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第83話 ラッシュバック伯爵領へ


 翌朝。


 母屋の居間には、出発前の少し張り詰めた空気が漂っていた。


 昨日のうちに、領地へ持ち込む物資は地下のコンテナへまとめてある。


 食料、塩、薬、毛布などの寝具。

 それから、アルが必要だと言い張った用途不明の資材箱がいくつか。


 あの箱については、昨日から何度聞いても答えが変わらない。



「本当に何が入ってるんだ?」


『現地で説明します』


「昨日も聞いたぞ、それ」


『回答は変わりません』


「嫌な予感も変わらないな」


『必要な物資です』


「必要な嫌な予感って、本当に困るんだよな」



 エマが隣で小さく笑った。


 昨日は、いろいろありすぎた。


 魔法実験で岩壁を吹き飛ばし、土木応用の確認もした。

 アルが勝手に作っていた精霊の門をラムール王城へ報告。

 そして、領地入りのための物資準備。


 思い返すだけで、普通なら数日分の出来事だ。


 セレナが「今日はここまで」と止めたのは、間違いなく正しかった。


 そのセレナは今、帳簿と物資一覧を見比べながら、最後の確認をしている。



「アキラさん」


「ああ」


「到着してすぐに全部を解決しようとしないでください」


「分かってる」


「本当に分かっていますか?」


「分かってるつもりだ」


「つもり、では困ります」


「分かった。まず見て優先順位を決める。手を出すのはそれから」


「よろしい」



 セレナは満足したように頷いた。

 ただし、完全には信用していない顔だった。


 俺はそんなに信用がないのだろうか。


 いや、昨日の岩壁の件を考えると、何も言えない。



「エマさん」


「ええ。ちゃんと見ておくわ」


「頼みます」


「任せて」


「二人がかりで監視するの、そろそろやめないか?」


「必要です」

「必要ね」


「息ぴったりだな、おい」



 二人とも、完全に俺を危険物扱いしている。


 反論したい。

 反論したいが、反論材料が弱い。


 俺がため息をついたところで、母屋の扉が控えめに叩かれた。


 少し間を置いて、外からマリアベルの声が届く。



「店主さん、よろしいですか?」


「どうした?」


「リゼット様がお見えです。お店の方でお待ちいただいています」


「リゼット?」


「はい。朝からすごく華やかです」


「その説明で誰か分かるの、すごいな」



 リゼットが来た。

 このタイミングで。


 俺はセレナを見る。


 セレナは少し考え、すぐに頷いた。



「顔を出した方がよろしいかと。ヴァルシュ商会とは、今後も関係が続きます」


「だよな」


「長話にならないようにしてください」


「それは相手次第だな」


「アキラさん次第でもあります」


「俺か?」


「はい」


「分かったよ」



 俺はエマと一緒に、店舗側の応接室へ向かった。


 出発前ではあるが、リゼットを門前払いする理由もない。


 むしろ、伯爵位や新領地の話がヴェルクハーフェンに広がっている以上、彼女が顔を出すのは自然だった。


 応接室に入ると、リゼットはすでに椅子に腰かけていた。


 相変わらず、存在感がある。


 ラベンダーピンクの髪。

 艶やかな紅の瞳。

 胸元を強調しつつも下品にはならない、ぎりぎりのところを攻めた服装。

 歩いていなくても、香りと視線を支配するような女。


 リゼット=ヴァルシュ。


 ヴェルクハーフェンの西側を牛耳るヴァルシュ商会の三女であり、俺に対して容赦なく距離を詰めてくる、かなり厄介な相手だ。



「おはよう、アキラ。伯爵様になったって聞いたから、ちょっと顔を見に来たわ」


「やめろ、その呼び方」


「あら、似合ってるわよ?」


「絶対に思ってないだろ」


「半分くらいは思ってるわ」


「残り半分は?」


「面白がってる」


「正直だな」



 リゼットは楽しそうに笑った。

 いつもの調子だ。

 押しが強く、華やかで、こちらの反応を楽しんでいる。


 だが、今日は少しだけ違った。


 俺がそう感じたわけではない。

 たぶん、エマの方が先に気づいた。


 リゼットの視線が、俺の隣にいるエマへ向いた。

 それから俺。

 またエマ。

 そして、もう一度俺。



「それにしても、ずいぶん忙しそうね」


「まあ、いろいろあってな」


「伯爵様だものね」


「その呼び方はやめろって」


「慣れなさいな。これから嫌でも呼ばれるわよ」


「慣れたくない」


「ふふ。そういうところは変わらないのね」



 リゼットは軽く肩をすくめた。


 いつもなら、このまま俺の近くへ歩み寄り、腕に触れるくらいはしてきそうなものだ。

 しかし、今日はそこで止まった。

 踏み込もうとして、踏み込まなかった。


 その時、エマが俺の頭を見て、小さく首を傾げた。



「あら? アキラ、頭に何かついてるわ。ちょっとかがんでくれる?」


「おう」



 俺が少し身をかがめると、エマは背伸びをして、俺の髪に指を伸ばした。

 指先が、髪の間から何かを摘まむ。



「糸くずね。着替えた時に付いたのかしら」


「そか。ありがとな」


「ええ」



 目と目が合う。

 エマが柔らかく微笑んだ。

 俺も、自然と笑い返していた。


 ただそれだけのことだ。

 頭についた糸くずを取ってもらっただけ。


 エマが隣にいて、俺に触れる。

 それが、もう特別なことではなくなりつつある。


 リゼットの視線が、俺とエマの間を一度だけ往復した。

 ほんの一瞬。

 いつもの余裕のある笑みが、少しだけ揺れた気がした。


 だが、次の瞬間にはもう、いつものリゼットの顔に戻っていた。



「・・・そっか」


「リゼット?」


「ううん。なんでもないわ」


「何だよ」


「本当に、なんでもないの」



 そう言って、リゼットは笑った。

 綺麗な笑みだった。


 いつも通り、艶やかで、自信に満ちていて、相手を揺らすための笑み。


 けれど、ほんの少しだけ。

 本当に少しだけ、何かが違って見えた。



「今日は顔を見に来ただけだから、もう帰るわ」


「早いな」


「忙しいんでしょ? 邪魔するほど野暮じゃないわ」


「助かる」


「ふふ。そういうところよ、アキラ」


「どういうところだよ」


「内緒」



 リゼットは軽く手を振った。



「商会としての話は、また後日。今はまず、自分のことを片付けなさいな」


「ああ」


「頑張ってね、伯爵様」


「だからやめろって」


「ふふ」



 リゼットは笑って、今度はエマを見た。



「エマさんも、頑張って」


「ええ。リゼット」


「何かしら?」


「また、ゆっくり話しましょう」


「・・・そうね」



 一瞬、リゼットの表情が止まった。何となく悲しそうに見えたのは気のせいだっただろうか。


 けれど、すぐにまた笑う。



「その時は、美味しいお茶でも用意しておいて」


「分かったわ」


「約束よ」



 リゼットはそう言って、応接室を出ていった。


 あっさりしていた。

 本当に、顔を見に来ただけのような去り方だった。


 俺は首を傾げる。



「リゼット、今日はやけにあっさり帰ったな」


「そうね」


「何かあったのか?」


「・・・あったのかもしれないわね」


「ん?」


「なんでもないわ。行きましょう、アキラ」


「ああ」






 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼






 店を出て、角を曲がる。


 人通りが途切れたところで、リゼットは足を止めた。



「・・・なによ」



 頬に触れる。

 指先が濡れていた。


 泣いている。


 自分でそう気づいた瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。



「本気だったんだ、私」



 笑うつもりだった。

 からかって、揺らして、いつか手に入れればいいと思っていた。


 アキラは鈍い。


 でも、押せば揺れる。

 押し続ければ、いつかこちらを見る。


 そう思っていた。


 そう思えるくらいには、自分の武器を信じていた。


 けれど、あの二人を見た瞬間、分かってしまった。


 もう、遊び半分で踏み込める場所ではない。


 あの距離は、先日までの距離ではない。

 あの空気は、ただの仲間でも、恋人未満でもない。


 エマがアキラの隣に立つ姿は、あまりにも自然だった。

 アキラがそれを受け入れる姿も、あまりにも当たり前だった。


 リゼットは涙を拭い、ゆっくりと息を吐いた。



「・・・このままじゃ、駄目ね」



 いつもの武器。

 いつもの笑み。

 いつもの距離の詰め方。


 それでは、あの二人の間には入れない。


 欲しいものがあるなら、まず自分が変わるしかない。


 リゼットは背筋を伸ばした。


 頬に残った涙の跡を指で拭い、いつものように笑おうとして、少しだけ失敗する。


 それでも、顔を上げた。



「次に会う時は、驚かせてあげるわ」



 誰に言うでもなく、そう呟いた。


 それからリゼットは、いつもの華やかな足取りではなく、少しだけ静かな歩調で、ヴァルシュ商会の方へ歩き出した。





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼





 リゼットが帰ったあと、俺たちは母屋へ戻った。


 表の戸締まりや留守中の連絡先を確認し、セレナから最後の注意を受ける。


 それから、地下へ降りた。


 銀色の光を湛えた門が、静かに揺れている。


 昨日見た時と同じように美しい。


 そして、同じくらい頭が痛い。



「アル」


『はい』


「接続先は?」


『ラッシュバック伯爵領、旧領都外縁部の仮設受け入れ空間へ変更済みです』


「ラムール王都郊外との接続は?」


『一時遮断しています。必要時に再接続可能です』


「よし。今から向かう先は、俺の領地で間違いないんだな?」


『はい』


「受け入れ先は?」


『旧領都外縁部の廃倉庫跡に偽装しています』


「廃倉庫跡?」


『外観は崩れかけた倉庫です。内部に小規模な受け入れ空間を構築しました』


「外から見たら?」


『廃墟にしか見えません』


「そういう偽装は本当に上手いな」


『秘匿性を優先しました』


「そこは助かる」



 精霊の門があることを、表に出すわけにはいかない。


 領地側も同じだ。


 到着した瞬間に人目につく場所では困る。


 廃倉庫跡に偽装した受け入れ空間なら、少なくとも最初の出入りには使えるだろう。



「セドリックへの連絡は?」


『ラムール側のベリス経由で伝達済みです。到着地点周辺への人払いも完了しています』


「どこまで伝えてある?」


『アキラが旧領都外縁部の旧倉庫区画に到着すること。現地案内のため待機すること。移動手段の詳細は伏せています』


「それでいい」


「本当に、秘密だらけね」


「増やしたのは俺じゃない」


『移動問題を解決しました』


「自信満々に言うな」



 エマが小さく笑った。

 セレナは笑わなかった。


 物資の最終確認を終えた彼女は、真剣な顔でこちらを見る。



「アキラさん」


「ああ」


「全部を一度に解決しようとしないでください」


「まず見る。優先順位を決める。手を出すのはそれから」


「よろしい」


「もう一回言わせる必要、あったか?」


「必要です」

「必要ね」


「ちくしょう。味方がいない」



 アルの用途不明資材箱を含めた物資は、荷車に乗せられた専用のコンテナに収められている。


 そのコンテナも荷車も、いつの間にかアルが用意していた。



「なぁアル」


『何でしょう?』


「このコンテナ、空間拡張されてるよな?」


『肯定します。内部容量を拡張しています』

 

「そか」



 もう驚かない。

 いや、少しは驚いているが、毎回反応していると身が持たない。



『コンテナの固定確認。ゲート通過可能です』


「荷物が先か?」


『はい。安全確認を兼ねます』


「了解」



 淡い銀色の光の中へ、コンテナがゆっくりと進んでいく。


 音もなく、抵抗もなく、荷物が門の向こうへ消えた。



『搬送完了。接続先側での安定を確認』


「便利すぎるな」


「便利すぎますね」


「本当に怖いわね」


「全員同じ感想か」



 俺は深く息を吸った。


 目の前には、銀色の光を湛えた門。


 昨日まで、領地は遠い場所だった。

 地図の上でも、予定の上でも、手の届かないところにある問題だった。


 だが今は違う。

 一歩先にある。


 その向こうに、俺が背負うことになった土地がある。


 俺はエマを見る。

 エマは静かに頷き、俺の手を取った。



「行きましょう、アキラ」


「ああ」



 俺はエマの手を握り返し、精霊の門をくぐった。





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼





 門をくぐった瞬間、空気が変わった。


 ヴェルクハーフェンにあった潮の匂いはない。

 代わりに鼻をついたのは、湿った土と、古い煙と、放置された建物の埃っぽさだった。


 足元の床は、精霊工房地下の滑らかな床ではない。

 簡易的に整えられた石床だ。

 壁も、こちら側では古びた石壁に見える。

 廃倉庫の一角を、受け入れ空間として使えるように整えたのだろう。


 よく見ると継ぎ目は不自然なほど綺麗だが、暗がりと埃でうまく誤魔化されている。


 外から見れば、たぶん普通の廃墟にしか見えない。



『接続先空間、異常なし。搬送物資、損傷なし』


「本当に一歩で空気が変わるな」


「ええ」



 エマの声も、少しだけ低かった。


 俺たちは、アルが開いた出口から外へ出る。


 朝の光が差し込む。


 崩れかけた倉庫の外壁、雑草の伸びた空き地、放置された木箱。


 周囲には人の姿がない。


 人払いが済んでいるというのは本当らしい。


 街を目指して進むと、少し離れた場所に一人の男が立っていた。


 年齢は三十代半ばほどだろうか。


 派手さはない。

 だが、身なりはきちんと整えられている。


 疲れは見える。

 それでも目は死んでいない。

 いかにも実務官という雰囲気の男だ。


 男は俺たちを見ると、すぐに姿勢を正した。



「アキラ=ジェイ=ラッシュバック閣下ですね」


「ああ」


「セドリック=モラートと申します。ベリス様より、こちらでお待ちするよう指示を受けております」


「助かる。どう聞いている?」


「旧倉庫区画にて閣下をお待ちし、到着後ただちに現地案内を行うように、と」


「なら、そのままで頼む」


「承知しました」



 セドリックは深く追及しなかった。


 ありがたい。


 こういう時に、余計なことを聞かない人間は本当に助かる。


 俺たちはセドリックに案内され、廃倉庫区画を出た。

 その先に広がる景色を見て、俺は言葉を失う。


 遠くに見える街並みは、街というより、使い古された殻のようだった。

 道は歪み、石畳はところどころ剥がれている。

 水路らしき溝には水がなく、底には黒ずんだ泥だけが残っていた。

 建物の壁はすすけ、補修されないまま放置されている場所も多い。


 崩れた石垣。

 傾いた荷車。

 破れた布を張っただけの小屋。


 人はいるが、声が少ない。

 話し声も、足音も、どこか遠慮がちだった。


 こちらを見る者はいるが、すぐに目を伏せる。


 痩せた男に顔色の悪い女。

 こちらを見て、すぐ母親の後ろに隠れる子供。

 そして、首元に古い傷跡を残した者たち。


 隷属の首輪の跡か。


 俺は無意識に拳を握っていた。



「ここも、あの国の歪みの一部なのね」


「ああ」


「なら、変えましょう」


「そのつもりだ」



 エマの声は静かだった。

 だが、その奥には怒りがあった。


 俺も同じだ。


 ラムール王都で見たもの。


 隷属の首輪、洗脳の魔眼、人を物のように扱ってきた国の歪み。


 その傷は、王都だけにあったわけではない。


 こうして、領地の端々にまで染みついている。



『道路の損耗率が高いです。排水不良、荷重超過、長期未補修が原因と推定』


(見れば分かるくらい酷いな)


『はい』


『水路は複数箇所で閉塞。生活排水の処理にも問題がある可能性があります』


(やっぱり水回りか)


『優先度は高いです』


『建物の一部に構造劣化。仮設補強が必要です』


(放置したら崩れるか?)


『可能性はあります』



 アルの補足が、次々に頭の中へ流れ込む。


 だが、今回は不思議と冷静に聞けた。


 昨日までは、何をどうすればいいのか分からなかった。


 今は違う。


 アルと俺には魔法がある。


 道を通す。

 水を流す。

 崩れたものを直す。

 人が住める場所を作る。


 この力は、そのために使う。


 俺がそう考えていると、セドリックが歩調を少し緩めた。



「閣下」


「ん?」


「現地の詳細確認に入る前に、先に申し上げておくべきことがあります」


「何だ?」


「予算がありません」


「ああ、足りないのは理解している。具体的にはどのくらい残っている?」


「失礼しました。言い方を変えます」


「ん?」


「予算が全くありません」


「ん? 全く、とは?」


「完全にゼロです」


「は?」



 俺は天を見上げた。


 力は得た。

 だが、金は全くないらしい。


 ──予算ゼロから始まる異世界領主生活。


 そんなストーリー、望んでいないのだが。


 俺の伯爵領経営は、どうやら最初から現実に殴られるらしい。



 見上げた青い空には、雲一つなかった。



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