第77話 最初の勅令
エニルカラコスは、王冠の前に立っていた。
王冠は、玉座の上に置かれている。
金細工の縁に窓から差し込む光が触れていた。美しいはずのそれが、今は重く、冷たく、近づく者の覚悟を試す刃物のようにも見える。
エニルカラコスは、父を見る。
次に、兄を見る。
そして、王冠へ手を伸ばした。
指先が触れると、そこで一度、震えた。
それでも、引かなかった。
王冠を持ち上げる。
玉座の間にいた誰もが、その動きを見ていた。
だが、エニルカラコスはそこで止まった。
胸の高さで王冠を持ったまま、唇を噛んでいる。
国を背負う覚悟を決めたはずなのに、最後の一歩だけが、どうしても遠い。
「エニルカラコス」
旧王が言った。
その声は静かだった。
「被れ」
エニルカラコスの肩が揺れる。
「それを抱いている限り、お前はまだ王子だ」
旧王は、膝をつく前の最後の王として、息子を見ていた。
「その重さを頭に戴いて、初めて王となる」
エニルカラコスは、王冠を見る。
手は震えていて、呼吸も浅い。
その横で、マルスが静かに言った。
「逃げないんだろ」
エニルカラコスは目を閉じた。
それから、王冠を掲げる。
ゆっくりと。
本当にゆっくりと。
金の輪が、彼の頭上へ降りた。
王冠が、エニルカラコスの頭に乗る。
その瞬間、玉座の間の空気が変わった。
震えていた若者は、まだ震えていた。
顔色も悪い。
目元には、父を裁かなければならない息子の苦しみが残っている。
けれど、もう王子ではなかった。
ラムール王国新王。
エニルカラコス王だった。
旧王は、静かに膝をついた。
「父上・・・!」
エニルカラコスの声が揺れる。
だが、旧王は首を横に振った。
「今、余が膝をついたのは、父としてではない」
王冠を失った王は、顔を伏せた。
「旧王として、新王に裁きを委ねるためだ」
その言葉を合図にしたように、玉座の間にいた者たちが、次々と膝をついた。
リブは片膝をつき、ゾゾルは盾を床につける。
リアも膝をつき、静かに頭を垂れた。
ララレアも、珍しく口を閉じて膝をついた。
俺は一拍遅れてから膝をつく。
隣で、エマも静かに膝をついた。
最後まで立っていたのは、マルスだった。
兄は、弟を見ていた。
王冠を戴いた弟の目を、まっすぐに見ていた。
それから、ゆっくりと膝をつく。
「新王陛下」
兄の声が、玉座の間に落ちた。
エニルカラコスの喉が動いた。
その顔は、今にも泣きそうだった。
けれど、泣かなかった。
「立ってください」
エニルカラコスは言った。
声は震えていた。
それでも、王冠を戴いた者の声だった。
「悪いな。今は、膝をついている時間すら惜しい」
リブがそう言って立ち上がる。
いつもの軽口はない。
「そうだね。今後のことを決めないと」
マルスも立った。
玉座の間に集まった者たちが、それぞれ顔を上げる。
旧王だけは、膝をついたままだった。
エニルカラコスは、その姿を一度だけ見た。
そして、目を逸らさずに言った。
「まず、魔眼のことは隠しません」
エニルカラコスは言った。
「旧王の処刑は三日後。その間に、父上には証言していただきます」
「それでよい」
旧王は膝をついたまま頷いた。
「余の知ることは、すべて話そう」
エニルカラコスの喉が動く。
父を処刑すると告げた。
その父が、それでよいと受け入れた。
たぶん、その事実だけで、胸が裂かれるほど痛いはずだ。
それでも、新王は顔を上げた。
「エニル。この資料を使ってくれ」
「兄上・・・」
マルスは懐から一冊の薄い帳面を取り出した。
いや、帳面だけではない。
リブが床に革袋を置き、その口を開く。中には書類の束、封蝋付きの密書、奴隷台帳の写し、鉱山収益の記録、処刑命令書の控え、商会との契約書らしきものまで詰め込まれていた。
「これは、キマイラヘッドが長年集めてきた記録だ」
マルスが言う。
「すべてではないよ。けれど、第一陣を裁くには十分だと思う」
エニルカラコスは、資料を受け取った。
数枚めくっただけで、顔色が変わる。
「これは・・・」
「報復ではありません」
リアが静かに言った。
マルスは頷く。
「報復なら、もっと長い名簿になっている」
リブが、ほんの少しだけ口元を歪めた。
「俺たちが裁いていいなら、軽く三桁は行くぜ。下手したら4桁だ」
「それが、僕が王座に付けない理由でもある」
マルスは、エニルカラコスを見る。
「これは処刑したい者の名簿じゃない。処刑しなければ国が始まらない者の名簿だ」
エニルカラコスは、資料を握る手に力を込めた。
「モントリィ=カルスト伯爵」
最初の名を読み上げる。
「東部鉱山における違法奴隷労働。死亡者数の偽装。複数の非ヒューム集落の接収と虐殺。奴隷商との利益分配」
声が、少しずつ低くなっていく。
「アムストロ=ビジン子爵。違法奴隷の輸送路提供。山中の隠し収容施設。移送命令書の改竄。逃亡者処分記録。百人を超える婦女暴行と殺人」
ページをめくる。
「ロキソル=オルニン侯爵。王命の異常性を察知しながら、政敵排除に利用。裁判記録の改竄。証人失踪。没収財産の派閥内移転。数百人に及ぶ、子供を使った人体実験の幇助」
エニルカラコスは、そこで一度息を吐いた。
「ザルド=ヴェイガン男爵。王都奴隷市場における違法奴隷売買。身元記録の改竄。数千人にも及ぶ死亡奴隷記録の抹消。台帳破棄命令」
玉座の間の空気が冷えていく。
俺は、聞いているだけで気分が悪くなった。
ただの悪意ではない。
エニルカラコスは、資料から顔を上げた。
「これは・・・魔眼で洗脳された、という言い訳では済みませんね」
「うん」
マルスは静かに頷いた。
「魔眼の影響はある。そこは否定しない。でも、これは命じられた悪事じゃない。悪事が許される空気になった時、誰より早くそこへ手を伸ばした記録だ」
「ならば」
エニルカラコスは、王冠を戴いたまま告げた。
「モントリィ=カルスト伯爵、アムストロ=ビジン子爵、ロキソル=オルニン侯爵、ザルド=ヴェイガン男爵。爵位を剥奪。領地および財産を没収。断罪後、死刑とします」
誰も異を唱えなかった。
新王の最初の処断。
それは、怒りに任せたものではない。
証拠に基づく裁きだった。
エニルカラコスは、さらに資料をめくる。
そこで手が止まった。
「グラシオン=バル=ローデン」
その名が出た瞬間、リブの目つきが変わった。
ララレアの顔からも、わずかに表情が消える。
マルスが言った。
「隷属の首輪を作らせた男だ」
その言葉だけで、玉座の間の空気が変わった。
隷属の首輪。
人の意思を奪い、命令に縛りつける魔道具。
俺も、それを見た。
子供たちの首に、あんなものが嵌められていた光景を、忘れられるはずがない。
「グラシオンは、首輪の実用化を王国統制の功績として利用し、地位を上げていった」
マルスの声は静かだった。
「実験に使われたのは、主にヒューム以外の子供たちだ。成功例より、失敗例の方がずっと多い。死んだ子供の数は、記録上だけでも・・・」
マルスは言葉を切った。
言わなくても分かった。
リアが目を伏せる。
ゾゾルは、盾の柄を握る手に力を込めていた。
ララレアは笑っていない。
「グラシオン=バル=ローデン」
エニルカラコスは、名を読み上げた。
「隷属の首輪の開発推進。非ヒューム児童の実験利用。死亡記録の隠蔽。実用化後の流通支援。爵位と財産、関連権益の没収。断罪後、死刑」
旧王が、膝をついたまま歯を食いしばる。
その顔に浮かんだものは、怒りではなかった。
恥だった。
自分の名のもとで、そんなものが作られ、使われ、功績とされていた。
その事実が、また一つ、王の背を沈めていく。
「研究開発チームの中心にいたのは、オルガン=メルキウスです」
突然、静かな声がした。
全員の視線が、玉座の間の脇へ向く。
そこに、ベリスがいた。
いつからいたのか、誰にも分からなかった。
帽子を胸に当て、いつものように涼しい顔をしている。
「お前、広場に残ったんじゃなかったのかよ」
リブが呆れたように言う。
「残っていましたよ」
「今ここにいるだろうが」
「必要な指示は出しました。広場は灰角の者が回しています」
ベリスは、まるで当然のように言った。
「それに、隷属の首輪の話が出るなら、私がいないわけにはいきません」
いかにも、ヤギらしい。
エニルカラコスがベリスを見る。
「オルガン=メルキウスは、死罪ではないのですか」
「死罪に値します」
ベリスは即答した。
「ですが、今すぐ殺すには、持っている情報の価値が高すぎる」
声は冷えていた。
「隷属の首輪の構造。解除方法。流通経路。製造拠点。試作型の保管場所。関与した魔道具師、商会、貴族。聞き出さなければならないことが多すぎます」
「死刑よりも先に、聞くべきことがあると」
「ええ」
ベリスは帽子のつばに指を触れた。
「生かしておくのは慈悲ではありません。首輪をこの国から消すためです」
エニルカラコスは、少しだけ迷った。
子供たちを実験で殺した男を、すぐに処刑しない。
それは感情としては飲みにくい。
けれど、王は感情だけで裁けない。
王冠を戴いた者は、その場の怒りよりも、救える命を選ばなければならない。
「オルガン=メルキウスは、王命による特別拘束。ベリス=ガルガンの管理下に置きます」
エニルカラコスは告げた。
「隷属の首輪の解除、製造拠点、流通経路、関係者の洗い出しが終わり次第、改めて裁定する」
「承りました」
ベリスは静かに頭を下げた。
たぶん、オルガンにとっては即座の処刑よりも恐ろしいことになるのだろう。
そう思えるくらい、ベリスの横顔は穏やかだった。
エニルカラコスは、断罪名簿を閉じる。
「これほどの家を潰せば、空く領地が多すぎます」
新王は、すぐに現実へ戻った。
「一旦は王家直轄とするにしても、今の王家にそこまで人を出す余裕はありません。王都を立て直すだけでも手が足りない」
「うん」
マルスが頷く。
「だから、任せられる人に任せてしまえばいい」
エニルカラコスが眉を寄せた。
「簡単に言いますね、兄上」
「信頼に足る人物には、あてがある」
その瞬間、なぜかマルスの視線が俺に向いた。
にこりと笑う。
嫌な予感がした。
とても嫌な予感がした。
「エニルは、準備だけしておいて」
「兄上がそう言うなら・・・」
エニルカラコスはまだ疑問を残した顔だったが、それ以上は問わなかった。
おい。
聞け。
そこはちゃんと聞いてくれ。
俺の中で何かが警鐘を鳴らしていたが、この空気で口を挟む勇気はなかった。
エニルカラコスは、再び顔を上げる。
「次に、魔眼による罪の扱いを定めます」
玉座の間に、緊張が戻る。
「魔眼に支配されていた者を、すべて罪人とはできません」
エニルカラコスは言った。
「ですが、便乗した者は裁きます」
マルスが頷く。
「その線引きでいい。一般兵や下級役人まで潰せば、国が動かなくなる」
「私刑と自死も止めます」
エニルカラコスは、そこで一度目を伏せた。
「生きて証言させる。生きて償わせる。その言葉を、国へ届けます」
俺は、ギルドで見た受付嬢の血を思い出した。
誰かを助けていなければ、自分が壊れてしまいそうだったヒーラーの顔も。
この命令は、あの人たちにも届かなければ意味がない。
「次に、奴隷についてです」
エニルカラコスが言うと、ララレアが顔を上げた。
「奴隷制度そのものを、今すぐ消すことはできません」
空気が硬くなった。
ララレアの目が細くなる。
「でも、このままにはしないんやろ?」
「はい」
エニルカラコスは頷いた。
「まず、奴隷を物として扱う法を終わらせます。殺傷、虐待、不当な家族分断、違法奴隷化。その再審査を始めます」
「それを誰が見るん?」
「王立救済院を作ります」
ベリスが、ほんの少しだけ目を細めた。
「これは、べリスが適任だな」
マルスが悪びれずに言う。
「仕事が増えましたね」
「お願いします」
「拒否権は?」
「ありません」
「でしょうね」
エニルカラコスは、そこで一度言葉を切った。
ララレアが、新王を見上げる。
「でも、それ、ここで言うても届かへんよ」
軽い口調ではなかった。
「王様の言葉でも、玉座の間で止まったらただの相談や」
玉座の間に、短い沈黙が落ちる。
エニルカラコスは、少しだけ目を伏せた。
逃げるような沈黙ではない。
自分の言葉が、どこへ届くべきかを理解した沈黙だった。
「その通りです」
新王は言った。
「この言葉は、国へ届けなければならない」
「なら、届ければいい」
俺が言うと、全員の視線がこちらへ向いた。
しまった。
つい口が出た。
だが、ここまで言った以上、引っ込めるわけにもいかない。
「今、この国中に俺の精霊を放っている」
エニルカラコスが目を見開く。
「国中へ、声を届けられるのですか」
「声だけじゃない」
俺は、アルへ意識を向ける。
(いけるよな?)
『可能です。主要都市、王都各区画、街道拠点、鉱山、奴隷市場周辺、確認済み収容施設への上空投影を同期します』
「姿もだ」
玉座の間に、銀の粒子が集まった。
小鳥の群れのように渦を巻き、天井へと昇っていく。
そして、光が抜けた。
王都の空へ。
国中の空へ。
銀の小鳥たちが、一斉に羽ばたいた。
王都の広場、冒険者ギルド前、奴隷市場。
検問所を越え、東部の鉱山、山中の収容施設。
果ては遠い地方都市まで。
各地のナノマシンがリンクしていく。
それぞれの上空に、銀色の光が広がっていく。
空に、新王の姿が浮かんだ。
王冠を戴いたエニルカラコスの姿が、半透明の光となって国中の空に映し出される。
人々が顔を上げる。
膝をついていた兵士が。
血に濡れた袖を押さえていた受付嬢が。
首輪をつけたまま檻の中で震えていた奴隷が。
証拠を抱えて逃げ出そうとしていた男が。
みな、空を見る。
エニルカラコスは、一度だけ息を吸った。
そして、国へ向けて語り始めた。
「ラムール王国の民へ」
声が、空から降った。
「余は、エニルカラコス=ヴァン=ラムール。今この時より、第十二代ラムール王国の王として告げます」
王都のざわめきが、消えていく。
空の新王は、逃げなかった。
「この国は、長く魔眼による精神支配を受けていました。旧王も、王宮も、貴族も、官僚も、兵も、民も。その影響から逃れられなかった」
誰かが息を呑む音がした。
玉座の間ではない。
遠いどこかから聞こえたような錯覚があった。
「ですが、魔眼があったからといって、受けた傷は消えません。奪われた命も、壊された家族も、戻りません」
エニルカラコスの声は震えている。
けれど、止まらない。
「旧王は、三日後に王として裁かれます。それまでに、王命として何が行われたのか、すべて証言していただきます」
玉座の間で、旧王は膝をついたまま目を閉じていた。
「また、魔眼を言い訳にできぬ罪を犯した者たちは、爵位も領地も財産も失い、裁きを受けます」
エニルカラコスは、資料に目を落とした。
「モントリィ=カルスト伯爵。アムストロ=ビジン子爵。ロキソル=オルニン侯爵。ザルド=ヴェイガン男爵。宰相、グラシオン=バル=ローデン侯爵」
その名が、空から国中に落ちた。
「その他、証拠のある主犯級関係者。全員を拘束し、断罪します」
その時、空に響く新王の声へ、別の声が重なった。
冷たく、澄んだ、感情の薄い声。
『私は精霊のアル。裁かれる者たちへ告げます』
間が落ちる。
『逃げても無駄です』
空気が変わった。
『証拠を焼こうとする者。関係者を殺して口を塞ごうとする者。財を持って国外へ逃れようとする者。民を盾に隠れようとする者』
無機質な声が空から落ちる。
『すべて、精霊が見ています』
その言葉が、国中に響いた。
そして映像が切り替わる。
王都東区。
屋敷の裏門から、男が飛び出した。
外套の下には宝石袋。腰には小型の封書。顔は真っ青だった。
「馬を出せ! 今すぐだ!」
使用人が震えながら頷こうとした、その時。
屋敷の壁に、銀色の眼が開いた。
『どこへ行くの?』
男の足が止まる。
「ひっ・・・」
別の壁にも眼が開いた。
馬小屋の柱にも。
門の上にも。
『どこへ行くの?』
『どこへ行くの?』
『どこへ行くの?』
男は叫び声を上げて、反対側へ走った。
ふと、石畳の水たまりを見ると、上空に自分の姿が映っていることに気づく。
「あ、あれは・・・俺か!?」
『世界があなたを見ています』
次の瞬間、黒い外套の者たちが門を塞いだ。
「いたぞ! 新王陛下の命により、拘束する」
男は、宝石袋を落とした。
乾いた音が、屋敷の裏庭に転がった。
その後も、次から次へと映像が切り替わる。証拠を燃やそうとしても再生する映像、隠し扉の先が目で埋め尽くされている映像、こうなってもなお奴隷に暴力をふるおうとして、拘束される貴族の映像。
玉座の間で、リブが小さく鼻を鳴らす。
「えげつねぇ精霊だな」
「褒め言葉として受け取っておく」
「褒めてねぇよ」
だが、リブの口元はわずかに笑っていた。
映像が新王に戻る。
空の新王は、さらに言葉を続けた。
「魔眼によって自由意思を奪われていた者を、国は一律に罪人とはしません。一般兵、下級役人、命令に従うしかなかった者たちをすべて裁けば、国は残りません」
王都のあちこちで、顔を上げる者がいた。
「しかし、魔眼の影響下であっても、私利私欲のために便乗した者。命令を超えて加虐した者。証拠を隠した者。人を売り、奪い、殺し、それを利益に変えた者は、個別に裁きます」
その声は、甘くなかった。
「また、私刑を禁じます。罪を忘れろとは言いません。許せとも言いません。ですが、今この場で互いを殺し合えば、この国は本当に終わる」
王冠の重みを受け止めるように、新王は一度息を吸った。
「自ら命を絶つことも禁じます」
その言葉に、どこかで誰かが泣いた。
「それは罰から逃げるためではありません。生きて、償わせるためです。生きて、証言させるためです。生きて、壊したものを直させるためです」
俺は、ギルドで見た受付嬢の血を思い出した。
誰かを助けていなければ、自分が壊れてしまいそうだったヒーラーの顔も。
この命令は、あの人たちに届いている。
今、確かに届いている。
「次に、奴隷について告げます」
ララレアが、空の新王を見上げる。
玉座の間にいるのに、まるで広場に立っているみたいに。
「奴隷を、人として扱う法を定めます。理由なき殺傷を禁じる。虐待を禁じる。家族を理由なく引き裂くことを禁じる。奴隷本人からの訴え出を認める。違法奴隷化の再審査を行う。逃亡を理由とした一律処刑を禁じる」
檻の中で、首輪をつけたままの男が、空を見ていた。
鉱山の入り口で、泥にまみれた小人族の少女が、泣きながら空を見ていた。
奴隷市場跡で、鎖を握りしめた女が、唇を噛んでいた。
「また、不当に奴隷に落とされた者たちのために、王立救済院を設立します」
新王の声が響く。
「魔眼の影響、違法な手段、隷属の首輪、拉致、売買、命令書の改竄。それらによって奴隷にされた者を調査し、救済するための機関です」
ベリスが軽く目を細める。
「治療、保護、身元確認、家族の捜索、職の斡旋。国は、奪った者たちを放り出すのではなく、戻る場所を作る責任を負います」
そして。
エニルカラコスは、王冠を戴いたまま、深く頭を下げた。
玉座の間で。
王都の空で。
鉱山の上で。
奴隷市場の上で。
国中の上空に映る新王が、奴隷とされた者たちへ頭を下げた。
誰も、声を出せなかった。
「奴隷とされた者たちに、余は願います」
命じる声ではなかった。
願う声だった。
「命じるのではありません。願うのです」
新王は、頭を下げたまま言った。
「この国を立て直すために、どうか力を貸してほしい」
王冠を戴いた王が、奴隷に向けて頭を下げている。
その光景は、どんな勅令よりも重かった。
「奪った国が、協力を願うなど、都合が良すぎると分かっています。それでも、願います。あなたたちの力が必要です。この国を、これ以上壊さないために」
国中が沈黙した。
許したわけではない。
信じたわけでもない。
それでも、その言葉は届いた。
檻の中で、誰かが鎖を握る手を緩めた。
鉱山で、誰かが膝から崩れた。
奴隷市場跡で、誰かが空を見上げたまま泣いた。
エニルカラコスは、ゆっくりと顔を上げた。
ララレアが、ぽつりと言った。
「ほんまに、変な王様やね」
軽い言い方だった。
だが、その声は少し震えていた。
エニルカラコスは、玉座の間のララレアを見る。
「そうかもしれません」
「普通、王様は奴隷に頭下げたりせぇへんよ?」
「なら」
エニルカラコスは、王冠の重みに耐えるように背筋を伸ばした。
「余が、最初の一人になります」
マルスが、静かに目を伏せた。
リブは何も言わず、壁にもたれた。
ゾゾルが低く唸る。
「悪くない」
リアも、小さく頷いた。
エマの指が、俺の袖に触れた。
俺は、エニルカラコスを見る。
昨日まで、彼はただの第二王子だった。
兄に王冠を渡され、父を処刑しなければならない、震える若者だった。
今も震えている。
王冠を戴く首も、まだ頼りない。
けれど。
彼は逃げなかった。
最初の勅令は、国を救う魔法ではない。
たぶん、これだけで何かが劇的に変わるわけでもない。
だが、この国がどこから始めるのか。
それだけは、はっきりと示された。
裁くべき者を裁つ。
救うべき者を救う。
逃げる者を逃がさない。
そして、奪ってきた者に、頭を下げる。
エニルカラコスは、もう一度、玉座の間に集まった者たちを見渡した。
「第十二代ラムール国王、エニルカラコス=ヴァン=ラムールとして命じる。これを、余の最初の勅令とする」




