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第80話 ただいま


 ラムール王都を出てから、俺たちはほとんど寄り道をしなかった。


 混乱した王都、任された東部新領地、そして精霊工房。


 気になることはいくらでもある。だが、全部を抱えたまま立ち止まっていたら、いつまで経っても帰れない。


 だから、帰ると決めた。


 龍の回廊を抜け、オーブリン側の空気を吸った時、胸の奥に少しだけ力が戻るのを感じた。



「・・・戻ってきたな」


「ええ」



 隣で、エマが小さく頷く。


 ラムールの空気は、最後まで重かった。


 洗脳が解けた後も、人々の顔から恐怖と後悔は消えなかった。自分が何をしたのか、何を見逃したのか、すべて覚えている。そのまま立ち直らなければならない。


 それを思えば、俺たちだけが「帰る」と言えることに、少し後ろめたさもある。


 だが、それでも帰る。


 俺たちには、帰る場所がある。


 騎乗用の陸走鳥、ルル・トがヴェルクハーフェンへ近づくにつれ、風の匂いが変わっていった。


 湿った海風に、運河の水の匂い。

 荷馬車の軋む音や、商人たちの声。

 そして遠くで鳴る船鐘。


 街門の前でルル・トに別れを告げる。

 ちりんちりんと鈴を二回鳴らし、首を撫でてやると、ルル・トは「るるる・・・」と小さく鳴いて、元来た道を戻っていった。



 久しぶりのヴェルクハーフェンには、王都の重い沈黙とは違う、動いている街の音や匂いが満ちていた。


 ああ。

 帰ってきた。


 そう思った瞬間、俺の左腕に絡んだエマの手に、少しだけ力が入った。


 ヴェルクハーフェンに入ってから、エマはずっとこの距離にいる。肩が触れるほど近く、離れるつもりはなさそうだった。



「歩きにくくないか?」



 俺がそう聞くと、エマは俺を見上げた。



「平気よ?」


「そうか?」


「離れる方が嫌」



 即答だった。


 周囲の視線は、当然ある。


 屋台の親父がこちらを見て、何かに気づいたように口元を緩めた。運河沿いの荷運び人たちも、ちらちらとこちらを見ている。


 まあ、目立つ。


 目立つのだが。



「・・・なら、このままでいいか」


「ええ」



 エマが小さく笑う。


 その笑顔を見たら、距離を取る理由なんてなくなった。



『歩行効率は約十一パーセント低下しています』


(いいの)


『了解』


 効率なんて、今はどうでもいい。






 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼






 精霊工房は、予想以上に賑わっていた。


 店の前には、開店直後とは思えないほど人の流れがある。常連らしい女性客が棚を覗き込み、商人風の男たちが店員に何かを尋ね、通りがかりの人間まで看板を見上げていた。


 どうやら、噂は想像以上に広がっているらしい。



「精霊使い様がラムールの王宮を救ったって本当かしら」


「銀の鳥が空を埋めたんだろ?」


「伯爵になったとか聞いたぞ」



 聞こえてくる声が、いちいち胃に悪い。


 入りづらい。


 ものすごく入りづらい。



「・・・帰るの、やめるか」


「駄目よ」



 エマに即座に止められた。



「いや、今の噂、絶対に面倒なやつだろ」


「でも、帰ってきたんでしょう?」


「そうだけど」


「だったら、入るわよ」



 エマはそう言って、俺を促すように店へ向かった。


 逃げ道はない。


 店先で商品箱を抱えていたマリアベルが、最初にこちらへ気づいた。



「あっ」



 その顔が、ぱっと明るくなる。



「店主さん!」


「ただいま、マリアベル」


「お、おかえりなさいませ!」



 そこまではよかった。


 だが、次の瞬間、マリアベルはなぜか背筋を伸ばし、持っていた箱を抱え直した。



「おかえりなさいませ、伯爵様!」


「やめろ!」



 反射で叫んだ。


 店内の客が一斉にこちらを見る。


 最悪だ。



「伯爵様?」


「やっぱり本当だったのか?」


「精霊工房の店主が?」



 ざわめきが広がる。


 俺は片手を上げた。



「違う。いや、違わないけど違う。ここでは店主だ。伯爵様とか呼ばないでくれ」


「でも、伯爵様ですよね?」


「マリアベル、追い打ちをかけるな」


「は、はいっ。伯爵様!」


「ごふっ」



 素直なのはいいことだ。


 ただし、今は素直すぎる。


 その時、店の奥から、帳簿を抱えたセレナが出てきた。


 細縁の銀色眼鏡。

 白に近いブラウスと濃紺のベスト。

 いつも通りの、仕事中の顔。


 だが、俺を見た瞬間だけ、ほんの少し目元が緩んだ。



「おかえりなさい」



 その一言で、胸の奥が少し軽くなった。



「ああ。ただいま」



 帰ってきた。

 そう実感した。


 だが、次の瞬間、セレナは眼鏡の位置を直した。



「それでは、説明を」


「早くない?」


「遅いくらいです」



 やっぱりこうなるか。


 セレナの視線が、ふと俺とエマの距離に落ちた。


 そして、何かを察したように俺たちを見比べ、静かに息を吐く。



「説明事項が一つ増えましたね」


「増やすな」


「減る要素がありません」



 奥の工房から、ドグランが顔を出した。



「おう、小僧。帰ったか」


「ただいま、ドグラン」


「また面倒なもんを背負って帰ってきたそうじゃのう。伯爵じゃと? まったく、落ち着かん奴じゃ」


「俺も望んで背負ったわけじゃない」


「じゃろうな。おぬしはそういう星の下におる」



 ドグランはそこで、俺とエマを見た。


 目が止まる。



「・・・何があったんじゃ?」


「いや、別に」


「その返しがもう何かあった奴じゃろ」



 否定できない。


 さらに奥から、リファニーが椅子に乗ったまま顔を出した。



「アキラさん、おかえりなさいですぅ。王都規模の精神干渉に、伯爵位に、新領地に・・・それと・・・ぐふふふふぅ。観察対象が多すぎますねぇ」


「観察するな」


「ぐふふ・・・記録だけでも」


「リファニーさん」



 セレナの声が低くなる。



「はいぃ」


「研究対象にしない」


「まだ何も言ってませんよぉ」


「顔に書いてあります」


「ぐふぅ・・・」



 店内の客がまだざわついていることに気づいたセレナは、すぐに仕事の顔へ戻った。



「マリアベルさん、店内対応を。店主帰還に関する質問は、後日正式に告知するとだけ伝えてください。伯爵位については、商会運営上の変更があるまで通常営業です」


「はいっ」


「皆さんは奥へ。説明は事務所で伺います」



 セレナは客へ軽く頭を下げると、俺たちを事務所へ促した。



「こちらへ。逃げないでください」


「逃げない」


「逃がさないわ」



 エマが何気なく言って俺の腕をとる。


 セレナが一瞬だけ止まる。


 ドグランが咳き込み、マリアベルが真っ赤になり、リファニーが笑いかけてセレナに睨まれた。


 俺は天井を見上げる。


 帰ってきたなぁ。


 本当に。







 事務所での報告は、必要なところだけに絞った。


 王都で洗脳事件が起きていたこと。

 国王を含む王宮中枢、さらに国中が精神干渉を受けていたこと。

 黒幕を倒し、洗脳は解けたが、人々には記憶が残っていること。

 エニルカラコスが新王として即位したこと。

 前王が退位したこと。

 そして、俺が伯爵位と東部新領地を受けることになったこと。


 話せば話すほど、事務所の空気は重くなっていった。


 マリアベルは口元を押さえ、リファニーはいつもの笑いを消し、ドグランは腕を組んで黙り込む。


 セレナだけは、羽ペンを走らせ続けていた。


 だが、その目は冷たい。


 商売人の目ではなく、帳簿の裏にある人間の痛みを見てきた人間の目だ。



「つまり、王都東部の旧領地は、商業的な未開発地ではなく、まず犯罪と搾取の後始末から入る土地ということですね」


「ああ」


「鉱山、熱水、旧収容施設。物資搬入は急務です。食料、医療品、衣類、寝具。それから記録保全用の人員。現地に帳簿が残っているなら、紙とインクも必要になります」


「相変わらず判断が早いな」


「当然です。感情で怒るのは後です。先に手配します」



 セレナらしい。


 たぶん、それが一番頼もしい。



「それと伯爵位についてですが、精霊工房の扱いを早急に整理する必要があります」


「やっぱり?」


「店主が貴族になったとなれば、商業ギルド、各商会、貴族筋からの接触が増えます。今までのような小商店扱いでは済みません。早急にAランクの商会を目指すべきです」


「べ、別に今のままでも・・・」


「ダメです」



 即答だった。



「悪いことばかりではありません。信用は増します。取引できる相手も広がります。ですが、同時に面倒に巻き込まれることが増えます」


「ですよねー」


「なので、当面は今まで通りです。対外的には、精霊工房の店主は店主です。伯爵位については、正式な文書と方針が整うまで、こちらから積極的には使いません」


「助かる」


「助かるではなく、必要な対応です」



 セレナはそう言ってから、ちらりと俺とエマを見た。


 エマは事務所に入ってからも、当然のように俺の隣にいる。近い。肩が触れている。



「それと、もう一件」


「いや、それは今じゃなくても」


「今はっきり言ってください」



 逃げ道がない。


 エマは少しも慌てなかった。

 そして満面の笑みで。



「そういうことよ」



 場が止まった。


 マリアベルが「ひゃ」と小さな声を出す。


 リファニーが目を輝かせる。


 ドグランが俺を見た。



「小僧・・・」


「その重い顔やめろ」


「いや、まあ、よかったんじゃないかのう」


「急に保護者みたいな顔をするな」


「実際、半分くらいそんな気分じゃ」



 やめてくれ。

 むず痒い。


 エマは少しだけ頬を赤くしているが、否定しない。隠そうともしない。


 その姿を見て、俺は妙に腹が据わった。


 俺たちは、もうそういう関係になった。


 だったら、周りに察されて狼狽える必要もない。



「まあ、そういうことだ」



 俺が言うと、セレナは一度だけ静かに頷いた。



「分かりました。業務上の支障が出ない範囲でお願いします」


「言い方が事務的すぎる」


「仕事中ですので」



 まったく、その通りだ。


 その後も、精霊工房側の報告は続いた。


 来客の増加。

 噂への対応方針。

 日用品の在庫偏り。

 高級品の注文増加。

 リファニーの研究素材要求。

 ドグランの素材要求。

 などなど。

 などなど。

 なーどなーど。


 むぅ。忙しい場所から帰ってきたはずなのに、こっちも仕事しかない。


 俺が遠い目をしていると、セレナは帳簿を閉じた。



「本来なら、このまま詳しい打ち合わせに入りたいところですが」


「が?」


「二人とも、顔に疲れが出ています。続きは明日です」


「いいのか?」


「良くはありません。ですが、疲れた状態で判断される方が困ります。今日は休んでください」



 セレナの声は、いつも通り冷静だった。


 だが、そこには少しだけ気遣いが混ざっている。



「ただし、明日は朝から詰めます」


「了解」


「逃げても無駄ですからね」


「逃げないって」


「まかせて。逃がさないわ」



 エマがまた自然に言った。


 セレナは一瞬だけ目を閉じる。



「・・・その件についても、具体的な話は明日以降で」


「増やすなって」


「増やしたのはそちらです」



 何も言い返せなかった。






 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼






 母屋に戻ると、ようやく肩の力が抜けた。


 王城の客室より狭い。

 調度品も高価ではない。


 だが、ここには俺たちが直した床があり、俺たちが使ってきた机があり、俺たちの生活の匂いがある。



「・・・帰ってきたな」


「ええ」



 エマは隣で頷いたあと、当然のように俺のそばに残った。



「もう家だぞ」


「だからよ」


「だから?」


「ここなら、もっと近くにいていいでしょう?」



 そう言って、エマは正面から抱きついてくる。


 軽い衝撃。


 胸元に、エマの額が触れた。



「エマ?」


「少しの時間も、離れたくないの」



 声が小さい。


 でも、はっきりしていた。



「ラムールで、何度も怖い思いをしたわ。アキラが私を見てくれなくなるんじゃないかって。私が私じゃなくなるんじゃないかって。あのまま、全部壊れるんじゃないかって」



 俺は何も言えなかった。


 ただ、エマの背に腕を回す。


 細い身体が、少しだけ震えている。



「もう分かってるの。洗脳のせいだったって。終わったって。でも、だからって、すぐ平気にはならない」


「ああ」


「だから、今は離れたくない」


「分かった」



 俺はエマを抱きしめた。


 茶化す気もなければ、鈍感なふりをして逃げるつもりもない。



「俺もだ」



 そう言うと、エマの手に力が入った。



「本当?」


「本当だ」


「じゃあ・・・」



 エマは顔を上げた。


 翡翠色の瞳が、近い。



「もう、部屋を別にする理由、ないわよね?」



 直球だった。


 一瞬だけ言葉に詰まる。


 けれど、逃げる理由はなかった。



「本当にいいのか?」


「いいの」


「後でやっぱり別がいいって言っても、別に怒らないぞ」


「言わないわ」


「そっか」


「ええ」



 エマは俺から少しだけ離れると、室内を見上げた。



「アル」


『はい』


「私の荷物を、アキラの部屋に移せる?」


『可能です』


「早いな」


『想定していました』


「想定するな」


『家具配置の最適化を開始します』


「待て、今すぐか?」


『はい。寝室統合に伴い、収納、導線、照明、空調、寝具配置を調整します』


「寝室統合って言い方やめろ」


『では、共同寝室化と表現します』


「大差ない」



 エマが小さく笑った。



「助かるわ、アル」


『了解しました。エマの私物移動を開始します』



 家の奥で、かすかな音がした。


 ナノマシンが動いている。


 もう始まっているらしい。



「本当に早いな・・・」


「いいじゃない」


「いいけど」



 エマは少しだけ首を傾げた。



「嫌?」


「嫌なわけないだろ」



 そう答えると、エマは安心したように笑った。

 ちくしょう、可愛すぎる。



「さてと。久しぶりの我が家の風呂、入るとするか」


「そうね」


「ん?」



 そこでエマは、ほんの少しだけ間を置いた。



「一緒がいーい」



 上目遣い。

 もはや反則だ。


 俺は息を吐いた。


 照れはある。

 もちろんある。


 だが、ここで妙な逃げ方をしたら、それはエマを不安にさせるだけだ。



「分かった。一緒に入ろう」



 エマの顔が、ぱっと明るくなった。

 その反応だけで、言ってよかったと思えた。



(アル)


『はい』


(浴室と寝室まわりの観測は、安全管理だけに限定してくれ)


『了解しました。生命維持、火傷防止、設備異常検知、防犯に限定します』


(それでいい)


『記録保存は行いません』


(当たり前だ)



 エマが俺を見る。



「アルに何か頼んだ?」


「ああ。安全管理以外は見ないように」



 エマは一瞬だけ目を瞬かせ、それから頬を赤くした。



「・・・そういうところ、ちゃんとしてるのね」


「ちゃんとしたいんだよ」


「うん」



 エマは嬉しそうに頷いた。







 浴室には、久しぶりに湯気が満ちていた。


 この家に風呂を作った時、俺はかなり本気を出した。ナノマシンで配管を整え、湯温を制御し、浴槽を広めに取り、排水も清潔に保てるようにした。


 王城にも浴室はあったが、浴槽はこちらの方が大きい。

 機能的にも優れているし、見た目的にも負けてない。


 王城の浴槽は、専属の魔法師が管理していた。


 浸かれるほどの湯を用意する。


 それがこの世界では、とんでもない贅沢なのだと、今さら実感する。



「広いわよね、やっぱり」


「ああ。最初は調子に乗って広くしすぎたかと思ったけどな」


「今は?」


「正解だった」



 俺がそう言うと、エマは小さく笑った。


 細かいことを言えば、いくらでも照れる。


 いくらでも意識する。


 けれど、それ以上に、エマが安心していることが分かった。



「はぁぁぁぁぁ、最高」



 湯に浸かって、少しだけ肩の力を抜く。



「こっち来いよ」


「ん・・・」



 エマは俺の隣に身を寄せた。


 二人そろって大きく息を吐く。


 水流のマッサージにしばらく身を任せる。



「やっぱウチの風呂は最高だな」


「そうね・・・」





 湯気の中で、エマの灰銀の髪がしっとりと濡れている。


 普段は月光みたいに淡く光る髪が、今は水を含んで少し重たげに肩へ流れていた。


 俺はそっと、その髪に触れる。



「絡まってないか?」


「少しだけ」


「洗うか?」


「・・・お願い」



 その声が、いつもより柔らかかった。


 二人で立ち上がってシャワーに向かう。


 シャワーでエマの髪を濡らし直す。指で梳きながら、丁寧に洗っていく。


 それにしても、綺麗な髪だ。


 エマは目を閉じて、じっとしていた。



「痛くないか?」


「平気」


「熱くないか?」


「平気よ」



 その返事が、少しずつ甘くなる。


 ただ髪を洗っているだけだ。


 なのに、妙に胸が熱い。


 こういう時間が、欲しかったのかもしれない。


 戦うでもなく、逃げるでもなく、何かを決めるでもなく。


 ただ、隣にいて、大事に触れる時間。



「アキラ」


「ん?」


「幸せ」



 不意に言われて、手が止まりかけた。


 俺は小さく笑う。



「俺もだ」



 それ以上は、言葉にしなかった。


 湯気の中で、エマが少しだけ俺にもたれた。


 俺はその重さを、黙って受け止めた。







 風呂から上がると、エマの灰銀の髪は湯気を含んで、いつもより少し重たげに背へ流れていた。


 月白を帯びた髪が、灯りを受けて淡く光る。


 バスタオルで丁寧に拭いた後、俺は棚から小さな筒状の道具を取り出した。

 木と金属で外装を整えた、手持ちの温風筒。いわゆるドライヤーだ。


 見た目だけなら、少し変わった魔道具に見えるかもしれない。



「それ、魔道具?」


「いや。アルに作らせた生活用品だ。温風を出して髪を乾かす」


「髪を?」


「ああ。濡れたままだと冷えるし、傷むだろ」



 そう言って、俺はエマを椅子に座らせた。


 低く唸るような音と一緒に、柔らかい温風が流れる。


 熱すぎないように手で確かめながら、俺はエマの髪に風を当てた。


 指の間を、灰銀の髪がさらりと抜けていく。



「・・・本当に綺麗だよな、エマの髪」



 何気なく言ったつもりだった。


 けれど、エマの肩が小さく揺れた。



「髪だけ?」


「いや」



 俺は少しだけ笑った。



「全部だよ」



 エマは何も言わなかった。


 ただ、耳の先が少し赤くなっている。


 それが妙に可愛くて、俺はもう一度、ゆっくりと温風を流した。



『乾燥効率を上げるため、送風角度を三度修正してください』


(今は黙ってろ)


『了解しました。安全管理のみ継続します』



 まったく。

 効率にこだわりすぎるのも困る。



「熱くないか?」


「平気」



 そう答える声が、いつもより少し柔らかい。


 エマは鏡越しに俺を見て、それから小さく目を伏せた。



「・・・こういうの、幸せなのね」


「こういうの?」


「髪を触られるのは、少し恥ずかしいわ。でも、アキラに綺麗だって言われながら乾かしてもらうのは・・・すっごく幸せ」



 胸の奥が、少し熱くなった。


 俺は返事に困って、もう一度だけ髪を梳く。



「なら、これからもやる」


「毎日?」


「毎日でも」



 エマが、鏡の中で笑った。



「じゃあ、お願いするわ」



 その言い方があまりにも自然で。


 俺は、もう別々の部屋に戻る理由なんて、本当にないのだと思った。







 エマの髪が乾く頃には、家具の配置も変わっていた。


 配置だけじゃない。

 二台のベッドは再構成されて一つの大きなベッドになっていた。

 エマの部屋からは私物が消え、すべて俺の部屋に。


 自分の部屋なのに、景色が少しだけ違って見える。



「早いな、アル」


『作業効率を優先しました』


「優先しすぎだろ」



 俺がそう言うと、隣でエマが小さく笑った。


 乾いたばかりの髪が、さらりと肩から落ちる。


 綺麗だと思った。


 さっき口にしたばかりなのに、もう一度言いたくなるくらいに。


 エマは当然のように俺の手を取った。



「ようやく、帰ってきたって気がしてきた」


「そうだな」



 そう答えると、エマは少しだけ安心したように目を伏せた。



「そして、新しい生活が始まるのね」



 エマが整えられた新しいベッドに寝転んで両手を広げる。



「ねぇ、またぎゅーってして」



 俺はエマの隣に寝転んだ。


 ここは、俺たちの場所だ。

 けれど、戻ってきた日常は、以前と同じではない。


 エマは俺の隣にいる。

 俺も、それを選んだ。


 甘い口づけ。


 そしてエマを抱き寄せる。




 その夜、俺たちはこの家に来て初めて、同じ部屋の灯りを消した。



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