20.葵
一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。
だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る。
(ヨハネ 12.24〜25)
舞雪姫は、ただ拝殿に居た。人間の形も、取っていなかった。
ただ、深い悲しみの気配だけが拝殿と本殿に満ちて、それを白妙真冬は感じ取っていた。
「―――雪御前様…」
真冬は神社の娘である。幼い頃からずっと此処にいて育ってきている―――故に薄々気づいている面もあった。
真冬は粉雪の中で、拝殿を掃除しながら思う。
―――ゆかりが行ってしまったのだろうと思う。
真冬には分かっている。あの幻想のような風景。柚希は何の疑問も抱いていないようだったが、その趣味も相まって、あの雰囲気が変なのは分かっていた。
きっと、ゆかりは、行ってしまったのだ。どこか遠くへ。
―――帰ってきたかと思いきや。
ほとんど、何も言わずに、さようなら。
―――みんなで、ここで、挨拶をしたかったのに。先に遠くへ行ってしまった。お別れの微笑みだけを残して。
神様―――雪御前様は無念だと思う。真冬には、薄々分かっているのだ。それを口に出すことは、きっと今なら、許されると思っていた。
昼ではあるが、雪である―――拝殿は薄暗い。その真ん中で、真冬は正座をすると、神鏡と幣束に向かって、声を出した。
「雪御前様―――ゆかりさんは、行ってしまわれたのでしょうか」
「…」
「…それを、悲しまれているのでしょうか」
「…」
「…雪御前様、いや、舞雪様、…教えてください、どうか」
―――返事があった。
泣き濡れた返事だった。
「馬鹿者。…いらぬことに気がつきおって…っ」
姿はなくとも声は響く。真冬は泣きそうな顔だった。
「…雪御前様…」
「真冬。その通りじゃ。ゆかりは行ってしまった…もう二度と逢えぬ遠くへ…」
それだけの言葉。真冬は唇を噛む。あの白神荘の晩―――担ぎ出されていった彼女なのである。
真冬はだから、あのままアレルギーで帰らぬ人となったのだと解釈していた。
「…柚希さんは、知ったら後悔します…」
「告げぬでよい。いつかあの子も分かる」
「…緋那先生は、御存じなのですか」
「知っておる。それと、ゆかりのその後は、そっとしておいてやってくれぬか…あの子が、可哀そうじゃ」
それは半分事実で、半分が誤魔化し。諸々を知らぬ真冬への配慮であった。真冬は俯き、少し考えてから、頷いていた。納得は出来ないけれど―――ここの神様のご指示なら。そう思っていた、真冬だった。
「…雪御前様でも、病気はどうにもならなかったのですね…」
「…神で病が癒せるのなら」
「はい」
「ここの里人は、誰も病にならぬ」
―――神はそう言った。「はい」と真冬は頷いた。その通りであった。
「おぬしの父が雪下ろしの最中に足を折ったように、わらわが目をかけていても、なる時はなる…」
「…では、失礼を承知で、雪御前様は、…神というのは、どうして、どうして、存在して居るのでしょうか…」
震える声だった。それは余りにも不躾な質問にも思えたし、真冬もそれはどうしようもなく承知している―――だが、ゆかりが彼方へ行ってしまった以上、どうしても聞かねばならなかった。
そうでなくば―――どうにもならないという、真冬の決意だった。
震え怯える巫女に、舞雪の声が木霊する。
「…神はの、真冬」
舞雪は謡うような声。
「人が造るのじゃ。人が信じる先に神は在る。厄病神や悪神が存在しているように。そう思われたものは、そうなるのじゃ―――神と呼ばれる、力にすぎぬ」
「…」
「疫病が流行れば、人は死ぬ。倒れる。その力を、力の方向を―――片仮名で言えばベクトルというもの、力の方向を人が観測した時に、その力に対して、人が名をつけ、祀ったものが、神なのじゃ」
「…」
「わらわも、かつて―――人であった。それは真冬も、良く知っての通りじゃ」
舞雪はそう言った。
「わらわの力。里を束ねた力。武者たちを率いた力。それらは確かにあった。この郷を切り拓き、作り上げ、人が住めるようにした力。わらわの力だけではないが、わらわの力が、その中心にあった」
「…その力が…」
「そう、それを信じて、多くの人が祀ったからこそ、わらわは神と成った」
ふわりと神鏡の前の空間が輝いた。白い輝き。それは人の形を取り、白い着物を翻す一人の少女の姿となった。碧の瞳が、頭を下げた真冬を見据えていた。
「神は気ままで気まぐれで―――勝手なものでの。感情がある。好き勝手に人を峻別し、判断し、加護するしないを決め、時として祟りまでをも及ぼすこともある」
「…」
「そして、そうはいうものの、案外大したことも出来ないのじゃ。特に、この氏子も少ない神社などではの」
舞雪の微笑みは雪のように儚い。
「大概は病も治せぬ。特に抗いようのない不治の病となれば。奇跡は起こせぬ。出来たとしても、延命のみじゃ。奇跡を起こすこともあるが、滅多にあるものではない」
「―――」
「宝くじを当てたり、学業成績を伸ばしたり、自在に人を大学に入れたりも出来ぬ。要は、人に、過ぎたる力を与えたりすることは、出来ぬのじゃ」
それは元々その人物に、それに耐えうる器がないから―――と舞雪は言った。
それに、宝くじや大学などは、全国単位で枠がある―――所詮は一神社の神である舞雪の裁量の、及ぶところは到底ない。
「知恵を授けたりも出来ぬ。神にいくら願えど、突然人の頭が良くなることはないように。人を治すこともそうじゃ。突然病が治ったりもせぬ」
直接的な干渉は何も出来ぬ、と神は言った。
「ただ、悪鬼悪霊相手は別じゃ。人ではなく神霊の領域のことであれば、干渉は出来る。それらが憑いて悪さをしているのならば、落とすことも出来ようが、その程度じゃ。それで良くなるのであれば、良くなることもある。しかし、そうでないならば、大抵のことは、出来ぬといった方が正しいくらいじゃ」
「…」
「ただ、この領域の中であれば、人の運をある程度操ったり、縁を操作したり、そういう個人への干渉は出来たりもする。特に御守などがあれば、の」
だが、それも所詮は程度じゃ、と神は言った。
「縁結びと言うても限界はある。人と人とを取り持つこともできようが、神といえど、特にわらわなぞは、自分の力が及ぶのはこの郷の中のみ。都合良くそうそう縁を引っ張ってはこれぬ。いきなり都会の真ん中から、運命の人を引っ張っては来れぬし、それは真冬も理解できることであろう?」
「…それは…そうですが…」
「御守を持っていても、交通事故が起きる時は起きる。しかし、持っていることで、避けられることがある、しかしそれには気がつかぬし気づけぬ。その程度のものに過ぎぬ」
「…」
「―――失望したか?案外無力なのじゃよ、神などというものは。むしろ…」
「むしろ?」
「『自分の実力が発揮できますように』という願いの方であれば、実力が十全に出るよう、加護も出来たりもするのじゃが、そう願う者はそう多くはない。身の丈に似合わぬ願いや、世界に干渉する願い、わらわの権限を越えた願いの方が、実際ははるかに多い」
舞雪の儚い、自嘲的な笑みだった。遠くを見るような瞳。
「…神が願いを叶えられるのなら…」
「…」
「わらわも、ここを沈ませぬよ」
その言葉に、ただ、白妙真冬は沈黙した。青白い沈黙だった。粉雪の音。音の無い音。しんしんと降る音。風もなく雪の舞い降りる音。
冷気の満ちる空間の中で、真冬は息を吐きだした。縋るような、黒い瞳。
「でも、雪御前様は、…最後に私の前に、現れてくださいました」
「ふ、真冬の願いに応えてか?」
舞雪はただ笑う。膝をつき、真冬の頬にその白い手を添えた。雪のように、悲しげに笑っていた。
「…おぬしらに、笑っていて欲しかったのじゃ」
「雪御前様?」
「最後まで、黙っているつもりじゃった」
微笑み。
「―――おぬしらが、最後に、良い思い出を残せるように。一緒に色々遊んだりとかしての。…最後の思い出がこれで良かったと、そう思って貰いたかった」
「…雪御前様…」
真冬の瞳が涙にひび割れる。舞雪も涙を流していた。最早綺麗事を言っていられる場合でも、なさそうだった―――その余裕のなさを、自分でも感じていた。
「…ゆかりには、そう思って貰えなんだ…」
「…雪御前様…」
「あの子にも、ただ、笑っていて貰いたくての…」
神の嗚咽。―――だがその願いは叶わなかった。叶わなかったのだ。真冬は歯を食いしばったが、そこまでだった。ただ正座のまま、舞雪の前で再び深く俯いて、涙を流していた。
神を以てしても叶わぬ願い―――叶わぬ願いばかりなのだ。舞雪は思う。何故神はこうも無力なのだろう、何も出来ないのだろう―――己の願望一つさえも叶えられずに、氏子や巫女にまで嘆かせて―――一体、何が神だというのだろう。
笑っていて欲しかった。
それさえも叶わずに、遠くへ行ってしまった。
舞雪は嘆き、涙を、流した、その瞬間に。
声がした。
「黙って聞いていれば、―――何一つ分かっちゃいないわね。どうして貴女の願いが叶わないか?そんな当たり前のことさえも、知らずに綺麗に泣こうだなんて―――最早、この私が、いい加減に、腹に据えかねたわ」
「!?」
舞雪が顔を上げた。何が起こったか分からなかった。
舞雪がぶっ飛んでいた。何か衝撃に飛ばされたのだ―――何の衝撃かも舞雪は理解できなかった。この境内の中で、そんなことはありえないはずなのに、―――いつの間にか現れていたその気配に、突き飛ばされた―――いや、ブン殴られたような衝撃と共に吹き飛んだ。
舞雪の身体が拝殿の奥に吹き飛び、榊や神鏡を薙ぎ倒してひっくり返る。
拝殿の中に、一つの姿があった。真冬は顔を上げる。一人の女性の背中。いつの間に居たのか―――瞬間移動でもしてきたのか。ただ度肝を抜かれる風景だった。
黒い艶やかな長い髪を翻し、妖艶な切れ長の瞳をした美女だった。
覗色の紬に紺青の羽織をふわりと纏い、小紫にも似た妖艶で魔性の瞳が舞雪を見据えていた。
その瞳はどこまでも海底のように深く、底知れぬ深淵の青だった。
そんな美女が、その右腕を、握り拳にしていた。
「ご無沙汰してるわね?舞雪ちゃん。黙ってお見送りするつもりだったけど、貴女の余りもの物分かりの悪さに思わず鉄拳制裁だわ。愚鈍すぎてお話にもならないわね」
その言葉に、舞雪はゆっくりと顔を起こす。その瞳が、信じがたいものを見た眼だった。目の前の現実を捉え切れていない顔だった。
その碧の瞳が、幼くひび割れる。そこに居たのは、神でも、人でもなく、少女だった。
少女の瞳が、来訪者を見据えて、そしてその唇が、すがるような声を発した。
「お、お師匠様…!」
「…!」
真冬は目を見開く。師匠―――それだけで、この人物が、舞雪以上の何かであることを鋭敏に察したのだった。飛びのくように拝殿の隅に移動したが、『師匠』はそんな真冬に一瞥をもくれなかった。
「―――お師匠様…!!」
「舞雪ちゃん。今回のことは知っているわ」
「お師匠様は…」
「全部見ていたわ。そして何も言わなかったわ。貴女自身の最後だし、そこで手取り足取りなんて、到底私のガラじゃないもの。そんでもって、貴女がまるでいいところがないところ、情けないところばかり晒しているのは、全部分かっていたけれど―――でも、余りにも情けなさ過ぎてね」
拝殿の畳の真ん中に立ち、あるはずのない風を纏い髪を靡かせて、美女はただ酷薄に見える笑みであった。
だがその唇だけが、どこか優しい形なのを、舞雪は知っていた―――昔からそういう、師であった。
舞雪は立ち上がった。よろめきながらであった。師に縋るような瞳だった。到底それは、神の姿ではなかった。
「お師匠様、わらわはどうすれば良い!?どうすれば良かっ」
最後まで師はものを言わせなかった。瞬発力。舞雪の顔を右手の掌で鷲掴みするや、そのまま畳に叩き伏せていた。轟音。拝殿に積もった雪が全て飛び上がるほどの衝撃だった。真冬が心臓を縮ませるに十分だった。
アイアンクロー。
師―――葵は、舞雪の頭をギリギリと抑えながら、マウントを取って、ただ酷薄な笑みだった。
「分からないの舞雪ちゃん?本ッ当に物分かり悪いわね。小紫の言葉の一つくらい、思い返してみなさいな」
「こ、こ…」
「あの子はね、私の作った刀の中でも―――良く私に似た業物」
葵は愛おしそうに―――自らが造った刀の名を呼んだ。
そう、葵。
彼女こそ、『日ノ本最強』の名を取り、『小紫』や『音無』を鍛え上げ―――かつて神と成ってから間もない舞雪に、昔、色々な、稽古をつけていた―――何者かであった。
何者かは誰も知らなかった。
誰も知らない、正体不明の妖女である。
そんな妖女は、神を容易くねじ伏せて―――自らの造った付喪神の名を呼んだ。
「では問うわ舞雪ちゃん?愚鈍な私の弟子。答えによってはタダでは済まさないわ。…貴女は何のために涙を流しているのかしら?」
「何の、ため…」
「そう。何故貴女は涙を流しているのかしら?」
沈黙があった。絶句に近いものであった。葵は舞雪を叩き伏せているが、その実圧力は緩めている。舞雪は顔半分を師の掌に覆われながら、必死で息を吐いていた。人の身体なんて仮初なのだから、そうする必要もないのに―――師の前では無力だった。
だが、その息が柔らかくなっていくのを察して、葵は口を開いた。
「…分かったかしら?」
「悲しい…無念だからじゃ…」
静かに、枯れ葉が一枚、舞い降りるかのような声だった。葵はお澄まし顔だった。怒っているようには見えなかったが、何を考えているのかは分からない。
「そう。じゃあ、何が無念なの?舞雪ちゃん。答えてみなさい」
「…この郷の、」
最後まで言わせなかった。葵は怒気を発した。
「分かっているじゃない、この薄ら馬鹿」
拝殿が震えた。時間でさえ息を呑んで止まってしまいそうな迫力だった。人ならぬそのやりとりに、真冬はとっくに気絶してしまっていた。
「分かっているじゃない。分かっているのに何故見えないのかしら。馬鹿だからかしらね」
「―――すまぬ、お師匠様…!わらわ分からぬ…!!」
畳に横たわりながら、組み伏せられながら、最早それは泣きじゃくる声だった。神であるが故に誰にも頼れぬ、頼る者も術も持たぬ、かつて一人の少女であった存在だった。
神というには、余りにもひ弱すぎる存在だった。だがそれで良いと、葵は思って憚らなかった。むしろそれで良いと、そう思っている葵なのであった。
葵は特大の溜息だった。
「宿題を出すわ、舞雪ちゃん。ヒントは、霧ちゃんと、永遠子よ。特に、霧ちゃんね」
「霧夜…」
「あの子は、あの子自身も気づかぬうちに、貴女には欠けていることをした。だからこそ、音無の刃は―――ゆかりちゃんに届いた。ゆかりちゃんも、小紫も、霧夜ちゃんだからこそ、素直に殺されることが出来たのよ」
あの子でないと、出来ないことを、やった。
葵は拘束を解いて立ち上がった。だが舞雪はそこに横たわったまま、嗚咽を漏らすだけだった。
葵は彼女を見下ろして続ける。
「貴女では、決して、あの子を殺すことは出来なかった。悪霊と化した彼女を、封印するのが関の山。無理やり消滅させることも出来なかったでしょうしね」
「…」
「―――でも、もしも、貴女が、舞雪ちゃんが、ゆかりちゃんに届く何かを得ることが出来たのなら」
―――出来たのなら。
「その時、貴女は、霧ちゃんを救うことが出来るでしょう」
「霧夜を…」
「あの子は、まだ、この郷に来た目的を達していないわ。そうでしょう?」
葵は扇子で口元を覆って笑った。それは三千世界の花が蕾に戻るのではないか、そう感想を抱かせる妖艶な仕草であった。
そこで初めて、葵は外に目を向けた。
雪を踏む足音がしたからだった。
「―――来たようね、主賓が。私も、このいい男、話してみたいと思っていたのよ―――」




