それが空恐ろしく、しかしそういう存在だとも分かっていた。
そして自分が何者かを全て知ってなお、そう問いをかけられるのは、霧夜は、何故か、嫌いではなかった。
プライベートを浸食されているはずなのに、抵抗感が湧かないのは、―――そういう関係を、どこかで望んでいたからだろうか。それを思う。
「…分かりません」
「まあ、そうするつもりは、多分ないと思っているわ。貴方の中で、ゆかりちゃんが、そう抑えているでしょう。ゆかりちゃんは、止めこそしなかったようだけれど」
「…そういう子です」
「ゆかりちゃんも、本当に良い子なのは、私も分かるわ。私と一番に似た刀が愛した主だものね」
そう言って葵は微笑む。藤乃は「まっさか小紫があんなんなるとはねー」と言いつつも、どこか悪戯っぽい笑みだった。
「あんな性格じゃなかったと思ったのに、惚れると変わるねお師匠様」
「藤乃ちゃんの目は節穴だから分からなかっただけではじめからアレよ?」
「節穴認定だ…」
「何も見えてない分かってないおバカさん認定なのは、今更私の盗み聞きをおっ始めようだなんてクソ度胸と合わせて昔からよ藤乃ちゃん」
「褒められてるのかそうじゃないのか分からないよお師匠様!」
「罵ってあげようかしら?」
「やめて心折れるから!!」
漫才のようだったが実際漫才なのだろうと霧夜は思う。―――ここの間に舞雪がいたと思うと、確かに、その庵に居たくなる気持ちが、霧夜にはちょっと分かった。
神をも届きえぬ妖。仙女だとも天女だとも言われる大妖怪。
それの下に集って、色々聞いたり術を見たりご飯を食べたり―――それは、きっと楽しいのだろうと思う。
その昔日の幻が垣間見えるようで、だからこそ舞雪はこの師を慕い、そしてあの駅で友に縋った。
ダイヤモンドダストの参道。藤乃は改めて踊るようにステップを踏み、八重歯を見せてのドヤ顔だった。霧夜を見据えるその紫の視線は、小紫のものとは違う少女っぽいそれだった。
「さて、改めて自己紹介しなければならないかなお兄さん?今は永遠子様の眷属をしている藤乃といいます、本名平藤乃、―――元平家のお姫様よ」
「…音無霧夜と申します」
「良く聞いてるよ、ゆかりちゃんから。本当にいい男だってね」
藤乃は悪戯っぽく、しかし優しい瞳だった。
「生前からお雪とは友達で、やっぱり私もある場所で神様になって、お師匠様の弟子になって、お雪とはずっと仲良くしてたけれど、私も神社を喪って久しいんだよね」
「神社を」
「というか、私を祀っていた集落自体が消えうせて廃村になって、今は欠片も残ってないし、伝承も消滅して、この世に私の存在を知る人物なんて、それこそお雪とかお師匠様しかいない。まあ、そこで永遠子様とやっぱり縁があって何故かこんな車掌さんをやっているのです」
―――藤乃は舞雪と似た経過を辿ったらしい。消えるかと思ったら、そんなことはなかった。―――神ではないナニカになって、仏の眷属となって働いている。
「それがいつになるのか、私にとっての終着駅がどこになるのか、それがどんな形になるのかは分からないけれど、永遠子様は私に必要だから働かせている。それは多分絶対。終わりがいつになるのか、どこにあるのかも分からずただずっとこうやっているけれど、―――まあ、それでもいつか辿り着けると信じてずっと列車に乗って旅をしているわ。そして、今回、我が友の駅に来てしまったと、そういう訳なのさ」
車掌であるが、同時に旅人は、そう言って笑った。
「だからこそ、私はね、従姉妹にも笑って欲しい。その願いは、多分、従姉妹と同じ。だから、お師匠様も、私も…」
「…」
「お師匠様は、ものすごく気まぐれで、ものすごく強いけど、でも物凄く優しいから、だからあのお雪に、今更手を出そうとしたんだよね」
「私のガラじゃないわ。本当にね」
「お師匠様。でもお師匠様は、昔からそうだよ」
藤乃は微笑んでいる。
「私の時も、そうしてくれたじゃん。…お雪の時も、そうしようとしてくれる。だから、私も、雪も、お師匠様って呼ぶんだよ」
「本当に物好きな子達ねえ」
「物好きで大いに結構!お師匠様ラブい!」
そう言って抱き着いてくる弟子を葵は拒否しなかった。体幹がグラリとも傾かない。それが師だった。
葵は藤乃にハグされながら、ゆっくり歩みを進み始める。そして、後ろも振り返りもせずに、
「…霧ちゃん。もしも、本当に、霧ちゃんが望むのであれば」
「…」
「あの子に、目をかけてやって頂戴。神ではない、人としての、あの子に。貴方の心が、潰れそうなのを、百も承知で―――そう願うわ」
―――それは深くて広くて暖かい願いだった。
この白銀の温泉郷に、広大な温泉が現れたかのような幻に思えたけれど、霧夜はひとまず、それを棚上げにした。
だがその言葉を聞いたという意味で頷いた。葵はただ微笑んでいた。
午後は暮れる。




