第84話 水の無い領地
見上げた青い空には、雲一つなかった。
空だけ見れば、気持ちのいい朝だ。
だが、その下に広がっている街は、とても爽やかなどと言える状態ではなかった。
歪んだ道に止まった水路、すすけた建物。
そして痩せた領民。
中には首元に、隷属の首輪の跡を残した人々もいる。
そして、俺の目の前には、きっちりした身なりの男が一人。
セドリック=モラート。
新しく得たラッシュバック伯爵領の、臨時代官だ。
その男は、実に丁寧な口調で、俺の伯爵領経営初日にふさわしくない現実を突きつけてきた。
「予算がありません」
「いや、足りないのは分かった。具体的にどのくらいだ?」
「足りないのではありません。ありません」
「・・・本当にゼロか?」
「今日この場で使える金は、完全にゼロです」
俺は思わず空を見た。
雲一つない。
逃げ場もない。
マジか。
いや、マジなんだろう。
だが、さすがにゼロとは思わなかったぞ・・・
セドリックの顔に冗談の気配は一切ない。
冗談を言える人間の顔ではないし、言う場面でもない。
エマが隣で、少しだけ眉を寄せる。
「旧領主派が持ち逃げした、ということ?」
「はい。現金化しやすいものは、ほぼ消えています。領主館の金庫は空。倉庫の記録は信用できず、鉱山収益も帳簿上は存在しているのに実物がありません」
「帳簿上はあるのか?」
「あります」
「現物は?」
「ありません」
「それ、帳簿っていうより創作文書じゃないか?」
「私もそう思います」
セドリックは淡々と頷いた。
怒っていないわけではない。
むしろ、淡々としすぎていて怖い。
こいつ、帳簿が嘘をついていることに本気で怒っているタイプだ。
たぶん不正が嫌いなのだろう。
それも、感情的に嫌いというより、世界の秩序が歪むことそのものに腹を立てる人間だ。
「つまり、金はない。物資も少ない。税収も信用できない。鉱山も止まっている」
「その通りです」
「どうしろと?」
「まず、金の話は後です」
「今、金がないって話をしてただろ」
「はい。ですが、金がなくても人は今日すぐには死にません」
「・・・何が足りない?」
「水です」
セドリックの声は、そこで初めて少し重くなった。
俺は周囲を見た。
止まった水路。
黒く乾いた泥。
水の気配がない溝。
さっきから気になっていた。
だが、金がないという衝撃で、意識がそちらに引っ張られていた。
「案内してくれ」
「承知しました」
△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼
共同井戸の周りには、人が集まっていた。
いや、集まっているというより、並ばされているように見えた。
桶を抱えた女、痩せた子供、腰の曲がった老人や、首輪の跡を隠すように襟元を握る男たち・・・どう見ても社会的弱者というやつだ。
そして、その列の前の方には、やけに態度の大きい男たちがいる。水場を守っているのか、支配しているのか。少なくとも、穏やかな空気ではない。
井戸から引き上げられた桶の中を見て、俺は言葉を失った。
濁っている。
土色の水だ。
表面には薄い油膜のようなものが浮き、底には黒い沈殿物が溜まっている。
水と呼ぶには、あまりにも汚い。
それを、痩せた女が布で濾していた。
布で濾したところで、飲めるようになるとは思えない。
「これを、飲んでいるの?」
エマの声は静かだった。
だが、その静けさの奥に、はっきりとした怒りがあった。
セドリックは表情を変えないまま頷く。
「飲まなければ、死にますので」
「煮沸は?」
「燃料が足りません。できる者はしていますが、全員分には足りません」
「水路は?」
「本来なら、北側の導水路からこの区画へ水が回ります。現在は閉塞しています」
「井戸は?」
「地下水層が汚染されています。原因は、排水の逆流と水路の放置と見ています」
俺は井戸の中を覗き込んだ。
臭いがある。
腐った水と、泥と、生活排水の混じった臭い。
これは駄目だ。
まともな水がない。
食料や寝床も大事だ。
だが、人間は水がなければすぐに死ぬ。
三日。
条件が悪ければ、もっと早い。
俺は小さく息を吸った。
(アル)
『はい』
(水質は?)
『飲用不適。細菌性汚染、腐敗物質、微量の重金属反応を検出』
(原因は?)
『水路閉塞による生活排水の逆流。井戸周辺の排水不良。加えて、北側導水路の意図的封鎖が疑われます』
(意図的?)
『自然崩落では説明できない構造変形があります』
(後で見る。まず水だ)
『了解しました』
俺は周囲を見た。
子供が一人、母親らしき女の後ろで腹を押さえている。
顔色が悪く、唇も乾いている。
母親は、俺たちの視線に気づくと、慌てて子供を隠そうとした。
貴族に見つかったら何をされるか分からない。
そんな反応だ。
エマが先に膝をついた。
「大丈夫。取って食べたりしないわ」
「・・・」
「この人は、助けるために来たの」
「エマ」
「ええ」
俺は子供の前にしゃがみ込んだ。
母親はまだ怯えている。
だが、逃げる力もないのだろう。
俺は子供の額に触れるふりをしながら、アルに診させる。
『軽度の発熱。脱水症状。腸管感染症の初期症状を確認』
(応急処置)
『ナノマシン投与、最低限に限定。外部からは治癒魔法に近い微弱発光として偽装します』
(頼む)
俺の指先が淡く光る。
母親が息を呑んだ。
周りの住民たちも、遠巻きにこちらを見る。
子供の呼吸が、ほんの少しだけ落ち着いた。
完治ではない。
だが、今この場で命が削られていく速度は落とせたはずだ。
次に、俺は手を広げた。
空気が震える。
湿った風が、俺の掌へ集まる。
目に見えない水分が凝集し、透明な水球になった。
濁りのない水。
泥の臭いもしなければ、腐った臭いもしない。
ただ、澄んだ水だった。
住民たちが固まった。
俺は水球の一部を小さく分け、子供の口元へ運ぶ。
「少しずつ飲め」
子供は母親を見る。
母親は震えながら頷いた。
子供が水を飲む。
一口。
もう一口。
その喉が動いた瞬間、母親の顔が崩れた。
声を上げて泣いたわけではない。
ただ、子供を抱きしめたまま、声を殺して泣いていた。
周囲から歓声は上がらなかった。
誰も、そんな力を残していないのかもしれない。
けれど、空気が変わった。
濁った井戸の周りに、初めて別のものが混ざった。
希望、と呼ぶにはまだ弱い。
だが、少なくとも諦めだけではなくなった。
(アル、ここに貯水槽を作る)
『周辺素材の魔法による再構成を提案。内壁はナノマシンで衛生維持用の薄膜コーティングを施します』
(よし、やるぞ)
『了解』
俺は井戸の脇の空き地へ向かった。
崩れた石材、割れた桶、使われなくなった水鉢。
周囲に散らばったそれらが、細かく震え一か所に集まる。
地面が掘られ、掘られた分だけ周りに壁ができる。
土だったそれらは、水槽の形になるとコンクリートのように強度を増した。
石がタイルのようになり、貯水槽の外側に敷き詰められていく。
そして、内側は滑らかに整い、薄く透明な膜で覆われていった。
あっという間に、腰ほどの高さの臨時貯水槽ができた。
俺はそこに水を満たした。
無尽蔵ではない。
領地全体を支えるには、こんな方法では効率が悪い。
だが、今ここで死にかけている人間をしのがせる程度なら、とりあえずは十分だ。
『ミネラル成分添加。水質調整完了。飲用可能』
「よし」
俺は周囲を見渡した。
ひとまず水を出したが、このままでは奪い合いになる。
命に関わる資源は、人を善人にも悪人にもする。
いや、むしろ本性を剥き出しにする。
配る人間が必要だ。
それも、順番を決められる人間。
人に食べ物や水を出す現場を知っている人間。
俺は、さっきから少し離れた場所でこちらを見ている女性に気づいた。
三十代後半くらいだろうか。
やつれてはいるが、目は死んでいない。
水槽と列を交互に見ている。
怖がっているというより、どう並ばせるべきか考えているような目だった。
「お前、仕事は何をやっていた?」
「・・・え?」
「前の仕事だ。何をしていた?」
「小さな食堂を・・・やっていました。もう、ありませんけど」
「名前は?」
「ネネスです」
「ネネス。なら、ここは任せた」
「え?」
「子供、老人、病人が先だ。次に、井戸水で腹を壊している奴。元気な奴は後ろで待たせろ。桶は一人で抱え込ませるな。できるか?」
ネネスは、一瞬だけ水槽を見た。
それから、列に並ぶ人々を見た。
最後に、俺を見た。
「や、やります」
「任せた」
「ですが、私が・・・」
「食堂をやってたんだろ。水と食い物を人に出す順番くらい分かるはずだ」
「はい。でも・・・」
「安心しろ。秩序はこっちで見る。不正は精霊が裁く」
「は、はい」
ネネスの背筋が、少しだけ伸びた。
その瞬間、周囲がざわついた。
女に任せるのか。
店を潰した女に。
身分も後ろ盾もない者に。
そういう空気が、はっきりと伝わってくる。
俺は水槽の前に立ち、集まっている連中を見回した。
「閣下。このような身分の低い者に皆が従うとは思えません」
セドリックが、実務官らしい懸念を口にした。
「アルがいるから大丈夫だ」
「しかし・・・」
「大丈夫だと言っている」
「承知しました」
セドリックは引き下がった。
だが、納得していないのは顔を見れば分かる。
「いいか。これは全員の水だ。みんなで分けろ」
誰も答えない。
俺は続けた。
「他人の分を奪おうとする奴。独り占めしようとする奴。水を握って、他人の生き死にを決めようとする奴」
井戸の前にいた男たちの何人かが、わずかに視線を逸らした。
俺はそこへ言葉を落とす。
「そういう奴には、相応の報いがある」
静まり返る。
俺は、頭上に視線を向けた。
銀色の小鳥が、淡い光をまとって宙に浮かんでいる。
アルだ。
今は、ただの精霊に見える。
冷たい目をした、銀の精霊。
「俺の領地では精霊が常に見ている。それを忘れるな」
水場の空気が凍った。
恐怖だけではない。
戸惑い。
疑い。
そして、ほんのわずかな安堵。
強い者が水を奪うのを許さない。
奪う者を、精霊が罰する。
そのルールが、今ここで生まれた。
(頼むぞ、アル)
『監視を開始します』
(殺すなよ)
『生命維持を前提とした刑罰執行に限定します』
(その言い方も怖いんだよ)
『適切な表現です』
(はいはい。適切に、な)
俺はネネスを見る。
「頼んだ」
「・・・はい。お任せください」
ネネスは水槽の横に立った。
まだ震えている。
だが、逃げなかった。
それで十分だ。
△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼
アキラたちが水場を離れたあと、しばらく誰も動かなかった。
銀の小鳥は、水槽の上を静かに旋回している。
ネネスは一度だけ喉を鳴らし、それから桶を持った母親へ声をかけた。
「子供が先です。腹を壊している子は、こちらへ」
誰も反論しなかった。
痩せた子供。
熱のある老人。
井戸水で腹を壊した者。
ネネスは震える声を必死に抑えながら、水を分けていった。
最初は、うまくいっていた。
だが、水が命に関わる場所で、すべての人間が大人しく順番を守るわけではない。
列の後ろから、体格の良い男が前へ出てきた。
井戸の前で幅を利かせていた男の一人だった。
「おい」
ネネスの手が止まる。
「俺たちが後だと?」
「子供と病人が先です」
「女が決めることじゃねぇだろ」
「アキラ様から、任されています」
「知るかよ。水は力のある奴が持つもんだ。どけ」
男が水槽へ手を伸ばした。
周囲の者は動けない。
誰も止められない。
止めれば、次に水を分けてもらえなくなるかもしれない。
殴られるかもしれない。
殺されるかもしれない。
この街では、そうやって生きてきた。
ネネスは後ずさりしなかった。
だが、男の手が彼女の肩を掴もうとした瞬間、銀の光が落ちた。
『警告は完了しています』
声が響いた。
人の声ではない。
無機質で、澄んでいて、冷たい声。
水槽の上にいた銀の小鳥がほどけ、光の粒になった。
その粒が男の腕に絡みつく。
男の動きが止まった。
「な、なんだ、これ・・・!」
『対象行動を確認。他者の飲用水を強奪。配水担当者への暴行未遂。複数名の生命維持資源を独占しようとした行為と判断』
「離せ! 俺はまだ何もしてねぇ!」
『否定。行為は開始されています』
銀の光が、男の両腕と両脚を拘束する。
膝が折れ、男の身体が地面に叩きつけられた。
悲鳴が上がる。
男のものだけではない。
周囲にいた者たちの喉からも、短い悲鳴が漏れた。
『状況を分析。水の独占は、周囲の衰弱者、児童、高齢者、病人の生命維持を阻害します』
銀の小鳥は、男の眼前に降りた。
淡く光る翼が広がる。
『罪状を、大勢に対する殺人未遂と定義します』
「ふざけるな! 水を少し取ろうとしただけだ!」
『水は生命維持資源です。現状における強奪は、殺傷行為に準じます』
「やめろ! やめっ――」
『ラムール王国の法に照合。生命資源の強奪、配給妨害、弱者への暴行、大勢を対象とした殺人未遂は重罪。刑罰を執行します。本来極刑相当ですが、現状を鑑み、極刑にはしないものとします』
銀の光が締まった。
次の瞬間、男の悲鳴が水場に響き渡った。
骨が砕ける音。
地面を爪で掻く音。
濁った井戸の周りにいた者たちは、誰一人として動けなかった。
ネネスも、桶を抱えたまま凍りついている。
男はしばらくのたうち、やがて地面に倒れ伏した。
死んではいない。
息はある。
だが、水槽へ手を伸ばすことは、もうできなかった。
『生命活動は維持しています。刑罰は完了しました』
銀の小鳥は、何事もなかったかのように水槽の上へ戻った。
そして、静かに羽ばたく。
誰も声を出せない。
やがて、ネネスが震える息を吐いた。
彼女は桶を握り直し、前を向く。
「子供と病人が先です」
今度は、誰も文句を言わなかった。
水は分けられ、列が乱れることもなかった。
その場に生まれた秩序は、恐怖によるものだったかもしれない。
けれど、少なくともその日、その水場で、弱い者から水を奪う者はいなくなった。
精霊が見ていたからだ。
△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼
俺たちは、北側の導水路へ向かっていた。
背後の水場のことは気になる。
だが、アルが見ている。
あそこでずっと水を出し続けるわけにはいかない。
根本的には、水源と水路を戻す必要がある。
セドリックは歩きながら、必要最低限の情報だけを伝えてきた。
「旧領都の北には、小さな山があります。そこから湧き出る水を導水路で引き、街の共同井戸と水場へ分けていました」
「自然の水源か」
「はい。以前は水量も安定していました。しかし数年前から管理が悪化し、最後には水路が止まりました」
「事故か?」
「公式には崩落です」
「公式には?」
「私は信じていません」
「だろうな」
セドリックは淡々としているが、言葉に棘がある。
こいつ、本当に不正が嫌いなんだな。
導水路へ向かう途中、俺たちは低い石橋の近くで足を止めた。
そこにも人がいた。
泥の付いた服を着た男たち。
肉体労働者だろう。
だが、今は仕事もなく、ただ壁際に座っている。
その中の一人が、俺たちの話を聞いていたのか、ぽつりと言った。
「北の水門は、たぶん開きません」
声は小さい。
自分の意見を口にすることに慣れていない声だった。
俺は男を見る。
痩せていた。
けれど骨格はしっかりしている。
元々は力仕事をしていたのだろう。
腕には古い傷が多く、爪の間には泥が残っていた。
「元奴隷が領主様に口を利くなどと・・・」
「セドリック。構わん。言わせてやれ」
「は・・・」
「それでどうだ。分かるのか?」
男はびくりと肩を震わせた。
「昔、あそこの泥さらいをしてました」
「名前は?」
「メギ、です」
「メギだな。北の水門まで案内できるか?」
「俺が、ですか?」
「他に分かる奴がいるのか?」
「・・・いません」
「なら頼む」
俺は頭を下げた。
メギは信じられないものを見るように俺を見た。
だが、そこへ横から声が入った。
セドリックだ。
「閣下。領主が身分が低い者に頭を下げるなど・・・」
「セドリック。いい加減にしろ」
自分でも、思ったより低い声が出た。
セドリックが固まる。
メギも、周囲の労働者たちも動きを止めた。
俺はセドリックを見た。
「身分なんてどうでもいいんだよ。金もない、物資もない。食べ物も、水もだ。こんなところで身分がなんの役に立つってんだ」
誰も答えない。
答えられるわけがない。
濁った水を飲んでいる人間がいる。
腹を壊した子供がいる。
水路は止まり、倉庫は空で、金庫には金もない。
そんな場所で、身分は何もしてくれない。何も与えない。
「まずはみんなが飲めて、喰えて、住めるのを目指す。その他のことは全部些事だ」
エマが、隣で静かに俺を見ていた。
「できる奴に頼む。それだけなんだよ」
セドリックは黙っている。
ただ、その目が少しだけ変わった。
驚きと疑い。
それから、何かを確かめるような視線。
俺には、セドリックが何を考えたのかまでは分からない。
だが、さっきまでよりも、こちらを見る目が少しだけ違っていた。
セドリックはすぐにメギの方へ向き直る。
「名前はメギですね」
「は、はい」
「年齢は」
「たぶん、三十六です」
「担当していた水路は」
「北の導水路と、旧領主館下の排水路を少し」
「十分です。水路案内補佐として記録します」
「記録・・・?」
「閣下が使うと決めました。ならば、役割と責任を明確にします」
俺は思わずセドリックを見る。
「いいのか?」
「身分で水路は直りませんので」
「・・・いい返しだな」
「事実です」
セドリックは表情を変えなかった。
だが、どこか少しだけ、さっきより息がしやすそうに見えた。
能力があるなら使う。
その考え自体に、この男は反発していない。
むしろ、自然に受け入れている。
ただ、それを貴族が本気で言うことに驚いているのだろう。
きっと、そういう世界で生きてきたのだ。
能力があっても使われない。
正しいことを言っても疎まれる。
そんな場所で。
俺はメギを見る。
「案内してくれ」
「・・・はい」
△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼
北側導水路は、想像以上に酷かった。
石組みは古いが、本来の構造は悪くない。
山側から流れてくる水を受け、街へ分けるための導水路。
きちんと維持されていれば、今でも十分使えたはずだ。
だが、現実には黒い泥が溜まり、水はほとんど流れていない。
壁の一部は新しく積み直されている。
そこだけ妙に不自然だった。
メギがその前でしゃがみ込む。
「ここ、前はこうじゃありませんでした」
「分かるのか?」
「水の音が違います。あと、泥の溜まり方も変です」
「どう変なんだ?」
「普通に崩れたなら、もっと下流まで泥が流れます。でもここは、壁の前で止まってる。奥から水が来てないんです」
「なるほど」
現場の人間の目だ。
数字や帳簿では出てこない情報。
こういう人間を使わずに、何が領地運営だ。
(アル)
『水路壁面に不自然な補修痕を確認』
(崩れたんじゃないのか?)
『否定。外側から塞いでいます』
(何のために?)
『水流を止める目的、または内部空間を隠す目的が考えられます』
(内部空間?)
『詳細解析を開始します』
俺は壁に手を当てた。
冷たい石。
しかし、奥に空洞があるのなら、音や振動に違いがあるはずだ。
アルが視界の端に簡易的な構造図を表示する。
水路と壁、その奥。
──ある。
不自然な空間が。
しかも、ただの空洞ではない。
『補修壁の奥に空洞を確認』
(何かあるか?)
『内部に木箱状構造物。金属反応。魔石反応。複数』
(おい)
『水路補修費、または鉱山収益の隠匿場所である可能性があります』
(マジかよ)
俺はセドリックを見る。
セドリックは、古い帳簿の一枚を取り出していた。
紙は傷んでいるが、文字は読めるらしい。
彼は該当箇所を確認し、眼鏡もかけていないのに、細かい文字をじっと見つめた。
「閣下。この導水路は、三年前に大規模補修済みです」
「どこが?」
「帳簿の上では、です」
「つまり?」
「補修費は出ています。人件費も、資材費も、維持費も」
「現場は?」
「この通りです」
俺は笑った。
楽しくて笑ったわけではない。
呆れたのだ。
水がない。
金もない。
そう言われた領地の、水路の壁の向こうに、金属反応と魔石反応が眠っている。
なるほど。
この領地は、何もないわけじゃない。
奪われて、隠されて、埋められているだけだ。
水も。
金も。
人も。
「セドリック」
「はい」
「金がないって言ったな」
「申し上げました」
「たぶん、あるぞ」
「・・・どこにですか」
俺は、黒く濁った水路の壁を指差した。
「壁の向こうだ」
セドリックの目が、初めてはっきりと揺れた。
メギは意味が分からないという顔をしている。
エマは、静かに息を吐いた。
「本当に、ひどい領地ね」
「ああ」
でも。
ひどいだけでは終わらせない。
水を通す。
金を見つける。
人を拾う。
この領地に埋められているものを、一つずつ掘り出してやる。
「掘り出すぞ」
俺がそう言うと、セドリックが初めて、ほんの少しだけ笑った。
「承知しました、閣下」




