第78話 帰れると思ったのに
あれから、数日が経った。
あの三日後には予定通り前国王は中央広場にて処刑された。
エニルは涙は流さなかった。
王都は、一見すると落ち着きを取り戻しつつあった。
通りから怒号は減った。
貴族街のいくつかの屋敷には王の封印が貼られ、奴隷市場の門も閉ざされている。
逃げようとした者は捕まり、証拠を焼こうとした者は止められ、隷属の首輪に関わった者たちも、少しずつ引きずり出されているらしい。
もちろん、すべてが解決したわけじゃない。
そんなはずがない。
洗脳が解けたからといって、記憶まで消えるわけではない。
自分が何をしたのか、誰を傷つけたのか。
それを抱えたまま、人は生きなければならない。
それでも、国は止まらずに動き始めていた。
それは、たぶん、エニルカラコスが最初の勅令で示した方向が、少なくとも間違ってはいなかったということなのだろう。
まあ、そのあたりの細かい国家運営については、俺の手に余る。
俺は王じゃないし、政治家でもない。
ただの冒険者で、工房の店主で、少しばかり妙な精霊・・・を連れた男だ。
だから、そろそろ帰れると思っていた。
その夜も、俺とエマは同じ部屋で眠った。
王城の来客用の客室は、無駄に広い。
壁も、天井も、寝台も、調度品も、俺たちがヴェルクハーフェンで借りている家とはまるで違う。
寝台など、二人で横になっても十分すぎるほどの広さがあった。
最初は、当然のように二部屋用意されていたらしい。
だが、エマが固辞した。
理由は、まあ聞かなかった。
聞かなくてもわかるだろ。
灯りを落とした部屋は静かだった。
王城の中にはまだ人の気配が多い。夜でも誰かが動き、どこかで扉が開き、遠くで足音がする。
それでも、この部屋の中だけは、外の重さから少し切り離されているように思えた。
「ねぇ、アキラ」
「ん?」
横になってしばらくした頃、エマが小さく俺の服を掴んだ。
「ぎゅーってして」
その言い方が、少しだけ子供みたいで。
俺は、思わず笑ってしまった。
「ったく、エマがこんなに甘えん坊だとは思わなかったぞ」
「・・・悪い?」
「いいや、悪くないよ・・・っと」
俺が腕を広げると、エマは待っていたみたいに身を寄せてきた。
細い肩が、俺の胸に触れる。
髪から、かすかに甘い香りがした。
「甘えるのは、アキラだけだもん」
胸の奥が、変なふうに詰まった。
強い女だと思っていた。
気高くて、まっすぐで、時々意地っ張りで。
何かを背負うことにも、傷つくことにも、慣れすぎているような女だと思っていた。
でも、今のエマは、俺の腕の中で小さく息を吐いている。
誰にも見せない顔を、俺だけに見せている。
「そっか」
「うん」
俺は、エマの背中に腕を回した。
強く抱きしめすぎないように。
けれど、離れないように。
エマも、俺の服を握る指に少しだけ力を込めた。
しばらく、何も話さなかった。
話さなくてもよかった。
顔を上げたエマと、目が合う。
どちらからともなく、距離が近づいた。
唇が触れる。
短いキスだった。
けれど、もう驚きはなかった。
照れはある。
心臓も、少しうるさい。
それでも、特別な儀式みたいなものではなかった。
これが、俺たちの新しい日常になったのだと。
そう思った。
「・・・もう一回」
エマが、小さく言った。
今度は、俺から少しだけ顔を近づけた。
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翌朝。
俺は、そろそろ精霊工房へ戻る、と言うつもりでいた。
王都の空気はまだ重い。
けれど、俺たちがここに居続けても、できることは限られている。
国の立て直しは、エニルカラコスとマルスたちの仕事だ。
俺はエマと一緒にヴェルクハーフェンへ帰り、セレナに怒られ、ドグランに土産話をして、できれば数日くらい何も考えずに工房で過ごしたかった。
そして家の風呂に入りたい。一刻も早く、だ。
工房の様子も気になる。
セレナがどれだけ仕事を増やしているかも、怖いが気になる。
そんなことを考えながら外套を手に取ったところで、部屋の扉が叩かれた。
「アキラ様。エマ様。新王陛下とマルルークス様がお呼びです」
その瞬間、俺は手にしていた外套を止めた。
嫌な予感がした。
とても嫌な予感がした。
「・・・帰れると思ったのに」
「まだ何も聞いていないでしょう」
エマはそう言ったが、俺には分かる。
こういう時の予感は、だいたい当たる。
案内されたのは、玉座の間ではなく、王城内の小さな会議室だった。
小さいと言っても、王城基準での話だ。
十分に広いし、窓も大きいし、机も椅子も無駄に上等だ。
室内には、エニルカラコス、マルス、リブ、ベリスがいた。
エニルカラコスは、王冠こそ戴いていないが、もう王の顔になりつつあった。
先日までの震える王子ではない。
もちろん、完全に慣れたわけではないのだろう。
目元には疲れがあるし、顔色も良くない。
けれど、逃げる目ではなかった。
一方で、マルスはにこにこと笑っていた。
その顔が一番信用ならない。
「アキラ殿、エマ殿。来ていただきありがとうございます」
エニルカラコスが丁寧に頭を下げた。
マルスが苦笑する。
「エニル。王になったのだから、そう簡単に頭を下げるもんじゃないよ」
「は、はい、兄上」
俺はそのやり取りを見て、思わず苦笑した。
「陛下は慣れるまで時間がかかりそうですね。それで、用件というのは?」
「アキラ殿には、正式な褒賞をお渡ししたいと思っています」
「お気持ちだけで」
即答した。
エニルカラコスが目を瞬かせる。
「まだ内容を言っていません」
「内容を聞く前から嫌な予感がしています」
隣でマルスが笑みを深めた。
ほら見ろ。
絶対に何かある顔だ。
「大丈夫。悪い話じゃないよ」
「悪い話をする奴は、だいたいそう言う」
「信用がないなぁ」
「あると思っていたのか?」
リブが横で小さく笑った。
「おいおい、王族相手にその言い方かよ」
「そっちだって笑ってるだろ」
「まあな」
軽口を挟めるくらいには、この場の空気は硬すぎなかった。
だからこそ、余計に嫌な予感がする。
エニルカラコスは、卓上に広げられた地図へ視線を落とした。
「アキラ殿には、伯爵位を授けたいと考えています」
「はい?」
「加えて、王都東部の旧モントリィ=カルスト伯爵領、旧アムストロ=ビジン子爵領、および周辺山間部を統合した新領地を預かっていただきたい」
「はい?」
思わず同じ返事をしてしまった。
いや、仕方ないだろう。
伯爵位。
領地。
しかも、旧伯爵領と旧子爵領を統合。
重い。
話が重すぎる。
「いや、待て。俺は冒険者で、工房の店主で、精霊使いではあるが、領主ではない」
「これからなるんだよ」
「ならない」
マルスの返答が早すぎる。
「新王陛下からの褒賞だ」
「褒賞って言ったか? ラムールじゃ褒賞と書いて厄介事って読む風習でもあるのか?」
「読まないよ」
「嘘だ」
「嘘じゃないよ」
エマが少し困ったように俺を見る。
「アキラなら、できると思うわ」
「エマまでそっち側か」
「だって伯爵位よ?」
エマが耳元でささやく。
「伯爵なら・・・いつか私がエメリアとして隣に立つことになっても、話が通しやすくなるわ」
「うっ・・・」
そういうことなら、余計に断りづらい。
ずるい。
「領地についての詳細です」
エニルカラコスは、地図の東側を指し示した。
「ここが今回、断罪対象となったカルスト伯爵と、ビジン子爵の領地です。王都東側の山間部、鉱山地帯、水源地、旧街道を含む広域になります」
「広域って言葉がすでに怖いんだが」
「実際、簡単な土地ではありません」
ベリスが静かに補足する。
「旧領都はありますが、腐敗の中心でもありました。鉱山、隠し収容施設、違法奴隷労働の痕跡も残っています。王家直轄にするには人手が足りず、既存貴族に任せれば、また別の腐敗を招く可能性が高い」
「だから俺に?」
「はい」
エニルカラコスは、まっすぐ言った。
「アキラ殿は、既存貴族派閥に属していません。今回の事件の最大功労者であり、精霊使いとして国中に知られました。さらに、あの土地には通常の貴族では扱いきれない問題が多すぎます」
「俺なら扱えると?」
「扱えるかは分かりません」
「そこは嘘でも扱えると言え」
「ですが、他の誰よりも、違う形に作り替えられる可能性があると思っています」
変に真っ直ぐ言われると、文句が言いづらい。
俺は助けを求めるようにマルスを見た。
マルスは笑っていた。
駄目だ。
完全に仕掛けた側の顔だ。
「問題一つなのですが、領地の山間部が、鉱山開発でかなり荒れています」
エニルカラコスが言った。
「奴隷を使って無茶な鉱山開発をしていたようです。掘り進めると、熱い水が噴き出すことも多く、そこで多くの奴隷が命を落としました」
「・・・なんですと?」
俺は思わず身を乗り出した。
エニルカラコスの顔が曇る。
「ですから、多くの奴隷の命が・・・」
「いや、その前! 熱い水、とか言ってなかったか?」
「言いましたが・・・」
(アル! これは温泉だよな!?)
『地熱性地下水、または龍脈由来の高温水脈である可能性があります。温泉と定義して差し支えない条件を満たす可能性が高いです』
キタコレ。
いや、待て。
浮かれるところじゃない。
そこで人が死んでいる。
奴隷を使い、無茶な開発をして、熱水が噴き出して、多くの命が失われた。
それを聞いて、ただ喜ぶのは違う。
違うのだが。
熱い水。
地面から湧く熱い水。
つまり、温泉。
俺は一度、息を整えた。
「もちろん、死者が出たことを軽く見てるわけじゃない。そこは保証を含めてきちんと対応する」
エニルカラコスが、少しだけ表情を戻した。
「危険な熱水を放置すれば、人が死ぬ。だが、制御できれば資源になる」
「資源、ですか」
「そうだ。救済院は、不当に奴隷にされた人間を救い上げる場所だろ」
「はい」
「でも、身分を戻しただけで人生が戻るわけじゃない。体を壊した奴もいる。行き場のない奴もいる。働き方を一から覚え直さなきゃならない奴もいる」
俺は、地図の東部山間部を指で叩いた。
「なら、その受け皿を作ればいい。鉱山跡の熱水を制御して、療養施設と研修施設にする」
エニルカラコスが、わずかに目を見開いた。
「救済院の、その先・・・」
「そうだ。救済院は、救い上げる場所。俺の領地には、立ち直る場所を作る。療養、研修、就職の斡旋」
言ってから、自分でも少し驚いた。
口に出してみると、思った以上にしっくりきた。
奴隷として使い潰された土地。
人を殺した鉱山。
危険な熱水。
それを、回復の場所に変える。
この国には、たぶんそういう象徴が必要だ。
そこで、エマがじっと俺を見た。
「それは建前ね」
「建前ではない。かなり本気だ」
「本音は?」
エマの目が、俺の逃げ道を塞いでいた。
俺は少しだけ黙った。
そして、拳を握る。
「世界最大の温泉リゾートを作る!」
「おんせん?」
「りぞーと?」
聞き慣れない言葉に、エニルカラコスとマルスが同時に首を傾げた。
リブまで眉を寄せている。
「なんだそりゃ」
「温泉だ。熱い湯だ。地面から湧く熱い湯に浸かって、疲れを取り、飯を食い、柔らかい寝具で眠り、朝になったらまた湯に入る。人類が到達すべき幸福の一つだ」
『補足します。温浴による血行促進、筋緊張緩和、心理的安定効果は一定の合理性があります』
(だろ!?)
エマが、じっと俺を見た。
「今、アルも乗ったわね」
「アルは分かっている」
エマは額に手を当てた。
「また、ろくでもないことを考えているのはよく分かったわ」
「ろくでもなくない。温泉だぞ」
「その温泉というものが、すでに危険なのよ」
「危険じゃない。人類の夢だ」
「熱い水が噴き出して人が死んでいるって話を聞いた直後に、よく夢って言えるわね」
「だから安全にするんだ。危険な場所なら、安全にする。人が死んだ場所なら、人が回復する場所に変える」
言ってから、俺自身も少しだけ胸の奥が熱くなった。
ただ温泉に浮かれているだけじゃない。
いや、浮かれてはいる。
かなり浮かれている。
だが、それだけじゃない。
「殺された場所を、立ち直る場所に変える。鉱山跡を療養地にして、そこから街を作る」
エニルカラコスが、小さく息を呑んだ。
「鉱山跡を、街に・・・」
「まずは療養施設。次に住居。仕事場。食堂。工房。宿。道。水回り。最終的には温泉街だ」
「話がどんどん大きくなっているわね」
「温泉は中心だ。軸だ。文明だ」
「その言い切り方が怖いのよ」
マルスが楽しそうに笑った。
「なるほど。さっきまで嫌がっていた人間とは思えないね」
「事情が変わった」
「熱い水が出るだけで?」
「だけ、じゃない」
俺は地図を指差した。
「そこには、温泉がある」
「それ、格好よく言うことなの?」
エマが冷静に言う。
「格好いいだろ」
「いいえ」
即答だった。
リブが腹を抱えるほどではないが、肩を震わせている。
「いやぁ、いいじゃねぇか。殺伐とした話ばっか聞かされてたからな。急に湯とか言われると、頭が追いつかねぇ」
「リブさんまで・・・」
エニルカラコスが困惑している。
ベリスは表情こそ変えないが、何かを記録していそうな目をしていた。
「温泉リゾート、ですか」
「その目は何だ」
「いえ。今後、書類上どう表記すべきか考えていただけです」
「そこから入るのか」
「名称は大切ですので」
やめろ。
自分で言っておいてなんだが、正式書類に温泉リゾートと書かれたら、俺の逃げ道がさらに消える。
「待て。温泉はやる。だが伯爵は別だ」
「領地を任せるなら爵位が必要です」
エニルカラコスがすぐに言った。
「じゃあ代官でいいだろ」
「旧伯爵領と旧子爵領を統合します。さらに周辺山間部も含める以上、代官では周囲が従いません」
「ぐっ・・・」
理屈は分かる。
分かるが、納得したくない。
「それにしたって、いきなり伯爵ってのは・・・」
俺が言うと、マルスが肩をすくめた。
「この国を興した男は、平民から王になった。それに比べたら、なんてことはないさ」
「比べる対象がおかしい」
「そうかな」
「おかしい」
「でも、君は国を救った。その功績に対して、男爵や子爵では軽すぎる。かといって侯爵にするわけにもいかない。伯爵は妥当だよ」
「妥当という言葉の意味を疑いたくなってきた」
「慣れるさ」
「慣れたくない」
エニルカラコスが、改めて俺を見た。
笑ってはいなかった。
若い王の目だった。
「アキラ殿」
「はい」
「この国は、あなたに返しきれないほどの借りを作りました」
「俺は、別に国のためにやったわけじゃない」
「それでも、国が救われました」
「ただの結果論だ」
「そして、この壊れかけの国は、象徴となる、民がすがる英雄を欲しているのです」
エニルカラコスは立ち上がり、深く頭を下げた。
「どうか、東部を預かっていただきたい」
王が、頭を下げている。
数日前、国中の奴隷に向けて頭を下げたばかりの若い王が、今度は俺に頭を下げている。
やめてほしい。
こういうのは本当に断りづらい。
だが、理解できないわけではなかった。
英雄。
そんな大層な役が務まるのだろうか。
その横で、エマの手がそっと俺の手に触れた。
握り返す。
エマは何も言わない。
ただ、隣にいる。
それが、妙に心強かった。
「はぁ・・・分かった。受ける」
エニルカラコスの顔が明るくなる。
「ありがとうございます」
「ただし、条件がある」
「条件、ですか」
「鉱山跡の全面調査権。熱水の利用権。旧鉱山奴隷の保護と就労支援。領地開発方針への裁量。それと、旧領都に縛られない新拠点開発を認めてくれ」
エニルカラコスは、すぐに頷いた。
「認めます」
「精霊工房との連携も認めてもらう。輸送、技術導入、将来的な移動手段も含めて、こっちで動きやすい形にしたい」
「それも認めます」
「魔道具開発もしたいのだが、可能か?」
「魔道具に関しては完全に自由というわけにはいきません。新規で作ったものは王家に提出していただく、という条件付きでなら」
「そんな程度で良いのか?」
「本来なら、もっと厳しく管理すべきでしょう。ですが、アキラ殿を縛りすぎれば、そもそも何も生まれません」
「ふふっ、アキラを信用しているんだよ」
とはマルスだ。
「そうなのか?」
「でも、本音を言えば、アキラって多分、凄いの作っちゃうでしょ。それを、よその国の利益にしたくない。なら、条件を緩くしてでもラムールで作ってもらいたいのさ。ね、エニル?」
「その通りです。こちらとしてもできるだけのサポートもします。ラムール魔導大学への立ち入りの許可証も出しますので、講義を聞いたり、書庫を利用していただいて構いません。ただし、危険なものは表に出さない。その判断だけは、王家にも関わらせてください」
「そういう事か。なら、お互いにWin-Winになるようにやらせてもらうぜ」
「うぃんうぃん、というのはよくわかりませんが、よろしくお願いします」
「あと」
「はい」
俺は真顔で言った。
「温泉施設ができたらぜひ遊びに来てくれ」
妙な沈黙が落ちた。
エマが額に手を当てる。
「・・・それは条件なのかしら」
「ああ。王家のお墨付きが付けば大きな宣伝となる。最重要だ」
「そこは本気なのね」
「当然だ」
マルスが笑っている。
リブも笑っている。
ベリスだけは、真顔で何かを考えている。
エニルカラコスは笑いながら言った。
「完成したら一番に入らせてもらいに行きますよ」
こうして俺は、帰れると思っていた王都で、伯爵位と領地を押し付けられることになった。
しかし、温泉と魔道具製造の許可を手に入れた。
『アキラ。素晴らしい交渉でした』
(お前は魔道具のことで頭がいっぱいだろ?)
『いえ、一杯ではありません。メインCPUの使用率は二%程度です』
(そうかよ。それにしても)
「帰れると思ったのに・・・」
俺が呟くと、エマが小さく笑った。
「帰る場所が増えただけじゃない?」
そう言われて、俺は地図の東部山間部を見る。
傷跡だらけの土地。
そこに、温泉がある。
なら。
少しだけ、やる気が出てしまった。




