第79話 帰るために
少しだけ、やる気が出てしまった。
それは事実だ。
地図の上に記された東部山間部。
旧鉱山、熱水、谷間の集落、旧領都、森に飲まれかけた旧街道。
そこには、どう考えても厄介事しか詰まっていない。
しかし、同時に素材もある。水もある。熱もある。土地もある。
そして、傷跡がある。
そこを立て直すというのは、ただ新しい店を作るのとは違う。魔道具を売って、便利な生活用品を広めて、街の評判を取るのとも違う。
人が壊された場所を、人が戻れる場所へ変える。
そんな、途方もなく面倒くさい仕事だ。
だからこそ、少しだけ面白そうだと思ってしまった自分がいた。
そして今、王城の客室で、俺はその「少しだけ」を後悔し始めている。
アルが展開した半透明の光の板が、室内の空間を何枚も埋めていた。机の上には紙の地図も帳簿もない。あるのは、アルが集め、整理し、俺に見やすい形へ変換した情報だけだ。
東部新領地の地形図。
旧モントリィ=カルスト伯爵領。
旧アムストロ=ビジン子爵領。
周辺山間部。
それらの詳細情報。
さらに横には、精霊工房の運営状況も並んでいる。
どれも重要だ。
つまり、全部面倒くさい。
「・・・めちゃくちゃ増えたな」
『はい。管理対象が大幅に増加しました』
「そこは否定してほしかった」
『事実に反します』
「ですよねー・・・」
俺は椅子の背に体を預け、天井を見上げた。
王城の客室は広い。広すぎる。調度品も上等で、寝台も無駄に大きい。だが、今の俺にはその豪華さがまったく響かなかった。
精霊工房は、俺たちが積み上げてきた場所だ。
古い家屋と倉庫を直し、風呂を作り、工房を作り、店舗を作った。セレナが帳簿を見て、ドグランが炉に食いつき、リファニーが薬品臭い研究室を散らかし、マリアベルが接客を覚えていった。
俺とエマの家でもある。
ただ寝る場所ではない。
帰る場所だ。
ってか帰りたい。
だが、東部新領地も放置できない。
押し付けられた形とはいえ、最後は俺が受けた。
受けた以上は、旧鉱山で働かされていた奴隷たちも、隠し収容施設に残された人たちも、証拠を焼かれそうになっている帳簿も、全部「まだ見ていないから知らない」で済ませられるものではない。
「悩んでるわね」
声に振り向くと、エマが窓際に立っていた。
薄い朝の光が、エマの灰銀の髪にかかっている。王城の客室に用意された簡素な室内着姿だが、姿勢が綺麗だからか、妙に絵になっていた。
「分かるか?」
「分かるわ。顔に出ているもの」
「マジか」
「ええ。とても分かりやすい顔をしているわ」
「俺、そんなに分かりやすいか?」
「少なくとも、私には」
そう言って、エマは少しだけ笑った。
その笑い方に、昨夜の甘えた声を思い出してしまう。
『心拍数が上昇しています』
(うっさい。黙れ)
『了解』
エマは俺の隣に来ると、空中に並ぶ光の板を見た。地図と数字と報告が入り混じるそれを、じっと目で追っている。
「こっちは精霊工房?」
「そうだ。あっちもほったらかしにはできない。けど、領地もほったらかしにはできない」
「どっちも大事よね」
「ああ。大事だな。工房は俺たちが積み上げてきた場所だ。でも東部は、これから背負う場所だ」
「だったら、どっちも捨てない方法を考えましょう」
「簡単に言うなぁ・・・」
「簡単じゃないわ。でも、アキラはきっと、どっちも捨てられないもの」
その通りだった。
だから困っている。
俺は領主になりたいわけじゃない。王都の政治に関わりたいわけでもない。貴族社会で派閥争いをしたいわけでもない。
ただ、手の届くところに傷ついた人々のいる場所があって、それを直せるかもしれない道具と知識があって、そこに温泉がある。
最後の一つだけ軽すぎる気もするが、重要だ。
「まず、精霊工房へ連絡する。状況確認と、報告だな」
「報告?」
「ああ。今回の件を・・・」
そこで、俺は止まった。
エマも止まった。
空中に浮かぶ精霊工房の定時ログには、在庫、注文、来客、研究素材、従業員の勤務状況が記されている。
こちらからの返信記録は。
ない。
「・・・そういえば」
「まさか」
「それどころじゃなかったから、セレナに報告してないや」
エマが目を閉じた。
「それは怒るわね」
「だよな」
俺は頭を抱えた。
王都では洗脳事件が起きた。王が退位し、新王が即位した。国中の洗脳が解け、混乱が広がり、俺はなぜか伯爵になり、東部新領地を預かることになった。
報告事項が多すぎる。
多すぎるが、それを報告していなかった時点で俺が悪い。
「アル。精霊工房側へ接続できるか」
『可能です。セレナ所持のメイン端末へ接続できます』
「頼む」
『了解しました』
光の板の一つが消え、代わりに通信接続を示す淡い円環が浮かんだ。
俺は深く息を吸った。
怒られる覚悟を決める。
王に頭を下げられるより、セレナに無言で見られる方が怖い気がするのは、どういうことだろう。
△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼
ヴェルクハーフェン、精霊工房。
開店前の店舗兼事務所は、すでに慌ただしかった。
棚には補充待ちの商品札が並び、事務机には注文書が積まれている。奥の工房側からは金属を叩く音と、瓶を並べる乾いた音が聞こえていた。
王都で何か大きなことが起きた。
その噂は、すでにヴェルクハーフェンにも届いていた。
ラムール王都で内乱が起きた。
王が死んだ。
王子が王を殺した。
精霊使いが王宮を焼いた。
銀の鳥が空を埋めた。
奴隷市場が潰れた。
噂は噂を呼び、尾ひれが付き、なぜか精霊工房の来客まで増えている。
マリアベルは、店先に出す予定の商品箱を抱えたまま、事務机の方をちらりと見た。
セレナは、いつも通り椅子に座って帳簿を見ている。
細縁の銀色眼鏡をかけ、背筋を伸ばし、羽ペンを動かす姿は普段と変わらない。
変わらないはずなのに、空気が少し冷たい。
「セレナさん、今日はちょっと怖いです・・・」
マリアベルが小さく呟くと、近くの椅子に立って棚の高さを確認していたリファニーが、ぐふふ、と笑った。
「寝不足ですかねぇ。人は睡眠不足になると、判断力と忍耐力が低下しますからぁ」
「そこの二人。手が止まっています」
セレナが帳簿から目を上げずに言った。
マリアベルとリファニーの肩が同時に跳ねた。
「は、はいっ」
「ぐふふ・・・動かしますぅ」
奥の工房から、ドグランの声が飛んでくる。
「おい、セレナ。小僧からの連絡はまだか」
「まだです」
「王都で派手にやらかしたんじゃろう? あやつ、無事なのか?」
「無事でなければ、アルさんが何かしらの形で通知してくるはずです」
「そりゃそうじゃがのう」
ドグランは不満げに鼻を鳴らした。
セレナは羽ペンを止めなかった。
止めないことで、落ち着いているように見せていた。
実際には、朝から何度も同じ数字を見直している。注文数も在庫も間違えてはいない。計算も合っている。だが、帳簿の数字が少しだけ頭に入りにくい。
理由は分かっている。
報告がない。
定時ログは送っている。アルが受信していることも確認している。だから、向こう側に異常があれば分かるはずだ。
それでも、アキラ本人からの連絡はない。
王都で何か起きている。
それは分かる。
だが、分かることと、納得できることは違う。
その時、事務机の上に置かれた小さな銀色の鳥型端末が、淡い光を灯した。
『アキラとの通信を接続します』
セレナの羽ペンが止まった。
マリアベルが息をのむ。
リファニーが目を丸くする。
ドグランが奥から顔を出す。
銀の鳥の上に、淡い光の輪が浮かび、音声が繋がった。
『接続完了』
「えー・・・セレナさん?」
聞き慣れた声がした。
セレナは一度だけ、浅く息を吸った。
「遅いです」
「すみません」
「王都で何か起きているのは分かっていました。ですが、最低限の報告くらいは入れてください」
「返す言葉もありません・・・」
言いたいことは山ほどあった。
だが、そのどれよりも先に、セレナの胸に落ちてきたのは別の感情だった。
「・・・無事でよかった」
口から出た言葉は、自分で思っていたよりも柔らかかった。
マリアベルが目を丸くした。
「えっ」
リファニーが首を傾げた。
「ほえ?」
ドグランが眉を寄せた。
「・・・なんと」
セレナ自身も、自分の声に少しだけ戸惑った。
怒るつもりだった。
まず叱るつもりだった。
なのに、声を聞いた瞬間、安心が先に来た。
セレナは眼鏡の位置を直し、表情を戻した。
「報告を」
「はい」
アキラの声が、少し真面目になる。
「まず、王都で魔眼による洗脳事件があった。詳しい説明は戻ってからになるが、国王を始め、王宮中枢を含め、国中が長い間精神干渉を受けていた。黒幕を倒したから洗脳は解けた。だが全員狂っていた時の記憶がある。今、ラムールは地獄だ」
事務所の空気が止まった。
マリアベルの顔から血の気が引く。
リファニーが、いつもの笑いを消す。
ドグランが無言になる。
「新王として、エニルカラコスが即位した。前王は退位。関係者の処分と調査は継続中だ」
「続けてください」
「それと・・・俺が伯爵位を受けることになった」
沈黙。
数秒遅れて、マリアベルが変な声を出した。
「は、伯爵様・・・?」
リファニーが椅子の上で足を滑らせかけた。
「ぐふぉっ!? 店主さんが貴族ですぅ?」
ドグランが額を押さえる。
「なんじゃそりゃ・・・また面倒なもんを背負いおったのう」
「俺もそう思う」
アキラの声は、本気で疲れていた。
セレナは眉一つ動かさなかった。
動かさなかったが、羽ペンを持つ指に少し力が入った。
「領地は?」
「王都東部の旧伯爵領と旧子爵領、それに周辺山間部を統合した新領地だ。鉱山、旧収容施設、奴隷労働の痕跡、熱水噴出地点、旧領都。いろいろある。悪い意味でも、良い意味でも」
「戻れますか?」
「なるべく早く戻る。だが、初動体制を整える必要がある。精霊工房も放置できないが、領地を任された以上、完全に放置するわけにはいかない」
「当然です」
「もう少しだけ、頼めるか?」
「帰ってきたら、説明は全部聞きますからね」
「はい・・・」
声だけなのに、アキラが小さくなっているのが分かった。
セレナは、そこで少しだけ息を吐いた。
「こちらの状況も報告します。ラムール騒乱の噂で来客が増えています。日用品は売れていますが、在庫の偏りが出ています。高級品の注文も増加傾向です。リファニーさんの研究素材要求は却下済みのものを含めて七件。ドグランさんの素材要求は十二件。マリアベルさんは接客に慣れてきましたが、客数増加には人手が足りません」
「最後が一番怖いな」
「全部怖いです」
「ですよねー」
「ですので、早く帰ってきてください」
少しだけ、言葉が強くなった。
セレナはそれに気づき、すぐに声を整える。
「店主として」
「分かってる。必ず戻る」
「エマさんも無事ですか?」
「無事よ」
通信越しに、エマの声が入った。
「心配をかけたわね、セレナ」
「いえ。エマさんがご無事なら、少なくともアキラさんは無茶をしても止まると思っていましたので」
「止まらなかったわ」
「でしょうね」
「おい」
通信の向こうで、エマが小さく笑った気配がした。
セレナはその声を聞き、わずかに目元を緩めた。
「とにかく、こちらは回しておきます。ですが、限界はあります」
「ああ。東部の初動だけ決めたら戻る」
「お待ちしています」
そう言ってから、セレナは一拍置いた。
「本当に、無事でよかったです」
通信の向こうで、アキラが少し黙った。
「・・・ありがとう」
短い返事だった。
それで十分だった。
『通信を終了します』
銀の鳥の光が消える。
事務所に、少し遅れて息が戻った。
マリアベルが、恐る恐るセレナを見た。
「セレナさん、今、少し笑ってましたよね?」
「手が止まっています」
「はいっ」
マリアベルは慌てて商品箱を抱え直した。
リファニーが、ぐふふ、と口元を押さえる。
「セレナさんにも、そういう顔があるんですねぇ」
「リファニーさん」
「はいぃ」
「却下した研究素材の再申請書を、机の上から回収してください。今すぐ」
「・・・ばれてましたかぁ」
「当然です」
ドグランが奥へ戻りながら、低く笑った。
「小僧も大変じゃのう」
セレナは何も答えなかった。
ただ、帳簿の端に新しい項目を書き加える。
王都騒乱後対応。
店主帰還予定未定。
伯爵位取得に伴う商業影響調査。
そして、その下に小さく一行。
帰還時、全説明要求。
△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼
通信が切れると、俺は椅子の上で深く息を吐いた。
「怒られた・・・」
「当然ね」
「でも、思ったより優しかった気がする」
「心配していたのよ」
「だよな」
セレナの「無事だったんですね」という声が、妙に耳に残っている。
あの人は感情を表に出すのがうまくない。基本的には数字と契約と段取りの人だ。だが、だからこそ、ああいう短い一言が重い。
精霊工房は回っている。
だが、無限に任せられるわけじゃない。
なら、帰らなければならない。
そのためにも、東部を最低限止めておく必要がある。
「アル。東部関連の情報を整理し直せ。今日中に決めるべきことだけ抜き出してくれ」
『了解しました』
「エマ」
「何?」
「もう一度、会議室に行く。こっちから話を進める」
エマが少し意外そうに目を瞬かせた後、すぐに頷いた。
「ええ。その方がいいわ」
「帰るための仕事だ」
「そうね」
帰るためには、逃げるのではなく、片付ける必要がある。
まったく、面倒な話だ。
王城内の小会議室には、すぐに人が集められた。
エニルカラコス、マルス、リブ、ベリス。
昨日とほとんど同じ顔ぶれだ。
ただ、昨日と違うのは、こちらから呼んだということだった。
「アキラ殿からお話があると聞きました」
「ああ。東部の件だ。一度帰る前に最低限の形だけ決めておきたい」
エニルカラコスが真剣な顔で頷く。
マルスが少し楽しそうに言った。
「帰る前提なんだね」
「当たり前だ。精霊工房も放置できない」
「新領地も放置できない」
「だから今ここにいる」
「いい顔になってきたじゃないか」
「やめろ。褒めるな。嫌な予感がする」
リブが横で笑う。
「褒められて警戒する奴も珍しいな」
「お前らに褒められると仕事が増える」
「否定しづれぇ」
軽口で少しだけ空気が緩む。
だが、本題は軽くない。
俺はアルに表示させた東部の立体地図を会議机の上に展開した。薄い光の山脈、谷、街道、鉱山施設、旧領都が浮かび上がる。
エニルカラコスが目を見張った。
「これは・・・」
「アルの整理した地図だ。精度はまだ完全じゃないが、今ある資料よりは見やすいと思う」
「見やすいどころではありませんが・・・」
ベリスは一瞬だけ目を細めたが、驚きを表に出さず、すぐに地図を確認し始めた。
こういうところが怖い。
「ベリス。現状で一番まずいことは?」
「複数あります」
「一番を聞いたんだが」
「一つに絞ると判断を誤ります」
「・・・分かった。全部言ってくれ」
「旧領主派の私兵がまだ残っています。鉱山責任者の一部は逃亡準備中。奴隷商残党は証拠隠滅を進めています。熱水事故記録の破棄、役人の財産持ち逃げ、旧領都の行政機能半壊も進行中です」
「想像以上にぐちゃぐちゃじゃないか」
「腐敗した領地とは、そういうものです」
旧領主がいなくなったから終わり、ではない。
むしろ、頭が消えたことで下が一斉に逃げ始めている。証拠を燃やし、金を持ち出し、人を移動させ、責任を曖昧にしようとしている。
完全に火事場泥棒の群れだ。
「王家から代官は・・・出せないよな」
俺が言うと、エニルカラコスは困ったように視線を落とした。
聞くまでもない。
王都再建と調査で、王家は手一杯だ。
「うん、王家側の人間は使わない」
エニルカラコスが顔を上げる。
「よろしいのですか?」
「王家が人手不足だから、俺に任せたいんだろ。なら、その王家から人材を取ったら意味がない」
マルスが楽しそうに笑った。
「ちゃんと考えてるじゃないか」
「うるさい」
「褒めたのに」
「だから嫌なんだ」
俺はマルスを見た。
「お前のところに使える奴はいないのか?」
「いるよ」
「やっぱりいるのか」
「君が聞くと思っていたからね」
「準備が良すぎる」
「必要な準備をしておくのは、悪いことじゃないだろう?」
「悪くはないが、なんか腹立つ」
マルスは肩をすくめ、ベリスへ視線を向けた。
ベリスが頷く。
「一人、適任がいます。セドリック=モラート」
聞き慣れない名前だった。
「どんな奴だ?」
「元々は別の領地で領地運営の補佐官をしていた男です。領地管理、運営能力は共に高く、不正を嫌います。面白みのない男ですが、仕事はできます」
「なぜ今はヤギの下に?」
「能力が高すぎたことと、不正を嫌いすぎたことが原因で、前の領地では疎まれました」
「だから嫌われたのか・・・」
有能すぎて嫌われる。
不正を嫌って嫌われる。
なんというか、実に領地運営向きだ。
「臨時代官はそいつでいく。ただし、俺が戻るまでの暫定だ。正式な人事は現地を見てから決める」
「承知しました」
ベリスが記録する。
エニルカラコスも頷いた。
「王命として保証します。セドリック=モラートの臨時代官就任、ならびに東部新領地における保全権限を認めます」
「助かる」
人は置いた。
だが、人を置くだけでは足りない。
最初に何を命じるかで、その領地が何を優先する場所なのかが決まる。
俺は地図上の鉱山と旧収容施設を見た。
アルの補足表示には、推定労働者数、事故記録、食料消費量、行方不明者、熱水事故の報告断片が並んでいる。
嫌な数字ばかりだ。
「さて、まず何をするか、だが・・・開発は後だ。まず止血する」
会議室の空気が少し変わった。
「鉱山操業を一時停止。奴隷労働は全面停止。旧収容施設は封鎖じゃなく保護だ。中に人がいる可能性がある。生存者の確認と保護を最優先にする」
ベリスの手が動く。
「食料と医療物資を搬入。危険な場所は一時封鎖。旧領主派私兵は武装解除。証拠隠滅は王命違反として即時拘束」
「承知しました」
「奴隷だった人間をただ解放して終わりにはしない。食うものも寝る場所もない状態で放り出したら、別の地獄になる。保護、治療、本人確認、希望者の就労支援。そこまでを一つの命令にしてくれ」
「分かりました」
「危険な場所なら安全にする。人が死んだ場所なら、立ち直る場所に変える。温泉だの開発だのは、その後だ」
口にしてから、少しだけ恥ずかしくなった。
俺らしくないことを言った気がする。
だが、誰も笑わなかった。
マルスも、リブも、ベリスも。
エニルカラコスは、若い王の顔で俺を見ていた。
「アキラ殿に東部をお願いして、よかったと思います」
「まだ早い。俺は何もしてない」
「最初に何を止めるかを決めました。それは、とても大事なことです」
「そういうものか?」
「はい」
王にそう言われると、反論しにくい。
俺は誤魔化すようにリブを見た。
「旧領主派の私兵、奴隷商残党、証拠隠滅。そういうのはどうするか・・・」
リブは待っていたように、にやりと笑った。
「治安は見とくぜ」
「いいのか?」
「お前が戻るまでの間くらいなら、こっちで押さえといてやるよ」
「助かる」
「元々、燃やす予定だった火種だ。今さら一つ二つ増えたところで変わらねぇ」
「便利な治安担当だな」
「おいおい、俺を便利屋扱いかよ」
「違うのか?」
リブは一瞬だけ黙り、それから肩を揺らして笑った。
「・・・違わねぇな」
会議室の空気が少し和らいだ。
正直、リブがいてくれるのは大きい。
「臨時体制を整理するぞ」
俺は指を折りながら確認した。
「臨時代官はセドリック=モラート。治安維持はリブ。裏監査と情報網はベリス、というかヤギ。王命保証はエニルカラコス。遠隔監視と分析はアル。最終責任者は俺」
「よくできました」
マルスがにこにこと言う。
「子供扱いするな」
「してないよ。領主扱いだ」
「それも嫌だ」
「慣れるさ」
「その言葉も嫌いになってきた」
エマが横で小さく笑った。
俺は咳払いして、話を戻す。
「開発方針は俺が戻ってから決める。それまでは止血と保全だ。旧領都をどう扱うか、新拠点をどこに置くか、鉱山をどうするか、熱水をどう使うかは現地を見てから決める」
「了解した」
マルスが頷く。
ベリスも記録を終えた。
これで、最低限は整った。
もちろん、穴はいくらでもある。俺がいない間に問題も起きるだろうし、セドリックという男が本当に使えるかも分からない。
だが、何も決めずに帰るよりはいい。
そう思ったところで、俺の肩口に淡い銀色の光が集まった。
小さな鳥の形を取ったアルが、ふっと姿を現す。
普段は見えないようにしているが、外に向けて話す時だけは、精霊らしい姿を取る。相手にとっても、その方が分かりやすいのだろう。
『要請があります』
全員の視線が、銀の小鳥へ向いた。
エニルカラコスが少し姿勢を正す。
「精霊殿?」
『ラムール魔導大学等、王家が管轄する書籍閲覧権限を所望します』
空気が止まった。
俺は思わず銀の小鳥を見た。
「お前、本当に本が好きだな・・・」
『知識と情報の収集は、現状改善に有効です』
「言い方が堅い」
マルスが興味深そうに銀の小鳥を見る。
「具体的には、何を調べたいんだい?」
『魔術理論、魔法陣理論、古代文明、龍脈工学、古代術式、魔石反応、精霊術、神代言語、封印技術、魔力変換炉について』
「増えたな」
『必要項目です』
「絶対まだあるだろ」
『あります』
「認めるな」
エニルカラコスは少し考えた後、真面目な顔で頷いた。
「分かりました。アキラ殿と精霊殿がいなければ、この国は救われませんでした。必要な知識があるなら、王家として許可します」
『承認を確認しました』
銀の小鳥はそれだけ告げると、役目を終えたように輪郭をほどき、淡い光になって消えた。
会議室の空気が、少しだけ緩む。
精霊が知識を求めた。
外から見れば、それだけの話だ。
(・・・待て。今の権限、禁書庫も含まれてないか?)
『含まれています』
(宝物庫は?)
『王家管理下の書物、古文書、研究記録、保管資料が対象に含まれます』
(お前、最初からそれが目的だったな?)
『質問に対し、最適解を選択しました』
やりやがった。
こいつ、完全にやりやがった。
『情報収集を開始します』
俺は額に手を当てた。
まあ、今さら止めても遅い。
アルが情報を欲しがるのは、遊びではない。
この世界の魔法、龍脈、古代文明、魔道具、封印、精神干渉。ラムールで起きたことを考えれば、知らないままでいる方が危険だ。
たぶん、アルは俺より先にそこを見ている。
たぶん。
八割くらいは知識欲だろうけど。
会議が終わる頃には、窓の外の光が少し傾いていた。
東部新領地への第一報は、王命として出されることになった。
もちろん、完璧じゃない。
穴はいくらでもある。
それでも、何も決めずに帰るよりはいい。
東部が崩れ落ちる前に、最低限の手当ては置いた。
俺は会議室を出て、王城の廊下を歩いた。隣にはエマがいる。少し後ろを、案内役の兵士が距離を取ってついてくる。
「これで、東部は最低限止まる」
「ええ」
「今度こそ、精霊工房へ帰る」
エマが小さく笑った。
「帰れるわね」
「ああ」
その一言で、胸の奥に少しだけ温かいものが広がった。
あの家に。
あの風呂に。
あの工房に。
セレナに怒られ、ドグランに呆れられ、リファニーに変な研究報告をされ、マリアベルに伯爵様と呼ばれて全力で否定する。
そんな未来が、妙にはっきり見えた。
面倒だ。
でも、そんな面倒が懐かしかった。




